狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

上級審へ丸投げの大阪地裁

2008-03-29 09:36:07 | ★集団自決

【再掲】4月5日

原因不明で本文が消失したので書きかけ原稿からアウトラインを作成し再掲いたします。

 
よろしかったら人気blogランキングへ クリックお願いします
 
 

【判決要旨】(3ページより抜粋)

日本軍が駐屯しなかった渡嘉敷村の前島では集団自決が発生しなかったことなどの事実を踏まえると、集団自決については日本軍が深く関わったものと認められ、それぞれの島では原告梅沢及び赤松大尉を頂点とする上意下達の組織であったことからすると、それぞれの島における集団自決に原告梅沢及び赤松大尉が関与したことは十分に推認できるけれども、自決命令の伝達経路等が判然としないため、本件各書籍に記載されたとおりの自決命令それ自体まで認定することには躊躇を禁じ得ない。

原告梅沢及び赤松大尉が集団自決に関与したものと推認できることに加え、平成17年度までの教科書検定の対応、集団自決に関する学説の状況、判示した諸文献の存在とそれらに対する信用性についての認定及び判断、家永三郎及び被告大江の取材状況等を踏まえると、原告梅沢及び赤松大尉が本件各書籍記載の内容の自決命令を発したことを直ちに真実であると断定できないとしても、その事実については合理的資料若しくは根拠があると評価できるから、本件各書籍の各発行時において、家永三郎及び被告らが本件各記述が真実であると信じるについても相当の理由があったものと認めるのが相当であり、それは本訴口頭弁論終結時においても変わりはない。

 したがって、被告らによる原告梅沢及び赤松大尉に対する名誉毀損は成立せず、それを前提とする損害賠償はもとより本件各書籍の差し止め請求も理由がない。

【5】 『沖縄ノート』には赤松大尉に対するかなり強い表現が用いられているが、『沖縄ノート』の主題等に照らして、被告大江が赤松大尉に対する個人攻撃をしたなど意見ないし論評の域を逸脱したものとは認められない。

                     ◇

奇妙な判決文要旨を読んで違和感を感じたの敗訴した原告側だけでなく勝訴の被告側にも戸惑いが感じられる。

違和感を感じられた読者のきんじょうさんのコメントを引用する。

>「沖縄で集団自決が発生したすべての場所に日本軍が駐屯していたことなどを踏まえると、 集団自決に日本軍が深くかかわったと認められ、島で原告梅沢らを頂点とする上意下達の組織だったことから、 集団自決に原告が関与したことは十分に推認できるが自決命令の伝達経路などが判然としないため、 書籍に記載された通りの自決命令自体まで認定するのはためらいを禁じ得ない。」

不思議な文章です。

①沖縄で集団自決が発生したすべての場所に日本軍が駐屯していたことなどを踏まえると、集団自決に日本軍が深くかかわったと認められ

②島で原告梅沢らを頂点とする上意下達の組織だったことから
      ↓
集団自決に原告が関与したことは十分に推認できる

ところが結語は
「自決命令の伝達経路などが判然としないため、 書籍に記載された通りの自決命令自体まで認定できない」 

①と②の屁理屈で関与ありとは左翼の発想と何ら変わらない。

結語だけがまともで、これでは左翼が諸手を上げて喜ぶ「軍命あり」にはならないはずだが・・・

 

こんな意見もあります。

ハル吉さん

去年の教科書検定での改定内容を踏まえ、あえて玉虫色の判決を出したことは誰の目にもわかりますね。
しかし、裁判長は「隊長命令があったと断定するには今一つ躊躇する」旨の要旨を述べていることから原告控訴を想定し「上」に下駄を預けたことも考えられますね。

この裁判は一審の判決がどちらに転んでも控訴があり、結局は最高裁まで持ち込まれるのは楠見裁判長も先刻承知。

だったら地裁の段階で敢て火中の栗を拾わずに上級審に廻したということ。

そう解釈すればアタマのいいはずの裁判長があのように素人にも突っ込みどころ満載の判決文を平気で書いた理由も分かる。

そう、上級審のための叩き台に問題点を浮き彫りにしたんでしょうかね。(笑)

