狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

戦艦大和の特別任務

2008-03-14 08:33:52 | ★集団自決

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「ひめゆりの塔」、「神風特攻隊」、「戦艦大和」を題材にした戦争映画は子どもの頃から良く見た。

だが、これら三つをテーマの映画が全て沖縄戦に絡む映画だったとは恥ずかしながらある時期まで知らなかった。

「軍は住民を守らない」

「沖縄は日本の捨石となった」

「日本は沖縄を見捨てた」

沖縄の新聞に良く出てくるこのような反日論調は子ども達の心を知らず知らずに蝕んで行く。

沖縄を取り囲んだ米艦隊に一矢を報いるべく片道燃料で飛び立った特攻隊の若者達。

沖縄戦援護と沖縄への救援物資輸送の途中撃沈された戦艦大和の若者達。

これらの若者達の命をかけた戦いは、

沖縄戦とは全く無縁の別の空間での戦いだと思っていた。

いや、これは遠い昔話ではない。

現在でもこの三つの戦争テーマが沖縄戦と結びつくと考える子ども達は少ない。

新聞の反日教育の恐ろしさである。

ちなみに今問題の「集団自決」のあった渡嘉敷、座間味両島の赤松元大尉、梅沢元少佐のことを両島の守備隊長と呼ぶ人がいるが、彼らが受けた正式の任務は島の守備ではない。

その理由は沖縄守備軍の32軍は、山間部の多い両島に米軍が上陸するとは夢想もしていなかった。

爆弾積載の小型ベニヤ艇で夜陰に紛れて敵艦に体当たりする決死攻撃が正式な任務であった。

当然のことながら、島の軍基地は守備・迎撃用の武器弾薬の配備はされていなかった。

小銃の弾薬も数十発しか具備されていなかったという。

従って両隊長のことは守備隊長ではなく厳密にいえば特攻隊長若しくは戦隊長が正しい。

両島の基地の目的を米軍に察知され、雲霞のような米艦隊は本島上陸の前にこの小さな島に襲い掛かった。

まるで巨大な獅子の群れが無防備な子羊を襲うように。

山の形も変形したと言われる米艦隊の「鉄の暴風」の前に若き両戦隊長はカラの鉄砲を抱えて右往左往する隊員たちや助けを求める住民達になす術を知らなかった。

上陸前の米軍の攻撃は艦砲射撃だけではなかった。

谷間の湿地帯で逃げ惑う住民達に低空飛行の絨毯爆撃で襲い掛かった。(宮平秀幸さんの証言)

特攻隊は本来の任務の敵艦に激突による撃沈どころか自艇を自爆させるのが精一杯であった。

そんな袋のネズミのパニック状態の中で、

「軍は住民を守らない」はまだしも

「軍が住民を強制死させた」とは、

その時の島の状況をつぶさに検証したものならとても口には出せないはずだ。

 

さて、本文中戦艦大和の任務の一つに沖縄への救援物資輸送もあったというくだりに異論を唱える人もいるだろう。

今まで流布する「軍は住民を守らなかった」という論に真っ向から矛盾する戦艦大和の特別任務は、なるほど異論があって当然であろう。

だが、これまで封印されていた戦艦大和の任務に関して新資料の発見があった。

以下の引用文が「戦艦大和の特別任務」に触れている。

                     ◇

 

沖縄にもいた「日本人」

          平井 修一

靖国神社の「やすくに」3月号に惠隆之介氏(元海自士官・作家)の「堂
々たる日本人の復活を祈願する!」という論文が紹介されている。

小生、浅学なために、戦艦大和は特攻機のように撃沈覚悟で沖縄に向かったと思っていたが、大和はなんとしてでも沖縄に着き、沖縄県民に大量の生活物資を届けようとしていたという。

<実は「大和」を旗艦とする第二艦隊には、高級士官しか把握できない崇高な使命があったのだ。

昭和20年4月1日、沖縄本島に上陸した米英軍に対抗する県民への救援物資の輸送も作戦の一つにあった。このため巨艦「大和」の船倉には、多量の民需物資が極秘裏に積載されていたのである。

この物資一つに関し、こういう証言が残されている。

昭和58年8月20日発行中央公論増刊「歴史と人物」(太平洋戦争終戦秘話)に、海軍大尉待遇嘱託でシオノギ製薬元原料課農水産係長兼特需原料係長だった市橋立彦氏が「大和」出撃前、海軍から受けた特命を詳細に記録発表しておられる。

「歯磨、歯ブラシ各50万人分、美顔クリーム25万人分」さらに驚くべきことに、「メンスバンド(月経帯)15万人分」の調達指示である。当時のそれは生ゴム布が使用されていたが、国内では軍需用の生ゴムさえ欠乏している時期であった。

しかし、市橋氏は帝国海軍からの特命とあって、ある海軍大尉とともに大阪の中小零細企業をまわって何とかかき集めた。この物資は昭和20年3月下旬の深夜、大阪梅田貨物駅から十数輛の貨車に積載されて呉停泊中の「大和」に積載されたと言う。

残念ながら「大和」は昭和20年4月7日、呉出港後5日目、午後2時23分、米軍艦載機の攻撃を受けて東シナ海沖縄北方400キロの地点で沈没した。

私はこれを知ったとき、沖縄県民の一人として感謝の気持で涙が滂沱するのを禁じ得なかった。>

小生は偏向マスコミに支配されていそうな沖縄県民に不信感を持っているが、上記の文章に触れて、「きちんとした日本人が沖縄にもいるんだ」と感激した。惠氏は文章をこう結んでいる。

<ひるがえって我が国は戦後63年にわたって奇跡的な平和を享受して来た。結果、戦後世代にはGHQが実施した賎軍思想が定着し、「軍を持たない方が平和を維持できる」という錯覚が生じている。

勿論、戦後長きにわたる平和の原因は、日米安保条約が根底にあった事は事実である。しかし、もう1つの要因がある。

大東亜戦争中の帝国陸海軍軍人の勇猛果敢な戦闘ぶりに、「日本を攻めると、とんでもない反撃を受ける」という恐れが近隣諸国国民に醸成されたことである。

しかし、近隣諸国の世代交代も着実に進んでおり、また、米国国内でも防衛努力を真剣に行なわない日本への不信は拡大しつつある。要するに、もはや我が国の未来は戦後の延長線上にはないのだ。

日本国民、とりわけ戦後世代はそろそろ目覚めなければならない時期に来ている。教育界を含め、「堂々たる日本人の育成」が求められていると確信される。>

「堂々たる日本人の育成」に小生の情報発信が少しでもお役に立てばと念じている。(「頂門の一針」 1121号平成20(2008)年3月11日(火))

                     ◇

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