狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

旅への誘い 「木曽路を歩く」

2006-04-28 19:44:38 | 年金・老人・身辺雑感

今時の若い者は良く旅をする。

「可愛い子には旅をさせよ」と言う言葉にもあるように、一寸昔までは旅する事は困難を克己するといった意味合いも含まれていた。

成人すると旅は人間の余裕の象徴となる。 勿論ここで云う旅から出張旅行が除かれるのは云うまでもない。

定年になって時間と金に余裕ができて、愛妻と共に歴史や文学の旅をする。

理想の老後と言えよう。

が、人生はそれほど甘くは無い。

ささやかな夢を妨げる障害が次々と行く手に立ちふさがる。

この老後の楽しみも誰もが享受出来るとは限らない。

時間はたっぷりあるが金が無い。

はたまた、金はあるが健康が許さない。

金も時間も健康も大丈夫! さー、妻よ旅に出かけよう。

「貴方一人で行ってらっしゃい!」。

「その代わり私の分の旅費は現金で置いて行ってください!」。

・・・そう、健康も金も時間もあっても、肝心なものが欠けるとこのささやかな夢も成就しないのだ。

その肝心なものは、・・・愛だった!

人間、還暦も過ぎるとその人生も千差万別、必ずしも意のままにならない。
これも又人生なのであろう。

旅には行きたし、還暦後の一人旅も絵にならない。

私の場合、たっぷりの時間と同行してくれる妻はあれども三年前の脳卒中で歩行は三本足のヨチヨチ歩き。  ささやかな夢を叶えるのも難しいものだ。

友の旅話に夢を駆け巡る今日この頃、・・・友人の一人が「友人サイト」に愛妻との旅の紀行文を寄稿した。

人間の記憶と言うものはあてにならないもので、年を取ると特にその儚さを感じる。

一年も過ぎると記憶も朧(おぼろ)になり、折角の旅も只の「楽しい想い出」に終わってしまいがちである。

その記憶の危うさを補おうと大抵の人は記録の写真撮りに必死になる。

中には名所旧跡を自分の目では殆ど見ないで、カメラの目を通してしか風景を見なかったというカメラマニアもいる。

が、写真は風景は記録しても心の動きそして感動は記録できない。

事前に調べたデータと自分で見た風景がもたらす感動を紀行文として残すと、自分の心の記録としてだけでなく、それを読む人に感動や情報のお裾分けが出来る。

学校時代に習った「地理」、「歴史」、「文学」等を全部かき混ぜて渾然と綴った「紀行文」は写真に勝る。 特に老後の愛妻旅行ではなお更のこと。

下記に引用の、その友人寄稿の「木曽路を歩く」で旅心を誘われてください。


◆「木曽路を歩く」

中山道は江戸日本橋から京都三条大橋間を結ぶ重要な街道であり、69宿ある。
その中で木曽路には11宿、風土と景観がそこにあったということが、木曽路と言われる所以だという。

江戸時代の宿場の風情を色濃くのこしている千本格子の家々や石畳の道、古びた柱、煤けた天井、まさに江戸時代にタイムスリップをしたような異空間を感じる。

これを保存、維持管理をするのがたいへんなことだと思う。
そこに住む人たちの歴史を大切にする心が感じられる。

今回の旅は馬籠宿~妻籠宿間約9k、高さ約800m(馬籠峠)と薮原宿~奈良井宿約7k、高さ1197m(鳥居峠)の行程だった。

・馬籠宿~妻籠宿
 馬籠は明治の文豪、島崎藤村の故郷であり小説「夜明け前」は黒船襲来から明治維新前後の激動期に生きた父の歴史(小説では青山半蔵)を追体験しようとしたものである。
激動の時代の中、江戸の事件が中山道をとうして宿場町にも伝わって来て、地域の問題等も絡ませながら時代が変わっていく。
そんな時代背景の中で木曽谷の人々の生き様をえがいている。

