狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

反日映画・『パッチギ!LOVE&PEACE』に国民の血税投入って?

2007-06-02 20:08:58 | 年金・老人・身辺雑感

「駄作、愚作といったレベルではない。もはや、井筒は映画制作を今後一切放棄すべしと思わせるほど全編、半日思想一色に塗られた吐き気を催す作品である。これほど前に、極端に偏向した映画をボクは観たことがない。大げさではなく、朝鮮労働党が作る洗脳メディアとしての将軍様マンセー映画と何も変わりはしないと言って構わない。

(略)

在日=善。人の心がわかる、素晴らしき民族。日本人=悪。侵略戦争を冒した愚かで汚い人間。「LOVE&PEASE」は、この実に安易で無知な歴史観と思想を押しつけるプロパンダ映画と断言していい。在日の人々が日本で暮らしていく中で、大小の差別を受けることはあるだろう。ましてや、本作の描く74年当時は、現在より露骨だったのかもしれない。
が、映画人として表現者として、井筒が無様なまでのバランスを欠いた作品を作ったことはまったく別問題だ。

(略)

在日と同じ弱者であるとでもいいたげな、孤児院育ちの藤井隆演じる日本人青年の意味不明さ。アンソンの子供が不治の病であるという安直な設定。何もかもが、一方的な被害者意識に立ったゴミ映画。井筒をはじめこの映画に関わった全てのスタッフ、全ての俳優をボクは心底嫌いになった。  」(ヤフー映画評より)

 

こんなにまで悪評プンプンの反日映画・『パッチギ!LOVE&PEACE』が文化庁の推薦を受け3000万円の支援を受けたと言うから驚いた。

「LOVE&PEACE」さえ声高に叫べば、文化庁の推薦を受けられるなら文化庁推薦映画なんて素人でも簡単に作れる。

詳しくは「この国は変だ!よーめんのブログ」さんでどうぞ。http://youmenipip.exblog.jp/5510731

文化庁への電凸の音声は見事です!

 

◆参考エントリ:

映画・『パッチギ!LOVE&PEACE』 どうして「愛」と「平和」なの?

 

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李登輝氏講演会 「中国と対等の力を」 「台湾は日本の生命線」

2007-06-02 07:58:39 | 県知事選

◆「中国と対等の力を」李登輝氏が講演で日本に注文へ (読売 07/6/2)

http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20070602i501.htm?from=main5

 来日中の李登輝・前台湾総統(84)が、7日に都内で行う講演の内容が明らかになった。

 本紙が入手した「2007年とその後の世界情勢」と題する講演原稿によると、李氏は、米政権がイラク問題などで弱体化するなか、「長期的に見て、中国と米国による太平洋制海権の争奪戦は避けられない」として、日本に対し「安倍政権時代に中国と対等に張り合う力を持つよう努力すべきだ」と注文をつけている。

 明言は避けているものの、安倍政権が進める憲法改正作業や集団的自衛権行使に向けた動きなどに対し、支持を示したものと見られる。

 原稿には、中国の金融危機の可能性を指摘するなど、「対中けん制」発言も随所に見られ、李氏来日に反対し、「政治的発言」に神経をとがらせる中国政府が反発するのは必至だ。

 李氏の訪日は、総統退任後3回目だが、これまでは日本政府に配慮し、講演や記者会見は行わなかった。「世界情勢」に関する講演は、都内のホテルで政財界人ら約1200人を招いて行われる。

                                            ◇

「政治的発言」に神経をとがらせる中国政府が反発するのは必至だ。

読売は信頼できると思って、前もって講演の原稿内容を伝えたと思われるのに。

朝日を真似て、中国の「神経」を心配するのは大きなお世話だ。

少なくとも北京オリンピックまでは万事まるく抑えたいのが中国の本音。

挙げたくも無い拳を無理やり挙げさせるつもりなのか。 

中国の「家庭の事情」を読み取った上での、李氏の突然の「靖国参拝希望」であり 「対中けんせい」等の「政治的発言」の筈。

これらの先制攻撃で李氏は日本国内での(政治的)発言、行動を既成事実として着実に作って行く考えと当日記は推察する。

【追記】08:52

日本のマスコミよ、私人である李登輝氏の発言で一々中国の顔色伺うような暇があるなら、中国の大学教授、知識人たちの発言にも目を配れ。

彼らが日本の大学やマスコミで行っている日本及び台湾非難は、もっと露骨で激しい。

何度でも言おう。

日本は中国の属国ではない。

                    ◇

これからは日本の番だー李登輝氏のメッセージを受け

                台湾研究フォーラム会長 永山英樹
                http://mamoretaiwan.blog100.fc2.com/

本日都内で催された後藤新平賞の授賞式に出席した李登輝前総統は、「農業学者として台湾経済の発展に寄与できたことは最高の喜びであり、総統として一滴の血も流さずに『静かな革命』と呼ばれた台湾の民主化を行うことができた。新たな台湾政府を設立できたのは私の一生の誇りだ。後藤新平が進めた台湾開発の基礎の上に、民主化
を促進した私とは無縁ではない」と、受賞の喜びを語った。

