狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

宮城晴美氏の苦悩(1)-母から託された「真実」を本に

2008-05-29 07:09:51 | ★集団自決

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「集団自決」を解りづらくして大きな要素は座間味島、渡嘉敷島という二つの島で同じような悲劇がほぼ同じ時期に起きたことである。

従って登場する人物も「加害者」、「被害者」もそれぞれ異なるのは当然だが、多くの重要人物が戦後改姓をしたことも、問題を分かりづらくしている理由の一つである。

これを沖縄戦では戦火で戸籍が消失した例が多いので、戸籍復活の際に改姓したに過ぎず、特別の意味は無いという人もいるが、戸籍の消失は何も座間味、渡嘉敷に限らず沖縄のいたるところで見られた。

だが、両島のように一時期に集中的に多くの人が改姓した例を知らない。

仮に戸籍復活を機に改姓するといっても、先祖の名前の継承を尊ぶ県民性を考えると、丸ごと、しかも本土風の苗字に変えてしまうのはいかにも不自然である。 

問題の発端となった『鉄の暴風』の著者の大田良博記者も伊佐良博からの改姓である。

証言者の中には、改姓していない人でも似たような名前が多く、途中からこの問題に関心を持ち始めた人には紛らわしく問題の理解を妨げる。

ざっと思いつくだけでも、宮里、宮平、宮村、宮城等等・・・。

昨日のエントリーで重要証言者宮城晴美氏のことを取り上げたが、宮城氏は地元では「女性史研究家」として著名人であり講演会等では引っ張りだこのようで地元マスコミへの露出も多い。

だが、特に県外の方では「集団自決」の重要証言者の1人宮城晴美氏についてよく知らない読者も多いと思う。

そんな読者のため、また、よくご存知の方には控訴審前の知識の整理のため、

宮城晴美氏と「集団自決」との関わりを詳述してある『View Point 1 1980』(世界日報社刊)から以下に抜粋引用する。

                    ◇

沖縄戦「集団自決」から62年 真実の攻防 第2部 <3>(平成19年10月25日)

宮城晴美氏の苦悩(1)-母から託された「真実」を本に、原告側証拠となり、たじろぐ 

 「沖縄戦『集団自決』―教科書検定への不当な政治介入に断固反対する」緊急集会=10月15日、参議院議員会館第一会議室で(武田滋樹撮影)  (写真省略ー引用者)

 「沖縄戦の悲惨の極限『集団自決』の中を生き、『真実』を秘めたまま母は他界した。それから10年――いま娘は、母から託された『真実』を、『集団自決』の実相とともに明らかにする」
 第二十二回沖縄タイムス出版文化賞正賞を受賞した『母が遺したもの』(平成十二年十二月発行)の宣伝文句である。

 著者である宮城晴美氏(57)が母の初枝さんから託された「真実」とは何か。それは、昭和三十一年三月、厚生省引揚援護局の職員が住民の戦争体験の実情調査のため、座間味島を訪れたことに端を発する。住民が軍の要請を受けて物資の輸送や兵士の案内、勤労奉仕などの形で戦闘に参加・協力して死亡または負傷した人を支援する法律が施行され、沖縄もその適用の範囲に含まれることになった。これを踏まえて、聴き取り調査が行われたのである。

 初枝さんは島の長老から、「梅澤隊長から自決の命令があったと証言するように」と求められた。しかし、初枝さんは証言できないと断った。だが、「島の人たちを見殺しにするのか」という長老の怒りに屈して、自決命令があったと証言したのである。

 初枝さんの証言が契機となって、「梅澤隊長自決命令」説が広まって梅澤氏の家庭に暗い影を落とすことを耳にした初枝さんは激しく葛藤(かっとう)する。昭和五十二年になって、「梅澤隊長は自決の命令を出していない」と娘、晴美氏に語った。

 晴美氏は体験を記したノートに込められた母の思いを受け継ぎ、さらに関係者を取材し、書き上げた『母が遺したもの』。だから、この本はあの沖縄戦の惨禍を生き抜いた母と、ジャーナリストである娘の記念碑的共同作品とも言える。

 晴美氏は母のノートと関係者の取材を総合した結論として、梅澤隊長の自決命令はなく、座間味島の助役で兵事主任兼防衛隊長、宮里盛秀(せいしゅう)氏が、住民を敵の「魔の手」から守るために、「玉砕」を命令し、決行したと著書に書いた。

 その記述は、沖縄戦集団自決訴訟を提訴した原告側の、有力な証拠資料として裁判所に提出された。また、ジャーナリスト櫻井よしこ氏は週刊新潮(平成十九年一月四・十一日号)の連載コラム「日本ルネッサンス」で、原告の梅澤裕氏を取材して「沖縄集団自決、梅澤隊長の濡れ衣」と題するコラムを書いた中で、宮城初枝さんの新証言に触れつつ、「幾人かの住民も真実を語り始め、自決命令は宮里助役が下したと判明した」と書くなど、隊長命令を否定する決定的根拠としてあちこちで引用されるようになったのであった。

 もちろん、法廷では被告側弁護士が反論した。

 <「母が遺したもの」によると、宮城初枝氏は、一九七七年(昭和五十二年)三月になって、一九四五年(昭和二十年)三月二十五日夜に原告梅澤に会った際には隊長の自決命令はなかったと宮城晴美氏に告白するに至ったとされているが、これは、この面会の際に隊長命令がなかったということにはなっても、これによって日本軍の隊長命令がなかったことにはならない>(被告準備書面(6)要旨 平成十八年十一月十日)

 この裁判を前にして、著者の晴美氏に幾つかの選択肢があった。原告側から要請があれば出廷して、著書に書いたように「梅澤隊長の自決命令はなかった」と証言するという選択は、他人から見ればごく自然であろう。一方、沈黙を続けて、さまざまな誹謗(ひぼう)非難があったとしても、裁判に関与せず、母の証言と自著を守るという道もあった。

 だが、晴美氏は、傍目(はため)には最も「困難」と思える道を選んだ。自著の表現が未熟であり、誤解を関係者に与えてしまった、座間味島における日本軍の責任は限りなく大きいと証言し、被告側を支援するという道である。

 果たして彼女はその選択を、一体いつ決めたのだろうか。自らの主体的な意思で選んだのか。母初枝さんは昭和三十一年、村の長老の半ば脅迫じみた言辞に証言を拒めず、しぶしぶ、虚偽の証言をしてしまった。宮城晴美氏もまた、かつての母と同じように、関係者の「圧力」を受けたのだろうか。

(編集委員・鴨野 守)


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