狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

「真実」認定に安堵 宮里の遺族

2008-03-30 08:15:39 | ★集団自決

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「真実」認定に安堵 宮里さんの遺族、...(2008.3.29)
 【座間味】岩波・大江「集団自決」(強制集団死)訴訟大阪地裁判決で元戦隊長らの請求が棄却された28日、座間味村住民や遺族は、仏壇に手を合わせて判決を報告するなど喜びに包まれた。同島のつらい戦時体験をねじ曲げようとする原告側の動きを批判してきた住民からも「本当にうれしい」と安堵(あんど)の声が聞かれた。
 座間味村は沖縄戦で最初の米軍上陸の地として多くの住民が犠牲になった。1945年3月23日から25日にかけての米軍による空襲と艦砲射撃で島は壊滅状態に。
 同25日午後8時ごろから、住民の避難する壕(ごう)に「軍から玉砕命令が出たので忠魂碑の前に正装して集まってください」との伝令があり「集団自決」の悲劇は起きた。
 当時の戦隊長の玉砕命令の有無をめぐり、論争が教科書検定問題にまで飛び火したことに島の住民は憤り、今まで戦争のことを語らなかった人たちが重い口を開き、戦争の全容が解明されてきた。
 判決を受けて同日午後、同村元助役の故・宮里盛秀さんの仏壇がある義妹の宮村文子さん宅に宮里正太郎座間味村遺族会長や親族が集まり、仏前に喜びの報告をし、戦争当時を振り返った。
 盛秀さんの二女・山城美枝子さん(67)は、原告側が村助役の命令と主張していたことから「今までお父さんが裁判にかかわっていた。(判決で汚名が晴らせて)大変うれしい」と泣いて喜んだ。宮村家には激励電話が途切れず、近所の住民からも激励の言葉が相次いだ。
 
一方、座間味村平和学習ガイドブック編集委員で「集団自決」も含めた村民の戦時体験の聞き取りに携わった宮里芳和さん(59)は、村民の戦争体験者約30人と元日本兵の聞き取り調査を行う中で「(日本兵から)玉砕しなさいと言われた住民も間違いなくいた。元日本兵の手記やその家族の話にも玉砕命令の話はあった」と述べ、今回の判決を素直に喜んだ。
 一方、今回の裁判について戦隊長は座間味村に対し訴訟を起こしているような気がしてならない」とした上で「聞き取りした話を後輩に伝え、仲間をつくり平和活動をすることで風化させない取り組みに力を入れたい」と決意を新たにした。

                                             ◇

>同村元助役の故・宮里盛秀さんの仏壇がある義妹の宮村文子さん宅に宮里正太郎座間味村遺族会長や親族が集まり、仏前に喜びの報告をし、戦争当時を振り返った。

ここで仏壇にまつられている故・宮里盛秀氏は「集団自決」を指導したとされる人物なので、その親族が勝訴の知らせで仏壇の前で喜ぶ気持ちはよく理解できる。

だが、ここでは次の事実は押さえておかなければならない。

昨年になって盛秀氏の妹、と義妹が重要証言をし、それが「母の遺したもの」の著者宮城晴美氏の判断を変え、「新版」を出版するきっかけになったという事実。

沖縄タイムス 2007年7月6日(金) 朝刊 1面
http://www.okinawatimes.co.jp/day/200707061300_01.html
「軍命受けた」助役明言/妹2人が初めて証言
座間味「集団自決」45年3月25日夜
 沖縄戦時下、座間味村で起きた「集団自決(強制集団死)」で、当時の助役が「軍からの命令で、敵が上陸してきたら玉砕するように言われている」と話していたことが、助役の妹二人の証言で六日までに分かった。当事者が初めて証言した。「集団自決」の軍関与が教科書検定で削除され、軍命の有無をめぐる裁判が進む中、日本軍の軍命を示す新証言として注目される。(編集委員・謝花直美)
 証言したのは「集団自決」で亡くなった当時の座間味村助役の宮里盛さんの妹・宮平春さん(80)=座間味村=と宮村トキ子さん(75)=沖縄市。 (略)

>一方、座間味村平和学習ガイドブック編集委員で「集団自決」も含めた村民の戦時体験の聞き取りに携わった宮里芳和さん(59)は、村民の戦争体験者約30人と元日本兵の聞き取り調査を行う中で「(日本兵から)玉砕しなさいと言われた住民も間違いなくいた。元日本兵の手記やその家族の話にも玉砕命令の話はあった」と述べ、今回の判決を素直に喜んだ。

親族の行った「証言」をどう受け取るかは裁判官の判断でありここでは触れないが、

記事は「一方」という書き出しで親族とは別の印象の「戦時体験の聞き取り」を行った平和ガイド編集委員宮里芳和氏の談話を紹介している。

だが、琉球新報は二つの事実を故意に隠蔽して報じている。

まず宮里芳和氏は30年近くも琉球新報の通信員をしている事実である。(映画にもなった「マリリンに逢いたい」の第一報の記事を書いたベテラン通信員)