後藤新平総督府民政長官をはじめ、戦前に台湾の建設に尽くした多くの日本の先人にとり、これほど嬉しい言葉はないのではないかと思う。

さて式典後に開かれた記者会見で李氏は、「日本と台湾は生命共同体だ。台湾にいったん何かあればすぐ日本にも響く。台湾海峡問題も日本の大きな一つの問題だ」とした上で、「二国は外交関係がなく、単なる赤の他人みたいな形になっている。赤の他人ではいざというときに何もできない。こういう困難を抱えつつも(日本の)政治家は台湾と付き合っていくべきだ」と強調した(日台関係強化の問題に関する櫻井よしこ氏の質問を受け)。

「台湾は日本の生命線である」と初めて唱え、日本人の覚醒を促し続けてきたのが李氏である。そしてそのような李氏の日本への影響を恐れたのは中国政府だが、その中国政府に配慮して、李氏の日本での発言に規制を加えてきたのが日本政府だった。

つまり敵への警戒を懸命に呼びかけてくれる友に対し、敵を恐れてその口を封じると言うのが、これまで日本人がやってきたことなのである。

しかしもう過ぎたことである。李氏は今日、このような形で眠れる日本国民に対し、メッセージを発してくれたのだ。まずは何よりも感謝しよう。

しかし感謝するだけではだめである。李氏は今日こうも言った。「自分はすでに政治的な力はないが、それでも個人として二国関係の促進には努力している」と。

これを聞いて奮起しない者は日本人ではない。これからは、いよいよ日本が「努力」する番なのである。(19.6.1)

 

 

 

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李登輝前総統の講演「後藤新平とわたし」

2007-06-02 06:44:32 | 県知事選
「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 
平成19年(2007年) 6月2日(土曜日)   
通巻第1815号 (6月1日発行)  
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(速報)
「わたしは後藤新平の台湾施政を民主台湾の政治の土台にした」
   李登輝前総統、後藤新平賞受賞記念スピーチで強調
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 6月1日午前、六本木の国際文化会館は早朝から異様な緊張に包まれた。
日頃ならのんびりとテラスで喫茶する外国人宿泊者、新聞をたたむ音しか聞こえないロビィの静けさ。誰もが愛でる日本庭園の美しさ。
独特の静謐は警備陣と報道陣によって一瞬に掻き消された。
 
 第一回「後藤新平賞」に決まった李登輝前台湾総統が記念講演をするからである。
 世界から報道陣がおよそ120名。SPが数名。台湾から随行してきたカメラとテレビクルーも目立ち、ぎっしりと会場の余地を埋めた。日本の台北特派員も随行してきている。
 テレビカメラがずらりと会場の右側と後方を占め、身動きがとれないほどの熱気に溢れた。
参会者はイス席定員120名に対して200名以上。ぎっしりと立ち見も出たが、さらに一部は入場できなくロビィに屯する有様だった。

 偶然、小生の隣席は竹村健一氏、すぐ二人して控え室にいる李登輝総統に挨拶に行った。
控え室には総統ご夫妻を囲んで中嶋峰雄氏、粕谷一希氏、金美齢女史、台湾から同行してきた黄昭堂氏ら。
会場には許世楷(台北駐日経済文化代表処代表)はもちろんのこと、岡崎久彦、櫻井よし子、大宅映子、日下公人、花田紀凱、塩川正十郎、住田良能(産経社長)、小田村四郎氏らの顔もあった。

 授賞までの経過説明を主催者の藤原書店代表が述べたあと、粕谷一希(元『中央公論』編集長)が選考審査過程を披瀝され、受賞牌の贈呈。副賞はシチズンの置き時計で、理由は「シチズン」の銘々が後藤新平による由。

 
 ▼改革への情熱と先見性

以下は李登輝前総統の講演「後藤新平とわたし」の要旨である。

 「後藤新平の生誕百五十年を記念して全集が藤原書店から刊行され、「後藤新平賞」が新設されたことは画期的で、新しい時代の指導者育成を目的とする栄誉に初回に輝けたことを光栄に思う。
 後藤新平は1857年生まれで、1929年に没した。私は1923年生まれ、交差していないが、精神の空間で結ばれている。