座間味と渡嘉敷での「軍命令」には無理がある。

ところが大江氏が、軍命令ありの先入観を持って取材執筆した事は明白な事実。

何故なら大江氏は自分では直接取材することなく専ら『鉄の暴風』の記述に論拠した。

そして「鉄の暴雨風」の取材方法の杜撰さは裁判官も認めている。

ならば、今回の判決骨子である「命令説を真実と信じた相当の理由がある」と言う理由自体が崩壊してしまう。

裁判長が判決に「推認」とか「関与」といった日本語として曖昧な言葉を用いたのも、判決文が内包する論理破たんを糊塗するために用いたものと「推認」する。

結局、楠見裁判長は問題点を全て上級審に丸投げした。。

 


 「集団自決」軍が関与 岩波・大江訴訟 2008年3月28日

 【大阪】沖縄戦中、座間味・渡嘉敷両島で起きた「集団自決」(強制集団死)をめぐり、両島に駐留していた日本軍の戦隊長が住民に自決を命じたとの本の記述は誤りだとして、座間味島の元戦隊長梅澤裕氏(91)らが「沖縄ノート」著者の作家大江健三郎氏と版元の岩波書店に出版差し止めなどを求めた訴訟の判決が28日午前、大阪地裁(深見敏正裁判長)であった。深見裁判長は元戦隊長ら原告側の主張を全面的に棄却した。判決は両島での「集団自決」について「梅澤、赤松大尉が関与したことは十分に推認できる」と指摘。「元守備隊長らが命令を出したとは断定できない」としながらも、大江氏らが両隊長の自決命令を真実と信じるには相当の理由があったとして「沖縄ノート」と家永三郎著「太平洋戦争」は名誉棄損には当たらないとし、元戦隊長ら原告側の主張を退けた。原告側は週明けに控訴する。
 判決は、体験者の多くが日本兵から自決用に手榴弾(しゅりゅうだん)を渡されたと証言していることや、沖縄で「集団自決」が発生したすべての場所に日本軍が駐留していた事実などを踏まえ「集団自決には日本軍が深くかかわった」と認定した。元戦隊長ら原告の「隊長命令説は戦後、島民が援護法の適用で補償を得るためにねつ造された」との主張には「戦時下の住民の動きに重点を置いた戦記として資料的価値を持つ『鉄の暴風』などは援護法適用以前から存在していた」などとし「ねつ造を認めることはできない」と退けた。
 その上で、両書は歴史書や戦後民主主義を問い直すものとして公益を図る目的で刊行され、大江氏らが書籍の刊行時、記述を真実と信じる相当の理由があったとして名誉棄損の不法行為責任に関する一般法理から、両書の原告への名誉棄損は成立しないと結論づけ、岩波側の主張を認めた。
 係争中の昨年3月、文部科学省の教科書検定で高校歴史教科書から日本軍の「集団自決」強制の記述が修正・削除された。同省は当時、梅澤氏が訴訟に提出していた自決命令を否定する陳述書を検定意見の根拠の一つに挙げていたが、28日の判決で検定意見は根拠の一つを失った。
 原告は梅澤氏と、渡嘉敷島の戦隊長だった故赤松嘉次氏の弟、秀一氏(75)。2005年8月に提訴し、両書が梅澤氏の名誉や、赤松氏の兄を慕う心情を侵害していると訴えていた。


【用語】「太平洋戦争」と「沖縄ノート」

「集団自決」軍が関与 元隊長らの請求棄却

2008年3月28日

PDF速報(280KB)

 太平洋戦争末期の沖縄戦で軍指揮官が集団自決を命じたとする本の記述をめぐり、慶良間諸島の当時の守備隊長らが、岩波書店と作家大江健三郎さん(73)に出版差し止めなどを求めた訴訟の判決で、大阪地裁は28日、請求を棄却した。

 深見敏正裁判長は集団自決に軍が深く関与したのは認められると指摘。その上で元守備隊長らが命令を出したとは断定できないが、大江さんらが命令があったと信じるに相当の理由があったとした。
 この訴訟は、軍の強制の記述削除を求めた教科書検定意見の根拠の一つともされたほか、ノーベル賞作家の大江さん本人が出廷し証言するなど司法判断が注目を集めていた。

