夢幻泡影

「ゆめの世にかつもどろみて夢をまたかたるも夢よそれがまにまに」

長崎に原爆が落ちて68年になりました

2013年08月09日 01時27分56秒 |  これがまあつひのすみかか我が日本


今日は長崎に原爆が落ちてから68年目。

被爆した人々、最初の何年間かは急性原爆症の恐れに苦しみました。
井伏鱒二の「黒い雨」 これには、それまでなんの症状もなく普通に暮らしてきた女性がある日、鏡の前で髪を梳くおうとして、髪がバッサリと抜けてしまう場面がありました。このヒロインは直接被爆ではなく、間接被爆。彼女にとっては原爆症が発症すると言うのは思いもかけないことだったのかもしれません。

たくさんの人々がある日突然発症し、何の手だてもないままに苦しみながら死んで行きました。急性原爆症で亡くなる方が少なくなり、原爆の影響はこれで終わりに向かうと思われていたら、10年ほどして白血病の患者がどんどん増えだしてきました。そして亡くなっていきました。

25年くらい経ってからは今度は癌。被爆者の間で癌で亡くなる方が異様に多いことが知られるようになりました。

それらが発症しなくって、あるいは発症しても幸運にも生き延びられてきた人々がほんの小さな希望を感じ始めた今、それらの人々の間に発症しだしたのがMDSという染色体(遺伝子)の崩壊。これも手当ての方法がなく死に至ります。もしかしたら脊髄移植などの可能性はあるのかもしれませんが、ドナーを探すのは至難の業でしょうし、一番若い被爆者でももう68歳。多くはもっと高齢なのですね。ほとんどの人はその手術に耐える体力もないでしょう。仮にそれができても、ほんの何年か命を長らえるだけで完治の保証は少ないのです。

被曝をした人たち、当人には発症していなくても、その子供たちが奇形で死んで生まれてくる子がたくさんおりました。たまたま義父がその胎児の奇形を研究しておりましたので、その悲劇を見聞きしておりました。

被曝をした人たち、幸いにも今までなんの症状もあらわれなかった運に恵まれた人たち、でもいつまでたっても彼らの隣には死の恐怖が居座っているのですね。
多くの人々、特に子供の時に被爆した人々(それが今残された被爆者たちの多くですけど)にとって、物心ついてから68年もの間、人生のほとんどすべての間、自分の死はいつでも起こりうること、逃れられないその恐怖との戦いだったのですね。
将来の夢、希望といったものを抱くことさえ難しかったのです。

原爆投下から68年。世界の核兵器は増えさえすれ、減る兆しはありません。


手向けの花がありませんでした。
ベランダのバンマツリを一輪だけですが、追加しておきます。