狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

重要証言者の死

2008-05-02 07:39:32 | ★集団自決

 

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三日前の4月29日は国民の祝日で「昭和の日」ということだが、筆者のように昭和の前半に生まれた者にとっては「天皇誕生日」といった方がピンと来る。

大正4年の天皇誕生日に生まれた比嘉喜順さんが、奇しくも三日前の「天皇誕生日」(昭和天皇)に、94歳の天寿をまっとうし永眠された。

比嘉喜順さんといってもご存知のない読者が大部分だろうが、渡嘉敷島の「集団自決」の時、本島から赴任したばかりで不幸な事件に巻き込まれた安里喜順巡査(当時29歳)といえば思い出す人もいるだろう。

安里さんは戦後比嘉家の養子になって比嘉の姓を名乗っていた。

去年の5月、ジャーナリストの鴨野守氏が取材した折、誕生日が昭和天皇と同じ4月29日だとの話題で、うれしげな表情を見せて、

「ただ日本のためにと、生きてきました。 何の心残りもありません。 「(沖縄戦のことについては)これまで自分が書いてきた通りです」と語ったという。(月刊ビューポイント)

昭和天皇と同じ誕生日を嬉しそうに語った安里さんが、一年経って、その同じ4月29日にお亡くなりになったのも何かの巡り合せだったのでしょう。 

合掌。

                      ◇

「集団自決」の生き残りは老人と子供が多かったため既に物故した人が多かったり、当時幼かったため後の証言が他人の影響を受けて信憑性にかける点が指摘され、それが真相解明の大きな妨げになっていた。

更に問題を複雑にしているのは、「集団自決」の関係者が血縁・地縁で何らかの繋がりがありそれが証言者の口を重くしているという点である。

それに年金支給の問題が絡むと今でも黙して語らないお年寄りが多数いると聞く。

その点、安里(比嘉)さんは信憑性のある証言者としての条件を全て具備していた。

安里巡査は本島から赴任したばかりで渡嘉敷島の血縁社会にとっては「よそ者」であり、、島の血縁・地縁社会とはつながりの無い新任の警察官だった。

当時29歳の安里巡査は親族に「集団自決」のいない証言者であり、年齢的にも、村の指導的立場の警察官という立場からいっても、生存者の中で最も信頼のできる証言者のはずだった。

これだけの証言者としての条件を具備していながら、又戦後沖縄に在住しているのにもかかわらず、不思議なことに地元マスコミで安里さんに取材したものは1人もいないという。

その理由は?

安里(比嘉)さんが渡嘉敷島で起きた「集団自決」の「不都合な真実」を知っていたからである。

安里巡査はご存命 反対証言は取材しない地元マスコミ

 

さて、地元に在住していたにもかかわらず地元マスコミが徹底して黙殺した安里巡査にジャーナリストの鴨野氏が取材したことを述べたが、その取材レポートを「月刊ビューポイント」から以下に引用する。

安里巡査が故人となってしまった今となっては大変貴重な取材レポートである。

                    ◇



月刊ビューポイント ■ダイジェスト版世界日報

沖縄戦「集団自決」から62年 真実の攻防

比嘉元巡査「地元紙一度も取材ない」

「軍の食糧、村民に与えた赤松氏」

戦火の渡嘉敷島で日本軍と住民との連絡役を任されていた駐在巡査、安里喜順氏(後に養子に入り、比嘉と改姓)。彼は赤松嘉次隊長の副官、知念朝睦氏とともに、当時を詳しく語ることのできる人物であり、存命ならば記者(鴨野)はぜひともお会いしたいと考えていた。

だが、知念氏や金城武徳氏からは「既に高齢であり、取材は難しいだろう」と告げられた。

別の関係者からは死亡説も聞かされた。しかし、比嘉氏の身近な人は、まだ元気なはずだと言う。

五月下旬、とりあえず自宅に向かった。家には誰もおらず、豪雨の中、二時間半はど粘ったが、会えなかった。ただ、近所の人から「お元気よ」という言葉を聞くことができた。夜、所在を確認できた。翌日、比嘉氏が入院中の病院を訪ねた。

古くからの友人である垣花恵蔵・わかば保育園理事長の姿を認め、比嘉氏の顔がはころぶ。  古くからの友人である垣花恵蔵氏(左)の見舞いに喜ぶ比嘉喜順氏
(沖縄県内の病院で)=5月30日、敷田耕造撮影(写真省略)