 

 

「集団自決」軍が関与

大江・大江裁判 元隊長の請求棄却

大阪地裁判決 「命令は断定できず」

                                         

昨日のエントリーで「判決を一番驚いたのは現地の住民だろう」と書いたが、。

一番驚いたのは被告であり、そして同時に原告側だったのではないか。

今朝の琉球新報には岩波側が「一部敗訴」も想定していたと正直な感想を述べている。

更に被告側勝訴に驚いたのは沖縄マスコミだったのかも知れない。

第一報を伝える昨日の琉球新報夕刊の大見出しの矛盾が戸惑いを表わしている。

「命令は断定できない」が軍が「関与」しているので「元隊長の請求却下」という極めて矛盾に満ちた見出しとなった。

判決文を分かりやすい日本語で言えばこうなる。

隊長命令は断定できないが、名誉毀損には当たらない。

従って原告の請求却下。

一方、100%の勝訴を確信していたという原告側は敗訴の場合の「即日控訴」は想定しておらず、結局控訴は週明けになるという。

 

上級審へ丸投げという卑劣な手段で司法の権威を失墜させた大阪地裁の恥知らずな裁判官の名前を記憶に留めておきましょう。

 

 深見敏正(裁判長),島田佳子,永田雄一

大阪地方裁判所第9民事部
大阪市北区西天満2-1-10
06-6363-1281(代表)

 

元守備隊長の請求棄却 沖縄集団自決訴訟3.28 11:14 

 裁判官自身が論点を守備隊長の自決命令の有無から集団自決への軍の関与の有無にすり替えたのである。

 軍の関与には、守備隊長が集団自決を望む住民を叱責したという善意の関与もあれば、守備隊長が住民に集団自決を唆したという悪意の関与もあり、守備隊長が知らないうちに戦闘用の手りゅう弾が住民の集団自決に流用されたという不本意の関与もあるのに、裁判官は関与の具体的内容を明らかにしないまま、ただ関与があったことを根拠にして、原告である元軍人の訴えを斥けたのである。

 「書籍発行時に、家永三郎及び被告らが記述が真実と信じる理由があったと認めるのが相当」であったとしても、真相の解明が進んだ現在は裁判長自身が「書籍に記載された通りの自決命令自体まで認定するのはためらいを禁じ得ない」ほどなのだから、せめて書籍の出版などの差し止めを命じるぐらいのことはすべきだろうに。

 しかも判決理由には誤認と矛盾がある。「第1、第3戦隊の装備から手りゅう弾は極めて貴重な武器で、慶良間列島が沖縄本島などと連絡が遮断され、食糧や武器の補給が困難だった」のだから日本軍将兵が手りゅう弾を自決用に住民に交付するはずがなく、現地召集の防衛隊員が戦闘用の手りゅう弾を勝手に住民に交付し、恐怖に駆られた住民が手りゅう弾を使って自決を行ってしまい、死に切れなかった住民が守備隊長の叱責を受けたのである。

 だから守備隊長から自決を行った住民に至るまでの自決命令の伝達経路などが判然としないのである。

 沖縄県には戒厳令が布告されておらず、日本軍の貴重な戦闘用の武器である手りゅう弾が防衛隊員から自決を望む住民に流用されたのに、「島で原告梅沢らを頂点とする上意下達の組織だった」というこの裁判官は、反日左翼的日本人が醸成する空気に付和雷同している。

 司法、立法、行政、統帥の公権力を担う者が「反日左翼的日本人が醸成する空気に引きずられること」こそ、尾崎秀実ら昭和研究会と朝日新聞の共産主義者に国政を壟断された戦時中の我が国が、道を誤った根本原因だろうに…。

                       ◇

◆読売社説

・・・判決は、旧日本軍が集団自決に「深く関与」していたと認定した上で原告の訴えを棄却した。

 しかし、「自決命令それ自体まで認定することには躊躇(ちゅうちょ)を禁じ得ない」とし、「命令」についての判断は避けた。

 昨年の高校日本史教科書の検定では、例えば「日本軍に集団自決を強制された」との記述が「日本軍の関与のもと、配布された手榴(しゅりゅう)弾などを用いた集団自決に追い込まれた」と改められた。

