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沖縄病とは、沖縄の魅力に取り憑かれ、幾度も旅行を繰り返す人、さらには移住してしまう人の行動を表す比喩で、現在では宮本亜門や島田真助、中尾彬がこれに相当するという。
この語を最初に使用したのは、元東大総長の茅誠司と言われ、1960年に沖縄教育研究中央集会の講演で、「沖縄のことを考え続ける沖縄病」という表現をしたことに端を発する。(ウィキペディア)
曽野綾子氏が例え一時にせよ「沖縄病」になりかかっており、
「作家的好奇心」の気軽な動機で「不都合な真実」に触れなかったらひょっとしたら今頃は沖縄病の沖縄では人気の作家だったかも知れない。
というと、猛然と異論を吐く人々がいることは百も承知である。
何しろ、現在、沖縄マスコミが作った曽野綾子像は「沖縄をばかにしている」であり、マスコミに洗脳された沖縄人の中には曽野曽野氏を「沖縄の敵」と」公言してはばからないもいるくらいだ。
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『ある神話の背景』(昭和48年5月文芸春秋社刊)が出版される三年前の昭和45年、曽野綾子は沖縄戦のドキュメント『生贄の島』を発刊している。
■曽野綾子の沖縄戦ドキュメント作品
『生贄の島 ある沖縄女性との記録』
昭和44年4月から7月まで「週刊現代」連載
昭和45年3月 講談社刊
『ある神話の背景』
昭和46年10月から47年9月まで『諸君!』連載
昭和48年5月 文芸春秋刊
参考:大江健三郎著『沖縄ノート』(昭和45年・1970年、岩波書店)
『生贄の島』はひめゆり部隊で知られる、沖縄戦に看護婦として従軍し、多くの犠牲者を出した沖縄師範女子部と沖縄の六つの高等女学校の生き残りの証言を中心に、日米の関係者の証言を加えた沖縄戦ドキュメントである。
曽野綾子選集(読売新聞刊)の解説として前野外吉氏が次のように曽野氏の沖縄への熱の入れようを記している。
「作者が『あとがき』で書いているように、これは、『沖縄から日本各地に散らばっていた』関係者たちを一人一人たずね歩いて記録をとるという膨大な作業を積み上げていかなければならない『大がかりな』仕事だった。 とても作者1人の手に余るため、『週刊現代』の協力で、1968年夏から曽野氏を複数の人たちが日本本土での取材を始め、同年12月には、曽野氏と『四人のベテラン記者』(「あとがき」)が沖縄で三週間の集中的な取材活動を行った。 鶴野伸子氏の『神の木偶ー曽野綾子の魂の世界』(主婦の友社)によれば、沖縄での曽野氏は、時に『三十九度の熱』に悩みながらも、『一日三人の割り』でインタビューを続けた。 こうして集められた証言は200人近くにものぼった。 それらを綿密に再構成した曽野氏の連載は、『週刊現代』1969年4月3日号から、7月31日号まで掲載され、翌70年の3月に講談社から単行本として刊行された。
曽野氏とは高等女学校以来の友人である鶴野伸子氏は、かつてこう書いた。 「曽野氏は泣かない女(ひと)である。 30年にもなる長い付き合いの間、私は彼女の涙を1度も見ずに過ごしてきた。
だがその『泣かないはず』の曽野氏も、『生贄の島』の執筆では、涙をこらえることが出来なかった。 鶴野氏は書いている。
『(沖縄戦の証言の)資料が整理されて徐々に綾子のところに集まってくると、あまりの過酷さに、綾子は声を上げて泣いたという(『神の木偶』)。
たしかにこれは、読む側にとっても、とても平静には読み進めることができないおそるべき本である。 人々が追いつめられた状況のあまりの悲惨、あまりの苦痛、災禍のあまりの巨大さに圧倒され、私たちは何度となくページを閉じたくなる。 本文にある通り、曽野氏自身、執筆の中で『怒りに脅え』、『眼は泪で霞んで(証言資料の)頁が読みにくくなる』日々を過ごした。 しかし、そのたびに氏に書き続ける勇気をふるいおこさせたのは、この大きな苦難に直面し、しかしその経験を語ることの少ない人々にとって自分はせめて『ひとりの語部(かたりべ)』であらねばならないという思いであったろう。』(曽野綾子選集(読売新聞刊)の解説より抜粋)