 後藤新平は1898年3月から1906年9月まで、8年7ヶ月を台湾民政長官として過ごし、未開だった台湾の近代化のために成し遂げた功績は大きい。その生い立ち、功績、人間としての偉大さを私は深く心に刻み込んできた。
 後藤は貧窮のどん底から立ち上がり、医者から衛生局長となり、1895年児玉源太郎の推挙によって台湾へ赴任した。
かれの復員傷兵の帰国に際しての検疫能力を高くかったから、とされる。

 当時の台湾は匪賊が跋扈し、ペスト、赤痢、チフス、毒蛇が蔓延して、不衛生極まりなく、漢族と原住民部族の対立があり、産業は未開のまま、およそ近代化には遠い状況だった。
 後藤は台湾近代化、台湾の開発に何が目的であり、その目的達成のためには何が大切かを考えて、明治政府の全面的な支援の元に諸改革を実行に移した。

 第一は人材の確保であった。1800人の無能の役人を馘首し、新しい人材を適所に配置した。この中には新渡戸稲造も含まれていた。

 第二に匪賊対策を従来の路線から変更し、単に匪賊を退治するのではなく労働の現場へ配置しなおして、かれらを生産、建設に役立てて任務を教えた。

 第三に「保甲制度」、つまり地方自治の確立である。
 住民の自治を尊び、交通を整備し、戸籍制度の充実と整備をなした。同時に自治の責任を持たせた。

 第四に劣悪な衛生環境を改善し、マラリアなどの退治のために血清の研究と同時に田舎にも医者を配置して政府派遣として医療行政を実地した。
都市部では下水道の整備を急いだ。

 第五が教育の普及である。
(ほかの列強は現地植民地を搾取するばかりで教育をおざなりにしたが)日本は台湾の植民地経営を教育から開始したのだ。

 第六に開発近代化の財源を確保するために地方債券を発行し、内地(日本)の国会の承認を得た。
これにより土地改革がすすみ、鉄道が敷設され、基隆港が整備された。

 第七は「三大専売法」を施行させたことだ。
阿片,樟脳、食塩、酒、煙草が専売となり税金収入が公債の返済に充てられた。

 第八に「台湾銀行」が創設されて台湾銀行券が流通、また「度量法」が統一され、それまで台南と台北で異なった重さや長さの図り方が統一された。

 第九は産業の奨励で、砂糖、樟脳、茶、こめ、阿里山森林の開発が進められて開発が軌道に乗る。

 第十は貿易の拡大であり、そのために外国資本が独占していた商船の運搬を民間にも広げた。

 第十一に後藤の「南進政策」がある。
当時、アモイ、香港への投資も開始され、アモイには台湾銀行支店が設置を見た。

 第十二に国民の生活習慣のなかで弁髪、纏足など悪習を禁止した。
 
 後藤はその後、満鉄総裁として満州に赴くが、もし、台湾に留まっていれば、台湾の行政はさらに異なったレールを走ったことと思われる。


 ▼なぜ、日本人はああまで情熱的だったのか?

 生誕百五十年を待たずに後藤新平の研究がおおいに進み、許文龍氏をして、
「台湾への政策は素晴らしかったけれども、なぜ、日本人はあれほどの情熱を燃やして台湾の近代化に努力したのか」と問いかけている。

とくに拓殖大学で、この研究が進められた。
池田憲彦前拓殖大学教授は「まず明治天皇の御叡慮があり、新しい版図への使命観があった。みずみずしい感受性と、ひるまない精神、つまり『肯定的思考』が多くの勇断を運んだと指摘している。

 いま84歳になる私は、台湾人として生まれた悲哀と、同時に22歳まで日本人だった私が、日本の教育を受け、『肯定的人生』という人生観を体得して、農業の改革に着手し、その後、台北市長、台湾省省長を経て、副総統、そして十二年間にわたって総統として、一滴の血も流さないで台湾に民主化という“静かなる革命”をもたらすことが出来たことを一生の誇りとする。
これらは後藤新平の台湾施政への哲学的基礎の上になりたっており、今日の台湾の民主と繁栄が築かれてきたのだ。

 その精神的な繋がりの空間で、世代と時間をこえての共通の価値があり、だから私は後藤新平を敬愛してきたのである」。

感動的な講演にしばし拍手が鳴りやまなかった。

     
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