以下はPJニュースの転載です。
地図が変われば、世界の見方が変わる【PJニュース 08月31日】- 日本人にとって見慣れた世界地図(写真上)。いささか古いものであるが、国境は変わっても大陸の形が変わる訳ではないので、お許し願おう。つまりは、この世界地図に慣れていると、アメリカは隣の国で、何故かアジアはとなりのような気がしなくなってくる。そう、感じるのは、私だけであろうか?
写真下の世界地図も古いもので恐縮なのだが、これしかないのでお許し下さい。日本人には、見慣れない世界地図だが、ヨーロッパ・アメリカの人々は、この地図の感覚で世界を見ている。日本とは、世界の東の端なのだ。そして、アジアの一角にあることが、よくわかる。これからの日本は、この地図のように日本から西、つまりはアジアと仲良くする必要がある。それには、過去をキチンと清算する必要がある。この広いアジアの多くの土地で、日本人は迷惑を掛けたのだから。 多くの日本人が、写真上の感覚で世界を見ているし、考えている。それは、欧米人からすると、ちょっと感覚が違うこと納得して頂けただろうか?【了】 ◇
「地図が変われば世界の見方が変わる」という上記記事の筆者の意図は良く分かる。
以前良く使われた「中近東」や「極東」と言う概念は下の地図を見ると良く理解できる。
自らを「極東貿易」と名乗る日本の会社もあるくらいだ。
だが、同記事最後の部分の、日本はアジアの一部だからお隣さんのアジア諸国とは仲良くしろ、という結論には必ずしも賛同できない。
だからと言って、好き好んでお隣さんと喧嘩をせよと言うわけではない。
勿論隣の国に限らずどこの国とも仲良くできればそれにこしたこと無い。
だが、ただ隣国だからという理由で、付き合いたくないという国と無理に付き合うのは卑屈な土下座外交の愚を犯しかねない。
桜井よし子女史は中国との関係について「日本と仲良くする気のない国と『仲良くしよう』というのは卑屈なだけ…中国とは『仲良くしたい』と思わなくて良い」と明快に断じる。
中国との付き合いには「なかよくしよう」,つまり「友好」と言う言葉を枕詞に使う習慣がある。
この「友好」と言う言葉に惑わされて臍(ほぞ)をかんだ日本の企業は多い。
自治体でも「福建沖縄友好会館」を乗っ取られた沖縄県の話は当日記でも書いた。(消えた友好会館 沖縄と中国)
桜井女史の対中外交論は続く。
≪中国と仲良くしたいと思わなくていい。中国とは緊張含みが常態で、それを苦にならない くらいでいいと思いますよ。今の中国は日本と仲良くする気はありませんから。仲良くする 気がない国と仲良くしようというのは卑屈になるだけですから、ほどほどが一番良いと思いますね。中国の中の民主化の勢力を日本政府が支援するのは、あまりにも露骨でしょうが、何らかの形でその人たちを応援していくのを戦略として推進すべきだと思います。(産経新聞8月23日朝刊・東京版)≫
次に別の人の「東アジア外交論」を新聞記事から一部引用するので一読願いたい。 このような卓見を誰がいつ何と言う新聞に書いたのか。 敢えて筆者の名前は最後まで伏すが、ヒントは日本人なら知らぬ人がいないほどの超有名人である。
≪日本は、国土はアジアにありながら、国民精神においては西洋の近代文明を受け入れた。ところが日本の不幸として立ち現れたのは近隣諸国である。そのひとつはシナであり、もうひとつは朝鮮である。この二国の人々も日本人と同じく漢字文化圏に属し、同じ古典を共有しているのだが、もともと人種的に異なっているのか、それとも教育に差があるのか、シナ・朝鮮二国と日本との精神的隔たりはあまりにも大きい。
情報がこれほど早く行き来する時代にあって、近代文明や国際法について知りながら、それでも過去に拘り続けるシナ・朝鮮の精神は千年前と違わない。この近代文明のパワーゲームの時代に、教育といえば儒教を言い、しかもそれは表面だけの知識であって、現実面では科学的真理を軽んじる態度ばかりか、道徳的な退廃をももたらしており、たとえば国際的な紛争の場面でも「悪いのはお前の方だ」と開き直って恥じることもない。(略) もはや、この二国が国際的な常識を身につけることを期待してはならない。「東アジア共同体」の一員としてその繁栄に与ってくれるなどという幻想は捨てるべきである。 日本は、むしろ大陸や半島との関係を絶ち、先進国と共に進まなければならない。 ただ隣国だからという理由だけで特別な感情を持って接してはならないのだ。 この二国に対しても、国際的な常識に従い、国際法に則って接すればよい。悪友の悪事を見逃す者は、共に悪名を逃れ得ない。私は気持ちにおいては「東アジア」の悪友と絶交するものである。(明治18年3月16日・時事新報ー福沢諭吉の「脱亜論」)≫ 明治18年福沢諭吉は、120年前のその時、既にシナ・朝鮮の本質を見抜いていた! |