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曽野綾子の沖縄戦ドキュメンタリーというと、渡嘉敷島の「集団自決」を取材した『ある神話の背景』(『「集団自決の」真実』と改題)が話題になるが著者の作品に注いだ情熱、感情的入れ込みの量を計測できるとしたらおそらく『生贄の島』に使ったエネルギー量は『ある神話の背景の』のそれの数倍も上回ると想像できる。
何しろ「泪を見せたことの無い女」が39度の熱をものともせず集まり来る証言のあまりの過酷さに」嗚咽しながら原稿を書いたというから、氏の『生贄の島』発刊への並々なる使命感は読むものに迫力となって伝わってくる。
一方、『ある神話の背景』の執筆動機は極めて野次馬的なもので、『生贄の島』連載の後に刊行された大江健三郎氏の『沖縄ノート』を読んで、登場する赤松隊長のあまりにも酷い悪党ぶりに「世の中にこのような絵に描いたような悪人が実在する事実」(要旨)を知り、そんな人物に実際会って見たいという「作家的好奇心」が執筆の動機だという。
事実、この二つの沖縄戦ドキュメント発刊の間に曽野氏は慶良間島と想定できる沖縄のある島を舞台に「集団自決」をテーマにした純然たる小説を書いている。
『切りとられた時間』 昭和46年9月 中央公論社刊
筆者が最初に読んだ曽野氏の沖縄戦記は『生贄の島』であるが、発刊当時の沖縄では沖縄戦記といえば『鉄の暴風』がバイブルのように読まれており、「沖縄がこれだけ悲惨な目にあっているのに、本土の知識人は見てみぬ振りしていえる」といった風潮が蔓延していた。
他の沖縄戦記もほとんどが地元の著者の出版であり、そんな矢先、
当時既に有名作家だった曽野綾子氏が『生贄の島』を発刊したことは当時の沖縄にとっては歓迎すべきことだった。
『生贄の島』で情熱を使い果たした感のある曽野氏が、これで沖縄戦記は打ち止めにしていたら、曽野氏は「沖縄戦史の証言を掘り起こしてくれた恩人」として沖縄でも人気のある作家であった可能性もある。
ところが「作家的好奇心」で調査、出版した『ある神話の背景が』が触れてはならない「不都合な真実」に触れた瞬間、曽野氏は沖縄マスコミによって「沖縄の敵」にされてしまう。
特に『鉄の暴風』を発刊した沖縄タイムスは著者の杜撰な記述を指摘されて曽野氏を不倶戴天の敵として扱うようになる。
かくして、沖縄に情熱を傾け「沖縄病候補者」だった曽野氏は沖縄マスコミに洗脳された沖縄人により激しいバッシングを受けるようになり、「剃刀の刃を郵送さられた」事もあったという。
ネット時代になっても曽野氏へ沖縄人よりの罵倒は続いており、「曽野氏を心から憎む」といった理屈を超えた怨念に取り付かれたようなコメントも飛び交う有様である。
ちなみに曽野氏が『沖縄ノート』の引用を誤記・誤読したという神話が今でもまことしやかにネット上を流布しているが、まことにもって失笑ものである。
これは「論議」の問題ではなく「確認」の問題であり、確認という初歩的手続きを怠った琉球新報が,「売れない評論家」の「曽野綾子誤記論」に飛びついて三回に渡り連載記事を掲載して大恥を晒した経緯は過去に当日記でも触れた。
⇒琉球新報の大失態!幻の「曽野綾子誤字・誤読事件」 |
某評論家は評論の続編掲載を琉球新報に内諾を得たのか、自ブログで長い間掲載予告をしていたが、ついに以後琉球新報に同氏の評論を見る事はなかった。 勿論、現在では(琉球新報掲載の)「予告」も削除されている。
琉球新報も目が覚めたのか、それとも遅ればせながら「事実確認」をしたのだろうか(嘲笑)。
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