次に宮里芳和氏は紛れも無く故宮里盛秀氏遺族であること。

戦隊長は座間味村に対し訴訟を起こしているような気がしてならない」

嘗て宮里氏はこのような発言をしていた。

「梅澤さんを恨んでいる人は村に誰もいませんよ。
 もし、いるとすれば、自決命令を出したと公表された、助役の宮里盛秀さんの身内でしょう。
 実は私もその一人ですが」

とても同一人物の発言とは信じられない。

それともう一つ、注意深い読者は先刻ご承知だろうがこの宮里芳和氏は藤岡教授の調査団一行が1月に座間味島を訪れた際、沖縄タイムス謝花記者の指示で座間味埠頭で一行を待ちうけ抗議のビラを突きつけた人物である。

当時の沖縄タイムス記事を、煩雑を承知で再度(再・再?)引用するとこうなる。

藤岡氏の訪問に座間味村民抗議  「軍命の強制は事実」

 沖縄戦時、慶良間諸島で起きた「集団自決(強制集団死)について、「日本軍による命令・強制はなく、米軍の猛爆で追い詰められた住民の尊厳死だった」などと主張する「新しい歴史教科書をつくる会」の藤岡信勝会長らが二十五日、座間味村を訪れた。反発する村民が抗議文を手渡した。藤岡氏らは二泊三日で、座間味、渡嘉敷両島を訪れる予定だという。
 
村民は、抗議文で体験者の証言や村史の記述を引用して、「集団自決」への日本軍の命令や強制があったことを示し、「(座間味島・海上挺進第一戦隊の元隊長の)梅澤裕氏を絶対に許さない」「座間味村民はあなた方を歓迎しません」と伝えた。
 抗議した宮里芳和さんは「私は二十年以上、体験者から聞き取り調査をしたが、『集団自決』に軍命、強制があったことは間違いない事実だと話した。(沖縄タイムス 2008年1月26日 )

この記事が全くの事実歪曲記事であったことは「沖縄タイムスの歪曲報道、大学生の卒論で立証される」で詳述した。

歴史の証言者には時々奇妙な人物が現れる。

「南京大虐殺」で贖罪の証言講演を中国でして英雄視される元軍人の話も最近聞いたが、

一番有名なのは「従軍慰安婦問題」の吉田清治 (文筆家)のような詐話師の証言である。

コロコロ変わる宮里芳和氏の発言を聞くと、詐話師の印象を受ける。

宮里氏は昨年の「11万人」集会にいたる一連の沖縄マスコミの異常キャンペーン以前は比較的まともな意見を述べていた。(2004年の専修大学学生のヒアリング)

「11万人」集会直前になると宮里氏は琉球新報通信員であることを忘れたのか沖縄タイムスの取材に次のように豹変する。


宮里芳和さん(59)座間味島で証言記録
http://www.okinawatimes.co.jp/spe/syudanjiketsu/kyokasyo_
tadasu28.html

<座間味村元職員の宮里芳和さん(59)は、沖縄戦の真実を後世に伝えようと島の「集団自決(強制集団死)」体験者から聞き取りを進めている。実態を知るだけに、軍の強制を否定する文部科学省の検定意見には納得がいかない。>(沖縄タイムス9月24日)

そして完全に空気を読んだのか「11万人」集会当日は次のようなパフォーマンスまでやってのけた。

「軍命があった」と証言し座間味村・宮平春子氏(82)(宮里盛秀氏の妹)のスピーチ 代読をしている。(宮里芳和氏代読・6分27秒)
http://202.90.10.24/janeye/shiminkisha/0709303201/01/
0709303201_yomitan_a.html


で、「梅澤さんを恨んでいる人は村に誰もいませんよ。」はどこでの発言かという疑問に答えて、

ジャーナリスト鴨野守氏の宮里芳和氏とのインタビュー記事を引用する。

冒頭引用記事と読み比べるとその変わり身の早さには驚きである。

                     ◇

ビューポイント2007 沖縄戦「集団自決」から62年 (文字強調は引用者)
 
真実の攻防より。(
80、81ページ)
 
