今日はGW連休の第一日。
朝からどんより曇っていると思ったら、先ほどから雨もパラついてきたようだ。
ガラス戸超しに見える路面が湿って見える。
午前10時というのに部屋の中は薄暗い。
朝っぱらから明かりをつけなきゃ新聞も読めやしない。
「暗い日曜日」だ、・・と思ったら今日は土曜日だった。
何の祭日かと聞いたらミドリの日、・・そう、以前は天皇誕生日だった。
今日のブログ更新は昨夜の内に友人の奇行・・いや、紀行・・でもなく、「寄稿文」で手抜きをさせてもらった。
手抜きついでに新聞コラムで、もう一つ手抜きを。
小学校からの英語教育について、開国派と攘夷派に分けてその間を揺れ動く親心が垣間見えて興味深い。
今日の「世迷言」氏はいつに無く迷っているようだ。
◇
◆東海新報 「世迷言」☆★☆★2006年04月29日付
小学生から英語を習わせよ、という意見がある一方、それよりはきちんとした日本語を教えることが先決、という反対論もあって、かんかんがくがくの世上だが、なにやら開国派と攘夷派の争いに似た趣きを呈してきた▼戦後の大きなキーワードは「国際化」で、極端に言えば、「国際人にあらずんば人にあらず」といった風潮が弥漫(びまん)するようになった。要するに世界平和を希求するには、国境の壁を超えて相互理解を深めなければならない。それができるのが国際人だというわけだ▼その国際人になるためには、意思疎通のための道具、つまり共通理解言語が必要であり、少なくとも英語ぐらいは覚えなければならない、という理屈がまかり通っている。英語を話せば国際人になれるなら、英語圏の人間はみな国際人かという屁理屈はともかく、国際交流が盛んになっても相変わらず紛争が絶えないのは原因が別なところにあることは明らかだ▼とはいえ、英語を話せるにこしたことはない。しかし英語を何年習っても読み書きはともかく、会話はまったく苦手というのが日本の英語教育だった反省に立ち、小学生から習わせろ、というのが開国派。だが、攘夷派も負けてはいない。「日本語もろくにできないで国際人になれるわけがない。従来通りでいい」と、むしろ国語教育の充実を訴える▼話せぬ英語を習った?体験から、小欄は多少開国派だが、数学者で「国家の品格」を書いた藤原正彦さんの「読み書きそろばん第一」「一に国語二に国語、三四がなくて五に算数」説にも傾く。英語にも強い人の発言だから、説得力があるのだが、何も正課とはせず、土曜休校日や放課後の自由選択科目にするといった方法もあるのではないか。