前回、今年最初の投稿を「無為に過ごす」と題して書いた。しかし、これは大変なテーマである。。つきつめれば、老子・荘子の教えだ。中国哲学の中でも高位に位置する哲学で、とても私など俗人が身に着け得る境地ではない。
老子や荘子は、特に無為と言う言葉を使ってむつかしい説明をしているのではなく、「『空っぽ』の大切さ」(老子)とか、「『あるがまま』ということ」、「『役に立たない』ことの意味」(いずれも荘子)などと、身近な出来事を例にとりながら「人の生き方」を説明している。そしてその共通するところが「無為」ということになるらしい。
辞書などによれば、無為とは、「自然のままに任せて」とか、「手を加えないこと」、「作為のないこと」などとなっている。とすれば、前回の私の投稿などは、正月三が日何もしなかったことの弁明に過ぎず、自己弁護のため「手を加えた」という「作為」が見え見えで、全く「自然のまま」とは言えない。
嘆かわしい自分を見つめなおしていると、『レット・イット・ビー』という歌を思い出した。あるがままに、とでも訳すのだろうか? 「素直に生きなさい」と言う邦訳がある。まさに、老荘哲学そのものではないか?
また、暮れの投稿にも掲げた高田エージの『そのままでいいよ』という歌も思い出した。「そのままでいいよ、そのままのお前が一番いい……」という歌で、『永遠だったらいいなあ』と並ぶ高田のヒット曲だ。
『レット・イット・ビー』も『そのままでいいよ』も、それこそ永遠に歌い継がれるのではないか? ビートルズも高田エージも、音楽という芸を極めていく中で、一つの無為の境地に到達したのかもしれない。
(注)『そのままでいいよ』については、2008.12.27と、2010.12.23の投稿をご参照。