 
38、戦争の証言集める宮里芳和氏
 
「梅澤氏を恨む村民いない」
 
座間味島へ行くのは少しばかり気が重かった。
 
現地を案内してくれる地元島民の当てが全くなかったからである。
 
村役場に電話を入れて、ガイドを頼むしかない。
 
しかし、お金を払って、「日本軍がどれほど住民に残虐な行為をしたか……」などと、左翼学者が宣伝するような説明を聞かされるのも因る-。
 
だが、宮里芳和氏(58)の説明を聞きながら、それが全くの杞憂(きゆう)であったと安堵(あんど)した。
 
宮里氏はさまざまな質問に答えてくれ、また梅澤裕・元隊長とも面識があるという点で、記者(鴨野)にとっては、最も望ましいガイド役だった。
 
彼は村のガイドインストラクターであり、琉球新報社の座間味通信員だ。
 
そして、地元では有名人でもある。
 
座間味島がニューヨーク・タイムズに登場したのは過去、二度あるという。
 
最初は沖縄戦。二度目は、阿嘉島から犬のシロが、座間味島にすむ犬マリリンに会うために三キロも海を泳ぐ実話を紹介したことだ。
 
国内外のメディアが報道し、映画「マリリンに逢いたい」制作のきっかけとなったこのニュースの第一報は、ほかならぬ宮里氏が書いたのだった。
 
「うちの両親はパラオで終戦を迎えました。兄は(集団自決の)その時、小学校六年生で、死ぬのが嫌だと逃げ回ったようです。
 
その孫を追いかけていて、祖母も自決のタイミングを逃して結局、米軍の捕虜となったのです。
 
戦後、『孫のおかげで生き延びたね』と話していましたよ。
 
座間味島では百七十八人の方が集団自決で亡くなられ、戦争犠牲者は四百四人です」
 
彼はこれまで記者として、また村のガイドブックに戦争体験の証言を載せるために、戦争当時を知る人たちへのインタビューを続けてきた。
 
「確かに、巷(ちまた)では自決は軍からの命令があったからだ、と言われてきましたが、自分自身が直接、宮城初枝さんから聞いた話では、自決を要望した村の幹部に対して梅澤隊長は
 
『お引き取りください』と返答されたということです」
 
そして
昭和六十二年三月、梅澤氏が慰霊祭参加のために現地を訪問。
 
その時に梅澤氏を囲んで開かれた懇親会に宮里氏が出席、言葉を交わしている。
 
「自決命令を出した張本人ということで、戦後は戦争犯罪人のごとく見られて、家の中が大変だった」と嘆く梅澤氏を、
 
「いや、当時の状況からして、梅澤隊長個人の責任ではない」と慰めた。
 
梅澤氏から「君、私の家族にその話をしてくれないか」と頼まれて、宮里氏は公衆電話で梅澤氏の妻を励ましたという。
 
里氏が「隊長命令」に対してクールなスタンスを保っているのには理由がある。村人の中に、昭和三十二年に建立され、千二百二十柱の英霊を祭る「平和の塔」に、どうしてもお参りしたくない、というN氏がいた。
 
彼はNHKのインタビューに答えて、「自分の家族は全員日本軍の命令で殺された。自分も負傷した」
 
と語った。
 
しかし、偶然、里帰りしてその撮影の場にいた那覇在住の老婦人がN氏をたしなめた。
 
「事実は違う。私はその場にいた。日本軍は確かに手榴弾(しゅりゅうだん)の使い方を教えたが、兵士が最後に、
 
『でも、死なないでくださいよ』と諭したのです。しかし、そこの壕(ごう)にいた村人がそれを聞かずに自決を始めたのです」
 
結局、NHKはそのインタビューを放送しなかった。宮里氏は、「N氏は戦後四十年、間違った考えにとらわれていたのです。
 
以来、彼は全く沈黙してしまいました」と語った。
 
「戦争当時、自決命令を出したのか出さなかったのかは、定かに分かりません。
 
でも、そのことを梅澤さんは村の人と十分に話し合ってくれればよかったのですが。
 
だって、梅澤さんを恨んでいる人は村に誰もいませんよ。
 
もし、いるとすれば、自決命令を出したと公表された、助役の宮里盛秀さんの身内でしょう。
 
実は私もその一人ですが

 
宮城初枝さんと娘さんは本を出されたけど、なぜ村役場の人たちと相談してくれなかったのか、と残念に思います
 
だって、小さな島の中で、死んでいった人、殺した人、殺された人がいるのです。
 
だから、簡単に語れることでは決してありません」
 
宮里氏は戦争体験に関する島民インタビューの中で、梅澤隊長の知らないところで、他の兵士が自決命令を出したという説も聞いている。
 
「そのことを(大阪の)裁判で証言してくれないか」という依頼もあった。だが、彼は断っている。
 
「いずれかに与(くみ)するようなことはしたくないのです」
 
戦争証言のほかに村の歴史、文化、戦後の生活の様子も合わせたガイドブックが完成するのは今年八月の予定という。

                   ◇
 

新聞報道の発言を見る限り、宮里芳和氏の発言は詐話師そのものだ。

一方沖縄タイムス、琉球新報の記事には歪曲記事が多い。

宮里氏がこの沖縄紙の体質を承知の上で、沖縄マスコミに頻繁に登場して発言しているのなら、

その発言そのものが「真実の解明」を分かりにくくしているのも事実だ。

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