狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

宮平秀幸氏の記者会見★沖縄タイムスが最も恐れていた男

2008-03-12 07:08:11 | ★集団自決

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沖縄タイムス 2008年1月26日 朝刊 26面(社会面

藤岡氏の訪問に座間味村民抗議
「軍命の強制は事実」

 沖縄戦時、慶良間諸島で起きた「集団自決(強制集団死)について、「日本軍による命令・強制はなく、米軍の猛爆で追い詰められた住民の尊厳死だった」などと主張する「新しい歴史教科書をつくる会」の藤岡信勝会長らが二十五日、座間味村を訪れた。反発する村民が抗議文を手渡した。藤岡氏らは二泊三日で、座間味、渡嘉敷両島を訪れる予定だという。
 
村民は、抗議文で体験者の証言や村史の記述を引用して、「集団自決」への日本軍の命令や強制があったことを示し、「(座間味島・海上挺進第一戦隊の元隊長の)梅澤裕氏を絶対に許さない」「座間味村民はあなた方を歓迎しません」と伝えた。
 抗議した宮里芳和さんは「私は二十年以上、体験者から聞き取り調査をしたが、『集団自決』に軍命、強制があったことは間違いない事実だ」と話した。(写真はない)

                     ◇

同じ記事を三度も引用するには訳がある。

この目立たぬベタ記事がひょっとしたら沖縄タイムスの社史に恥ずべき大汚点を刻みかねないからである。

「座間味埠頭のトラブル」が沖縄タイムスによって仕掛けられたことは容易に推測できるが、沖縄タイムスの目論みも虚しくその後「調査団」はタイムスが最も恐れる男・宮平秀幸氏の証言を得ることになる。

結局沖縄タイムスの卑劣な調査妨害工作は無に帰して、最も恐れる男の記者会見となる。

                       *

一昨日(3月10日)、宮平証言を検証した藤岡拓大教授と宮平氏の記者会見が県庁記者クラブで約1時間にわたって行われた。

会見終了後も宮平氏を記者が取り囲んで関連質問や連絡先などを聞いていたと聞く。

熱心な取材にもかかわらず、会見が記事として新聞を飾ることはなかった。

翌日の朝刊では新報、タイムスとも完全スルーで、地元テレビ三局も夕方のローカルニュースでは完全黙殺。

今朝(12日)の琉球新報でも一行も報じられていない。

予想していたとはいえ地元マスコミの徹底した「報道談合」には今更ながらあきれ果てた。

報道するか、しないかは各社の編集権という。

昨年来「毒おにぎり」だの「メチル禍も軍のせい」といった「残虐な日本軍」を語る証言なら大見出しで何の検証もなく掲載していた節操のない沖縄の新聞。

それが何をいまさら編集権か。

笑止千万な話だ。

ただNHKがその日の7時40分頃のローカルニュースで短く報じたが、「アリバイ造り」の感を否めない。

さすがに国営放送ともなると、県庁記者クラブを通しての記者会見をも黙殺してはまずいと思ったのだろうか。

放送は短かったが「新証言では、梅沢隊長は自決するなといっていた」とのアナウンスがあり、一応要点だけは伝えていた。

昨年末も藤岡教授は沖縄で記者会見を開き「11万人」集会のいかがわしさを訴えたが、その時は地元テレビ各社はこれを放映し、地元紙もベタ記事ながらこれを報じる余裕はあった。

ところが今回は地元紙がもっとも関心を抱く「集団自決の新証言」であるにもかかわらず、このように「報道談合」までしてこれを封殺する理由は何なのか。

その理由は二つある。

一つは宮平証言がこれまで沖縄マスコミが封殺してきた「不都合な真実」であるということである。

これが大々的に公表されたら沖縄マスコミがこれまで営々として築いてきた「集団自決の虚構」が一瞬にした瓦解してしまうからである。

もう一つの大きな理由は、3月28日に迫った大阪地裁の判決を前にして、宮平証言が裁判官の心証に与える大きな影響を恐れてである。

沖縄マスコミは、恥も外聞もなく、元々なかった報道機関としての矜持の欠片さえもかなぐり捨て、判決の日まではただひたすらに、「不都合な真実」を黙殺し続けるだろう。

                      *

 