 軍の「強制」の有無については必ずしも明らかではないという状況の下では、断定的な記述は避けるべきだというのが、検定意見が付いた理由だった。

 史実の認定をめぐる状況が変わらない以上、「日本軍による集団自決の強制」の記述は認めないという検定意見の立場は、妥当なものということになるだろう。

 沖縄の渡嘉敷島と座間味島の集団自決をめぐっては、戦後、長い間、隊長「命令」説が定説となっていた。沖縄の新聞社が沖縄戦を描いた「鉄の暴風」などが根拠とされた。

 しかし、渡嘉敷島の集団自決の生存者を取材した作家の曽野綾子氏が1973年に出した著書によって、隊長「命令」説は根拠に乏しいことが明らかになった。

 これを受けて家永三郎氏の著書「太平洋戦争」は、86年に渡嘉敷島の隊長命令についての記述を削除している。

 座間味島についても、元守備隊長が自決命令はなかったと主張していることを、85年に神戸新聞が報じた。隊長に自決用の弾薬をもらいに行ったが断られたという女性の証言を盛り込んだ本も、2000年に刊行された。

 一方で、日本軍が自決用の手榴弾を配布したとの証言もある。

 ただ、集団自決の背景に多かれ少なかれ軍の「関与」があったということ自体を否定する議論は、これまでもない。この裁判でも原告が争っている核心は「命令」の有無である。

 原告は控訴する構えだ。上級審での審理を見守りたい。

(2008年3月29日03時34分  読売新聞)

よろしかったら人気blogランキングへ クリックお願いします


政府が書き換え指導  援護法認定、「軍命」基準に

2008-03-29 07:22:24 | 資料保管庫

よろしかったら人気blogランキングへ クリックお願いします

 

当日記では他者の著作権に属する画像や文章を適時転載していますが、著作権法第三十二条を遵守し、公正な慣行に合致し、且つ報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内でのみ利用させて頂いています。 それでも承諾できないという権利者がおれば、ご連絡下さい。速やかに対処致します。

苦情や抗議、嘆願はこちらへどうぞ。⇒ezaki@nirai.ne.jp

                                         

【資料保管庫】

下記引用の琉球新報記事は、タイトルは「歴史を政府が書き換えた、不実の記録」となっているが、実際は政府が援護法認定のために「軍命令があった」と申請すれば良いと示唆した内容である。

結局、存在しなかった「軍命令」を政府が無理やりでっち上げて「援護法」の対象にしたというのだから、そもそも軍命令はなかったという証明にもなっている。

なお筆者の石原昌家教授は「集団自決」の「軍命あり派」の1人である。

学者の良心とイデオロギーの狭間に立たされる悩ましい論文ではある。

                     ◇

琉球新報 2006年12月7日(水)文化面

問われる「沖縄戦認識」 4  石原昌家 沖縄国際大学教授

不実の記録 政府が書き換え指導  援護法認定、「軍命」基準に

「援護法社会」の沖縄では、日本政府が琉球政府を介在して、沖縄戦体験者に「不実の記録」を指導していた。その構図は、「援護課」資料が浮き彫りにしている。

「援護法」適用にのためという日本政府の「善意の外形」によって、一般住民の沖縄戦体験は「軍民一体の戦闘」という「靖国の視点」による沖縄戦認識として決定付けられることになった。「援護法」で一般住民を「戦闘参加者」として認定するにあたって、日本政府は軍命があったか否かを決め手にしていた。それでは沖縄県公文書館の「援護課」資料で、日本政府の「沖縄戦書き換えの指導」を具体的に見ていきたい。

▼軍命と積極的戦闘協力

1957年8月以降、一般住民の「戦闘参加者の申立書」の提出業務が開始されるや、「援護課」は、58年12月までには38,700件を受付して、厚生省に進達した。その後、5万件受付した段階で、那覇日本政府南方連絡所から61年6月30日で受付業務を締め切るよう通達を受けた。それで「援護課」としては4ヵ年で52、682件を受付処理したが、保留してあるのが12、241件にのぼった(61年7月14日援護課「沖縄戦関係戦闘参加者の処理について」)。