小説の冒頭は「木曽路は全て山の中である。あるところは岨(そば)ずたいに行く崖の道であり、・・・・一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。馬籠は木曽11宿の1つでこの渓谷の尽きたところにある。西よりする木曽路の最初の入り口に当たる。」から始まるが、今でもそのまま昔の状況がよく伺える。

 古(いにしえ)の旅人が行き交い、参勤交代の行列、そして芭蕉や正岡子規等が通りぬけた歴史を物語る街道。 その踏まれ磨り減った石畳を自分も踏み込んでいくかと思うと何か感慨深いものがある。

昔のままにゆっくり、のんびり、てくてく回り道をし、そして坂道を登り、下る。
ときには額の汗を拭きながら妻と語らい、そぞろ歩くのが木曽路には良く似合う。

宿場には所々に直角に曲がった道がある(桝形)。
これは幕府により防災施設として又、敵の侵入を防ぐために設けられたという。

また大名や武士は「本陣」「脇本陣」と言う所があって、そこに宿泊した。
島崎家は本陣と庄屋を兼ねていたという。

・薮原宿~奈良井宿
 間に1197mの鳥居峠があり、かって深い山を分け入って進む古道は江戸の旅人にとってわらじ履きの足をなかせる屈指の難所だった。
菊池寛の「恩讐の彼方に」の中で、主人公市九郎は主人である中川三郎兵衛を殺し、妾(お弓)を奪い逃げ延びて来た。
そして、ここ鳥居峠で茶屋を開きながら旅人を襲い悪事を働いた。
その後改心した主人公は僧侶になって大分の「耶麻渓」で苦節21年の末トンネルを掘ることになる。

また、皇女和宮が京都から徳川家(家持)へ御降嫁される際もここ、薮原宿から峠越をし、お供の数は2万5千、行列の先頭が入宿し、最後尾が通過するまで4昼夜かかったと伝えられている。

樹齢数百年ものヒノキ、スギや栃の木、白樺。
森にひっそり咲きこぼれる可憐な草花。
一歩一歩、季節を踏みしめ、大地の生命力に見とれながら、木々との出会いに喜ぶ森の散策。

途中雪もちらつき、また頂上に雪をかぶった中央アルプスや南アルプスの連山が見え隠れする。
その自然の壮大さに圧倒される。

短い旅ながら多種多様な花々にも出会うことができた。
山ザクラ、山ツツジ、花ミズキ、花モモ、・・・・・・・。
道脇に咲くカタクリの花、水仙、レンギョ、雪柳、・・・・・・・等。

もう中山道一体が花・花・花・・・の世界であった。

伊那市の高遠城址公園では約1500本ほどの小彼岸ザクラが一斉に咲き誇っていた。

今が満開。 まさに荘厳そのものであった。

愛妻と共に自然を歩く楽しさを充分満喫し帰路についた。
 
 
眞榮平勝


 

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老教授の苛立ち

2006-04-28 08:42:30 | 未分類

「もう一人の老教授の怒り」で亀川教授の事をを書いたら、教授の元教え子で私の友人でもある福原さんから恩師を懐かしむコメントを頂いた。

もう一人コメントを頂いた「横浜のかっちゃん」も沖縄出身の友人である。

狼魔人日記の拙い文を読んで貰えるだけでもありがたい。

それにコメントまで貰えると元気が出て、例え駄文でも書き残す事に意義ありと己に言い聞かせ、萎えかかった意欲が又蘇って来る。 両君にはこの場を借りて感謝します。

やはり郷土の先輩が活躍している噂を聞くのは嬉しいもの。

が、かく云う私は亀川教授に個人的面識はない。

・・・いや、何度か安酒場のカウンターで並んで酒を飲んだことはあった。
とはいってもお互い別の連れがあって、偶々隣で飲んだに過ぎず教授の記憶にあるはずは無い。  著名人をこちらが一方的に認識したと言うに過ぎなかった。

