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狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

マスコミ演出の或る「情景」★本土風の名前

2008-03-09 07:41:45 | ★集団自決

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■村民と元軍人の交流・・・全く異なる二つの情景」■

集団自決のあった悲劇の島渡嘉敷と座間味。

この二つの島の住民達は戦後慰霊のため島を訪れた元軍人達にどのように接したか。

それを象徴する一つの情景がある。

島の慰霊祭に訪れた元軍人を島の住人が港で取り囲み、「何しに来た、帰れ!」と面罵するシーン。 

つい最近では1月25日、同じ情景が座間味埠頭で藤岡教授の調査団に対して行われた。(沖縄タイムス記事)

この調査団には元軍人の皆川氏や知念氏が加わっており、「憎悪に燃える住民VS残虐非道の元軍人」の構図がマスコミが期待する通りに展開された。 

残虐非道の“者”ともいえる元軍人がおめおめと島を訪れるという象徴的な「物語」は大江健三郎の『沖縄ノート』で作られた。

島の慰霊祭に訪れた赤松元隊長を空港で待ちうけ「何しに来た! 帰れ!」と面罵する「村人」の物語である。

「座間味埠頭のトラブル」でもそうだが、何故純朴な村人たちが元軍人の行動日程を正確に把握してマスコミ同伴で待ち受けていたかについてはさて置こう。

その一方全く異なる元軍人と村人たちの交流シーンがある。

戦後何回と無く島をを訪れた元軍人グループと住民が再開を喜び和やかに交流する全く別の情景である。

ただ、前者の「帰れ!」の抗議文を突きつけるシーンは必ず多くのマスコミの影が付き纏い逐一というよりむしろ誇大に報道されるのに対して、後者の住民と元軍人との和やかな交流シーンを報道するマスコミは皆無である。

『沖縄ノート』が伝えた住民による「赤松帰れ!」の情景の4年後の昭和59年に撮影された一枚の記念写真がある。

そこに写っているのは憎んでいるはずの元軍人と村人の約70名の和やかな姿と笑顔である。

渡嘉敷の港を背景に村民や地元の婦人たちに囲まれて、にこやかに記念撮影に収まるのは紛れも無く「憎むべき日本軍」のはずの元赤松隊一行である。(昭和59年撮影)

この「不都合な真実」を物語る記念写真はここで見れる。(写真は最後の部分)⇒ 日本軍は命がけで沖縄県民を守った!Ⅱ

地元マスコミが決して報じることの無い「住民と日本軍の関係」は再度引用する宮平さんの証言でも語られている。

『座間味島集団自決の証言者・宮平秀幸さんとの出会い』
藤岡信勝/自由主義史観研究会代表・拓殖大学教授 (08/2/25
 

◆住民と日本軍との関係は「最高」

(略)座間味が特攻の秘密基地になったこと、10・10空襲で那覇がやられて武器弾薬の補給も途絶えたこと、3月23日に空襲が始まり激しい攻撃を受けたこと、などの話が続いた後、井上キャスターが尋ねた。

井上:今日、いろいろな所を見て参りましたが、住民の方とここに駐留しておりました日本軍の兵隊さんとの関係は非常に良かったと…  

宮平:ああ、もう最高ですよ。年寄りが古座間味という山を越したところにイモやイモの葉っぱを担いで運んでいるとき、隊長と兵隊さんがそれを見まして、(梅澤隊長が)「手伝ってあげないとかわいそうだよ。あんなに働いているのも、みんな国のためだよ。私たちと同じだよ。担いであげなさい」と言いました。それで兵隊さんが鉄砲を同僚に預けて重い物を担いでやったんです。それからまた、兵隊さんは全部民宿ですから、朝晩の食事一緒なんです。おいしい物があればあげて、まずいものでも一緒に食べて、家族同様の生活をしていました 。  

                      ◇

■本土風の名前■

沖縄タイムスを先頭に左翼勢力が必死に作り上げようとする一つの「物語」はこうだ・・・日本軍は残虐非道だった・・・、村人は今でも彼ら日本人を憎んでいる・・・彼らの来島に反対する!。

だがこの物語を覆す証言や証拠の発掘が、偏向したマスコミ主導ではなく村人主導で行われつつあると聞く。

そのきっかけにもなると思われるのが村人たちの戦後頻繁に行われた「改姓」についての考察である。

初めて「集団自決」問題に触れる人を理解困難にさせるのは集団自決実行に際して重要な立場にあった村のリーダー(村長、助役、兵事主任等)が戦後ほとんど改姓していることである。

沖縄の戸籍制度は戦前から沖縄県として日本の戸籍制度で行われており、米軍占領下でも日本の戸籍制度を引き継いでいた。

従って」現在でもそうであるが、よっぽどの理由がなければ改姓は出来なかった。

ところが「集団自決」のあった渡嘉敷島、座間味島に限ってやたらと改姓が多い。

これは米軍の猛爆を受けてほとんどの戸籍が消失してしまい、新しい戸籍を作るときについでに改姓したと考えるのが一般的である。

ところがここにもう一つの大きな謎が残る。

左翼勢力の喧伝するように村人が「憎むべき日本軍」と考えているのが事実なら、何故改姓の際に「本土風の姓」に改姓したのか。

例えば渡嘉敷村長・古波蔵⇒戦後、米田に改姓

渡嘉敷村職員・新城⇒戦後、富山に改姓(手りゅう弾を配ったとされる)

他にも戦後本土風に改姓した島人は大勢いるし、当日記も過去にこれに触れた。

詳しい論考は次回に続く。

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