沖縄マスコミがもっとも恐れていた男、宮平秀幸さん。

歌舞伎の世界で言えば、

「とんだところに北村大善」

といったところか。

札付きの悪、お数寄屋坊主の河内山宗俊が、首尾よく悪事を完遂する寸前に、「不都合な真実」を知る北村大膳が突然現れて悪事が露見する、・・・その場面の有名なセリフである。

そう、札付きの悪、沖縄マスコミはこの男・宮平さんを判決日まで座間味島に封じ込んでおきたかった。

そして出来ることなら黙したままこの世を去って欲しかったのかもしれない。

宮平さんは、これまでも新聞が報じるデタラメな記事に憤慨して何度も真実を伝えるために連絡していた。

だが、沖縄紙は一度も取材にさえすることもなくただ黙殺でこれに答えてきた。

唯一度、8年前の2000年12月、全国紙の毎日新聞が座間味島を訪れ宮平さんに取材して「梅沢隊長は自決するなと命令した」という証言が毎日新聞に掲載された。 ところが当時この記事に興味を持つものは少なく宮平証言は時の彼方に忘れ去られてしまった。

あれから8年。

宮平さんが再び証言する決意をしたのは昨年のマスコミ主導による「教科書騒動」以来だという。

家族の反対や多くの圧力に抗して証言する気になった。

それは孫や子に「ウソの歴史を残してはいけない」という思いからだという。

更に戦後生まれで地元マスコミを鵜呑みにした島の住民達が「アレがこう言った、コレがこう言った」とまるで「井戸端会議のように」隊長軍命説を流布するのにも我慢が出来なかったという。

その経緯を世界日報那覇支局竹林記者のインタビューに答えて次のように語っている。

真実ゆがめる証言報道に怒り

沖縄戦「集団自決」の真相 元座間味村防衛隊員宮平秀幸氏に聞く(那覇支局・竹林治夫)

(前略)

証言をしようとしたきっかけは。

座間味島で戦後生まれの知り合いが、観光客に向けて、梅沢隊長の命令によって村民が自決に追い込まれたと説明しているのを聞いて、「お前どんな証拠があってそのようなことを言うのか」と聞いたら、「もうみんな軍の命令で自決に追い込まれているよ」との返事。「おまえ、その場にいたのか。 私はその場にいたんだ」と言ったら、黙ってしまった。 昨年の教科書問題で、地元のマスコミなどの報道にあまりにも作り話が多いので、もう真実を語るしかないと思った。(略)(世界日報 2008年3月8日)                   

これまでも沖縄タイムスは「軍命なし派」と見られる調査団が現地調査に来沖する度に、彼らが最も恐れるこの男に調査団が遭遇するの恐れ、あらゆる妨害工作をしてきた。

それでは何故沖縄タイムスがこれほどに宮平さんを恐れるのか。

1945年3月25日の夜、座間味本部基地での村のリーダーと梅沢隊長のやり取りで村人側の生き残りは宮城初枝(故人)一人だとされていた。

彼女の証言だけが「軍命あり派」にとっても「なし派」にとっても重要な意味を持った。 彼女の証言が戦後生まれの娘晴美氏に引き継がれ二転三転したことは周知の通りなのでここでは触れない。