あれは確か今から9年ほど前のこと。
 
1997年の暮れ頃から翌年の1998年にかけて、那覇市の桜坂と言う飲み屋街にある安酒場が私の友人達の溜まり場だった。

教授は偶にその酒場で、これも友人らしき同世代の紳士と一緒に良く談論されているのをお見かけした。

丁度その頃は知事三選を狙う現職の大田知事と対立する新人の稲嶺候補が激しく選挙戦を戦っている時期であった。

再三このブログでも書いているが沖縄は革新勢力の最後の聖地。

地元メディアは選挙戦では中立をを装いながらも明らかに、革新の大田陣営に好意的な報道を連日流していた。

亀川教授は大田知事を批判する立場にいたが、地元メディアには大田批判の場所は無かった。

それで件の安酒場等で、著者の名は失念したが「茶柱が倒れた」と云う大田県政を批判した本を飲み客に勧めていた。

その時の印象は団結して大田候補側に立つ地元メディアに対して、書店でも余り見かけないような本で老人が一人立ち向かっていると言った、今考えると失礼な印象であった。

多少誇張して言えば、失礼ながらブルドーザーに立ち向かう蟷螂(かまきり)のような・・・。

教授の地元メディアに対する苛立ちはその後「世界日報」に掲載の文章のタイトルに伺い知る事ができる。

「無神経な沖縄在米軍撤退論」(2006年1月24日)
「沖縄で思う真の言論の自由」(2005年11月25日)
「『ひめゆりの塔』と憲法」(2005年8月2日)


知事選の結果は圧倒的大田優勢かと思ったが、亀川教授の安酒場での地味な応援のせいなのか、新人稲嶺の圧勝であった。

その時太田陣営の応援に沖縄に来ていた筑紫哲也氏は、地団太踏んだように悔しがる文を沖縄タイムスに寄稿している。


                   ◇


◆沖縄タイムス  <1998年11月22日> 朝刊 1版 総合1面(日曜日) 
 
[筑紫哲也の多事争論かわら版]

 大田さん 輝いていた沖縄の知事

 「残念だ」「がっかりした」。

 沖縄県知事選挙の取材から戻ってきた私は、未だにこの二種の感想にしか出会っていない。

 選挙結果と引き較べると、どうやら大田昌秀氏は、当の沖縄より本土の方が人気があったのではないか、と思えるほどである。

 普段は沖縄のことにそう関心を持っているとは思えなかった人たちの口から、そういう感想を聞かされると、なぜなのだろうと考えてしまう。

 そういう人たちをふくめて、全国的知名度のある唯一の沖縄の人が、安室奈美恵さんを除けば、大田さんだったということが、まずある。沖縄から本土に向かって何事かを問いかけ続けた「発信体」であり、「象徴」でもあった。

 "大田人気"の第二の理由は、その発信のなかみである。そこには、中央政府への「抵抗」、異議申し立ての要素が多分にふくまれていた。

 週末は東京以外の全国各地に身を置くことを習慣にしてきた私は、地方保守政界にすら根強い大田人気、と言うより期待があることを発見して驚いたことがある。箸の上げ下ろしまで指図しかねない中央集権、権力の一極集中にうんざりしてきた人たちは、米軍基地をいわば"人質"にして中央政府に抵抗を示す大田さんがどこまでやれるかを、半ばわがことのように注視していたのである。


 人気の第三の理由は、大田さんがこの国の諸々の指導者のなかで珍しく、理想、理念、原則を語り、それに従おうとした人物だったことだと思う。時あたかも、中央ではそれらを全て欠いた権力争い、離合集散が続いたから、この対照は一層鮮やかであり、「いっそ大田さんを首相にしたら」という巷の声ともなった。

 この夏、私がかかわっている郷里の市民大学は、二日間にわたる特別講座を催した。参加者も全国各地から集まったが、講師も中坊公平、菅直人の各氏をはじめ、多彩な顔ぶれで、大田知事にも加わっていただいた。「これからの日本をどうする」という大テーマに、沖縄は外せないと思ったからである。