これらの援護業務の記録である「援護課」資料の1960年「戦闘参加者に関する資書類」の中に以下のような具体的「書き換え」指導文書が含まれている。

それは昭和34年10月12日付けで、厚生省引揚援護局未帰還調査部第4調査室長から、琉球政府社会局援護課長殿という宛書きで、「戦闘協力により死亡したものの現認証明について」というタイトルの文書である。

その内容は「別紙記載の戦闘協力者に対し、遺族より弔慰金の請求をされましたが、戦闘協力の内容が消極的に失すると審査課より返却されましたので、死亡者は、要請(指示)事項のみに終始したのではなく、当時の戦況から判断して現認証明事項の如きこともあったものと推定されるので、其の旨、審査課に回答した処、死亡の原因が回答のような積極的戦闘協力によるものであれば現認証明書を添付されたいとのことですが、現認欄記載の如き事項は、当時何人かが現認していると思われるがそうであったら然るべく御とりはからい願います」とある。ここで注目すべき点は、積極的戦闘協力が認定基準になっている、と窺われることである。

更に、62年1月、「戦闘参加者に関する書類綴」(援護課調査係)には、「戦闘参加者の申立書」に対して、厚生省から琉球政府への「要調査事項」として「昭20・5・10食料を求めるため部隊に行ったのは軍命令か、申立書の記述ではその点が不明確であるから解明されたい」と、軍命令の有無を重視している。その点については、「現認証明書を要する戦闘協力者氏名」の一覧表ではより明確な文言が記されている。

当時50歳の県庁職員が、「壕生活の指導並びに避難誘導のため麻文仁村に派遣された」が、「麻文村麻文仁で難民誘導の任務遂行中砲弾の破片により胸部に受傷戦死」したという現認証明に対して、「上記の理由では積極的戦闘協力とは認めがたいとの審査課の意見であるが、積極的戦闘協力の事実はないか 例えば軍命令により弾薬運搬又は食料の輸送の指導若しくは陣地構築の指導等の如きものとか、公務遂行中殉(職)というが、公務の内容はなにか 軍の命令により何か積極的戦闘協力はしたのか」などと具体的に書き方を指導しているのである。

▼0歳児の「準軍属」決定

同じく戦闘参加者についての申立書で未認定の当時9歳の学童のケースとして「壕」提供の記述例をあげよう。日本軍による住民に対する一般的な「壕追い出し」行為は、「艦砲弾が激しいため殆どの壕が破壊されたので作戦上壕を提供せよと命じられたので、軍に協力して他に避難場所を探し求めて彷徨している際、敵の小銃弾で頭部を撃たれ治療も出来ず出血多量で数時間後に死亡した」という表現パターンで、「壕提供」ということに書き換えが行われていった。

62年の同書類綴には、援護法の認定が保留になっていた座間味村の明治9年生が昭20年3月28日、「隊長命令による自決という内容で「戦闘参加者」として認定されている。さらに66年「援護関係表彰綴」には、宮村幸延座間味村総務課長の「功績調書」に、「1957年8月、慶良間戦における集団自決補償のため上京す 1963年10月 集団自決6歳未満から0歳児まで(148名)準軍属に決定」と記されている。

「援護法で」で一般一般住民を「戦闘参加者」として認定し、「準軍属」扱いするには、6歳以上のもの対して「軍命令」によって「積極的戦闘協力」したものに限られていた。しかし、この「援護課」資料によれば、例外的に軍の命令を聞き分けられないと判断した6歳未満児でも、63年以降確定することになったようである。しかし、それは6歳未満への適用が一般化されるのが81年以降であるので、「戦闘参加概況表」の⑮集団自決に該当するケースのみであった

かくて、集団自決と認定されると、沖縄戦では0歳児でも「準軍属」扱いされ、軍人同様に「靖国神社」に祭神に祀られることになったのである

                                        ◇

関連;沖縄集団自決訴訟・昨年12月の照屋氏との一問一答

 よろしかったら人気blogランキングへ クリックお願いします