■本部基地前に村長は居たのか■

宮城初枝氏の証言の中で、

思い違いなのか、それとも故意になのか梅沢隊長と談判した村のリーダーの中に野村村長の名が出てきていない。

宮平さんの証言によると、隊長に談判に来た村のリーダーとは、村の3役の村長、助役、収入役と村職員宮平恵達氏、校長そして姉にあたる初枝氏の6人である。

その約30分のやり取りの一部始終を目撃していたのが当時15歳で伝令をしていた宮平さんである。

「集団自決」を実行した人のほとんどが「年寄りと子ども」だったため、老人の証言者は、思い違いや記憶があやふやな点も多い。 

一方、当時子どもだった証言者は記憶自体が薄く、証言者としての正確な記憶に欠ける点が多い。

ところが宮平さんは当時15歳で、人間の記憶力が最も活力のある年頃で、いわば証言者として最も適した年齢で「その場」を目撃していたのだ。

野村村長が「その場にいたかどうか」については、藤岡教授が『正論』4月号で詳細に宮平証言を検証し「野村村長はその場にいた」という結論をだしている。

藤岡氏は2月、3月と宮平証言の裏づけ調査のため現地を訪問しており、同時に過去の証言者達の証言を沖縄タイムスの証言集等から取り出して照合した結果、裏づけが取れたという。

■忠魂碑広場での村長「訓示」■

これも詳しくは『正論』の論文を読んでいただくとして、

百歩譲って野村村長がその場(本部基地前)にいなかったとしても、村長が忠魂碑前の広場で「訓示」をしたことは事実である。(多くの証言あり)

とすると次に問題になるのは村長が広場に集まった住民に何を「訓示」したかかが重要ポイントになってくる。

宮平証言によると村長「訓示」の内容は「隊長が『自決するな』の命令をだした。各自解散せよ」というものだ。

沖縄タイムスが飛び上がって驚くような衝撃の証言である。

これも藤岡教授が、その時、遅れて広場に向かう途中の宮里米子氏(当時15歳)と村長の解散命令で孫の手を取り泣きながら解散途中の知念久次郎オジー(当時61歳)との会話証言から「村長の解散命令」を立証している。(「正論」同論文)

三日三晩の米軍の猛爆でパニックに陥り、忠魂碑前で自決のための手りゅう弾を待ちわびていた住民達。

敵の手で残酷な死に方をするより一気に手りゅう弾での死を望む住民達に対して、野村村長は手りゅう弾を配るどころか、「自決するな。解散しろ」との「隊長命令を」を「訓示」していた。

この驚くべき事実の前に、戦後生まれの宮城晴美氏がいかに『母の遺したもの』を書き変えても「隊長軍命説」は木っ端微塵に砕け散ってしまう。

■「手りゅう弾配布=軍命」説の愚かさ■

「軍命あり派」の屁理屈の一つに「集団自決」は手りゅう弾で行われたのだから軍命であるというのがある。

宮平証言の中で驚くべきことは、「集団自決」は解散後、各自の壕で行われたが多くの犠牲者の中で手りゅう弾で死亡した人はたったの二人であるということである。 

しかも手りゅう弾の操作を知らない人が不発弾と勘違いし後ろに放り投げたのが偶然後方にいた二人を爆死させたという。

他の大多数はかみそりや、鍬やカマそして首吊りで自決をしている。

これを見ても「手りゅう弾=軍命」説が苦し紛れの屁理屈の結果であることが分かる。

ちなみに現在厳密な意味での「軍の命令」を主張する人は左翼勢力の中ででもよっぽど無知な人以外には皆無である。

■嘘の巨魁の崩壊■

彼らは「軍の命令で自決した」⇒「軍の命令の有無は問題でない」⇒「強制された」⇒「関与した」と論点をスライドさせて屁理屈を言い続けたが、遂には、大江健三郎氏の「タテの構造」という屁理屈の極地にいたる。

さらには「隊長が自決するなと命令しなかったのは、事実上の自決命令であり、これは時が来れば自動的に爆発する時限爆弾のようなものだ」とまで言い出す始末。(晴美証言・大江証言)

これらの屁理屈の巨塊や、嘘の巨塊を宮平証言がまとめて一気に吹っ飛ばしてしまった。

宮平証言こそ長い63年間の時を経て、裁判の判決直前で爆発した時限爆弾そのものである。

 

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