誕生日を聞いた。「大正四年四月二十九日です」。

「昭和天皇と同じ日ですね」と話すと、うれしげな表情を見せた。

二十分余りのインタビューで比嘉氏は、

「ただただ日本のためにと、生きてきました。何の心残りもありません」

「(沖縄戦のことについては)これまで自分が書いてきた通りです」と語った。

比嘉氏が昭和五十八年六月八日付で、衆議院外交委員会調査室に勤務し、沖縄問題を担当していた徳嵩力氏(当時六十一歳)にあてた手紙の内容を、

比嘉氏の子息の了解を得て、ここに公表する。

その日の沖縄タイムスには、徳嵩氏が赤松大尉直筆の手紙を同社東京支社に届けたという記事が掲載されていた。徳嵩氏は『鉄の暴風』を読み、赤松氏に事実関係を尋ねたところ、昭和四十五年十一月三十日付で返書が届いた。

その中で赤松氏は

「戦時中、現地の方々の献身的な御協力にも拘(かかわ)らず力足らず、あの様な結果になったことは沖縄で戦った者として現地の方々に申し訳なく思っている」と詫(わ)びている。

だが住民虐殺、集団自決への自身の関与については「一部マスコミの、現地の資料のみによる興味本位的に報道されているようなものでは決してありませんでした」と強く否定。

これに対して徳嵩氏は

「どうも後で理屈付けをした感があり、説得力に乏しい」「住民の証言の方が、より重みがあるし、軍隊は、その特性から、いつでも物事を正当化するものです」

などとコメント。

記事は、「赤松氏がどんな胸中で手紙をつづったかは、確かめるよしもないが日本軍による住民虐殺、軍命による集団自決という悲惨な事件が渡嘉敷で起こったことはまた歴史的事実である」と結んでいる。

比嘉氏はすぐさま、徳嵩氏に反論の手紙を書いたのである。

私は当時の最初から最後まで村民と共に行動し、勿論(もちろん)自決場所のことも一々始終わかってをります。

あの集団自決は、軍命でもなければ赤松隊長の命令でもございません。

責任者として天地神明に誓ひ真実を申し上げます。

……『鉄の暴風』が発刊されてをるのも知らず、那覇の友人から聞かされ、それを見せられて驚いた程であります。その時には既に遅く、全国に販売されてをったようです。

それで一方的な言い分を聞いて実際に関与した而(しか)も責任ある私達に調査もされず刊行されたこと私の一生甲斐(原文のママ)の痛恨の極みであります。

沖縄タイムスの記者が私を訪ね、渡嘉敷島について調べられたことは今もって一度もございません」

比嘉氏は、捕虜となり収容所に入れられてそこで友軍の行動などを聞くのだが、それを聞いて改めて

「赤松隊長のとった行動は本当に良かった」と振り返る。

敵の海、空よりの抱撃のさ中で、軍の食糧(米、味そ等)調味品を村民にも二分し与えて下さった、あの赤松隊長の志を、行動を、こんな隊長が大東亜戦争、沖縄戦の悪い代表扱いに掲載されることは本当に残念でなりません。

あの戦争は吾々日本人全体の責任と私は思って憚(はばか)りません」

そして徳嵩氏に、曽野綾子著『ある神話の背景』を読むようにと要望し、次のようにつづる。

「真実と云うのは両方の調査の上に立って表現するものでありまして、一方的に出してそれで何も知らない人々はそれを信じるよう(に)なり、大方はそんなものではございませんか。私はそう思います」

その十日後、比嘉氏は徳嵩氏からの手紙を受け取った。

「拝復 お手紙深い感銘をもって拝見いたしました」で始まる丁寧な返事だ。

彼は『ある神話の背景』を読み、

「如何に勉強不足であったかを改めて痛感させられた

と率直に吐露。

比嘉氏の証言で真相に触れたことが「非常に幸いであり、また救いでもあった」と感謝を述べ、「機会がある度に、赤松大尉事件の自決命令は伝聞であって真実はこれこれであるというように訂正して参りたいと思っております」と告げている。沖縄戦「集団自決」から62年 真実の攻防

                       ◇

昭和五十八年当時、衆議院外交委員会調査室に勤務し、沖縄問題を担当していた徳嵩力氏(当時六十一歳)も、

沖縄戦史のバイブル視されていた『鉄の暴風』の呪縛にとらわれ「赤松の暴状」を真に受けていた。

当時の事情を全て知る安里元巡査の手紙で徳武氏も検証しなおし、「機会がある度に、赤松大尉事件の自決命令は伝聞であって真実はこれこれであるというように訂正して参りたいと思っております」と発言するまでに目が開いた。

だが、「真実を知る男」に取材する沖縄のマスコミは一社も無く、彼の貴重な証言はかろうじて「沖縄県警察史」に記録されている。

参考:

「沖縄県警察史」より安里喜順元巡査の証言抜粋⇒緊急!生き残り警察官の証言  パンドラの箱は開

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