 「大田さんの輝きの前に、わが県の知事は色あせて見えた」と地元参加者が感想を語った。「わが県の知事」は、実績も個性もあり、他県とは群を抜いた存在だと私は思ってきたのに、である。

 結果的には、第二、第三の理由は選挙戦で大田さんの足を引っぱることになった。そして、沖縄は有能な「スポークスマン」を失うことになった。沖縄だけでなく、この国のありようを問い、考えさせてくれた大田さんに「ありがとうございました。そしてご苦労さまでした」と申し上げたい。

 「残念」「がっかり」の感想のなかには、自分たちが自分たちの場でなすべき努力を棚上げして、他者にそれを期待する、例によっての身勝手がふくまれている。が、現実として、そういう人たちの沖縄への関心は当面は潮が退くように遠くなるだろう。「中央とのパイプ」の代償に、そういうこともあることを覚悟して、稲嶺さんにはがんばっていただきたい。

                   ◇

「選挙結果と引き較べると、どうやら大田昌秀氏は、当の沖縄より本土の方が人気があったのではないか」と思える大田昌秀という人物はメディアが作り上げた虚像である事をそのメディアの先頭を切る筑紫哲也氏は気がついていなかった、・・いや、今でも気がつかない。

何よりも「民意」は大差を持って大田候補を否定していたのだ。

尤もこの「民意」ほど当てにならないものは無いが、ここでは深入りしない。

筑紫氏は復帰前(施政権返還前)朝日新聞の沖縄駐在員として沖縄タイムス社の中に事務所を構えていた。

今でも沖縄は好きらしく、時々沖縄を訪れていると言う話を聞く。

その時、彼の周囲に集まる人々は当然の如く地元メディアや筑紫氏を慕う一部のインテリ層である。

何度も繰り返してきたが、沖縄は一握りのインテリに「民意」を握られている。

筑紫哲也氏が半世紀以上前と全く同じの思考停止状態に陥るのもむべなるかな、である。


                   ◇

話は老教授から大田前知事、筑紫哲也氏へと脱線していったが、亀川教授に話題を戻そう。

前に亀川教授と大田前知事は同世代だと書いたが、実際は10年ほど教授の方が先輩に当たる。 驚いた事に現在90歳になられると言う。

「山岡コラム」の中で紹介されている「長命よ長寿で長生きを」で次のように意気益々盛んな様子を書いている。「http://www.asahi-net.or.jp/~VB7Y-TD/k7/170929.htm

(・・・略・・・)
百歳どんと来いの意地と執念

 私は今年九十歳になる。辛口の評論を書き続けて六十年になる。その間、琉球大学教授
 時代に学長の話があったが、頑として固辞した。自由な言動が制約され、偽善のパフォ
 ーマンスをしなければならす、物書きとしてペンを折るのがつらかったからだ。

 アンドレ・ジードはかつて、安息の日々を送るよりも絶望の日々を送れと言った。文学
 や物書きの世界に生きる者にとって、個性、野放図、知的野人こそが健康の母体なので
 ある。「伸びんとすれば、敵をつくれ」は私のモットーだ。

 縁側に寝そべって日向ぼっこをする猫の姿勢や個性を殺し世間の鼻息をうかがう姿勢か
 らは文学、芸術は花が咲かない。偽善の中で名誉と安全を保護され安易な夢を貪る姿勢
 からは、教訓や説教は生まれても、文芸は生まれるものではない。

 八十歳を過ぎれば、残りの人生は儲けもの。老後は自分のために自由に使ってよいと思
 う。「自分の寿命は神様まかせ」と考えるのは消極的だ。「百歳どんと来い」という意
 地と執念が無ければ長寿はできない。

 一人しかいない自分、一度しかない人生。人間は明日の命があるかどうか分からないか
 ら、今日を精一杯生きることだと思う。老醜と若さの違いは、日頃の生活習慣と食事に
 ある。遺伝子の解明が進歩すれば、人は百二十歳まで生きることができるそうだ。自然
 の摂理に反する者は病気になる。

 

 

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