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段ボールで作ったくす玉を割り開店を祝う(右から)古堅さんと近藤さん・徐さん夫婦=沖縄市・銀天街
【沖縄】空き店舗解消に力を入れる沖縄市の銀天街商店街に、本年度に入って飲食店が相次いで出店し、同商店街振興組合などが描く「屋台村構想」が一歩ずつ実現しつつある。一日にオープンした三店舗目の店主夫婦は、インターネットで銀天街情報を知り、北京から移住してきた。関係者らは「さらに店が増えれば、寂れた商店街再生のモデルになるかもしれない」と長年閉じたままだったシャッターが開いていくことを喜んでいる。(比屋根麻里乃)
コザ十字路の一角に位置する同商店街は、老朽化や周辺への大型商業施設の進出の影響で空き店舗の増加が深刻化していた。本年度、組合が市の委託を受け、国道329号に面する商店街入り口から三店舗を整備し、飲食店を誘致。
有志が協力
一日にオープンしたアジア屋台料理「2298」の徐慧(シュウ・フイ)店長(37)と夫の近藤正義さん(51)=東京都出身=は、今夏、コザを紹介するブログ「コザ漫遊国」で銀天街の存在を知り、興味を持ったという。九月に北京から初来沖して下見し、出店を決意。同組合や地域の有志らが、店の改装に再利用できると、解体された市民体育館の廃材を運んでくるなどの協力もあったという。
十五年間、サイパンでレストランの経営経験がある徐店長と近藤さん夫婦は「空き店舗が多いことは事前に知っていた。売り上げだけを考えるとリスクがあるかもしれないが、歴史あるレトロな雰囲気が屋台風のイメージに合い、気に入った」と理想の店作りに期待を膨らませる。
ブログ契機
出店のきっかけとなったブログを運営する古堅宗光さん(61)は「海外からの出店希望は想定外だった。地域の情報発信が街づくりにつながりびっくりしている」とインターネットの力に驚く。
2298隣に六月に開店した刺し身屋「新鮮くん」、たこ焼き屋「フジパーラー」の両店舗も、部活帰りの学生や、信号待ちで開店に気付いて来店したという客が増えたという。
同組合の仲田健青年部長(45)は「商店街の活性化に特効薬はない。皆が望む商店街存続のため、商店街入り口から地道に空き店舗を減らしていきたい」と話した。
◇
沖縄の日本復帰の二年後の昭和49年、コザ市と美里村が合併して沖縄市誕生した。
当時那覇に次ぐ第二の市であったコザ市が、“沖縄の中心都市に”との願いから「沖縄市」に市名変更したのだが、
県庁所在地である那覇市や他の市町村からも反発を受けたことを記憶している。
上記記事の銀天街は復帰前は、那覇市の牧志市場に次ぐ沖縄で二番目のにぎやかな市場であったが、復帰と共に近郊に大型ショッピングセンターが進出し、銀天街の昔日の喧騒は今はない。
いや、昔日の賑わいどころか、アーケードで覆った町並みはシャッターを下ろした廃店舗が並び、昔を知る人にとっては今では昼なお暗い廃村のイメージさえ与えている。
◇⇒銀天街の落書き
米軍占領下の銀天街が人で溢れていた頃、近くには「黒人街」と称する米軍相手の特飲街があった。
通常は白人・黒人の区別なく仲良くやっている米兵も、いざ街に出て、飲食をするときは「黒人街」「白人街」と分かれて行くのは不思議な光景であった。
当時にぎやかだった黒人街はこの有様。
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復帰直後のこと、有名男性美容家の真野博氏を、コザ市(沖縄市)を案内したことがある。
真野氏は当時ラジオやテレビで番組を持つ男性美容師のはしりのような人だったが、コザ市の外人街を訪問したいとの要望で、昼間のゲート通りに車を止めた。
基地のゲート(入り口)に向かって、横文字の店が連なる街には、昼間からネオン看板が点滅し、米兵がバー、クラブの前にたむろしている。
コザ市には不案内の筆者ではあったが、真野氏のたっての要望だったので入り口にたむろする米兵を掻き分けて、とあるバーの地下への階段を下りていった。
ドアを開けると、そこには外のサンサンと太陽が降り注ぐ風景とはまったく別の世界があった。
薄暗いシート席に客は誰もいなかったが、そこだけひときわ明るいカウンター席には米兵が二人静かに飲んでいた。
ジュークボックスからは静かなバラード調のジャズが流れていた。
地元出身の筆者がオタオタしている間に、当時40歳前後だったと思われる真野氏は馴染みの酒場に通う常連客のような悠然とした態度で、カウンターにかけた。
昼間のせいかカウンター内には中年のバーテンが一人だけ。
「何にしますか」
「バーボン」
「種類は」
「ジャックダニエル」
「ターキーとジムビームしか置いていません」
「どっちが出ている」
「ジムビーム」
「じゃ、それをロックで」
「私もそれを水割りで」
上記会話で筆者がしゃべったのは最後の一言だけ。
しばらくそこに居たら、時を忘れてしまった。
グラスを傾ける瞬間が真昼であることを忘れるような異空間であった。
真野氏は僅か30分程度の外人バー探検ではあったが、その雰囲気がいたく気に入ったようで、次のような感想を述べた。
「このような町並みやバーの雰囲気は東京では味わえない貴重な体験だ」
「今後のコザ市が観光客誘致を狙うならこのような復帰前の雰囲気を大事に残すべきだ」
ところがその後、コザ市は復帰前の雰囲気を残すそのユニークな名前をいとも簡単に捨て去り、沖縄市に変更した。
そして真野氏が要望した「レトロ雰囲気」とは別方向の近代都市への変貌を模索し始める。
そして町並みも「BC通り」という復帰前の残滓を残す名前を一変して、「中央パークアベニュー」と「東京風」に変化していく。
そして沖縄市は、アメリカ風から東京風に雰囲気をシフトし始めた頃から衰退を始める。
皮肉なことに隣接する北谷市やうるま市に出来た駐車場付きの「東京風」の大型ショッピングセンターに客を奪われたのである。
その後沖縄市の商工会議所を中心に、衰退した街の典型である銀天街の復興に努力をしてきた。
例えば店舗の家賃を一年間無料にするとか、
若者のライブを街の通りで行って客寄せにするとか・・・。
そして今回は、ネット「 コザ漫遊国ブログ」による店舗入居者が、中国からやって来て銀天街に出展すると言うのだ。
対馬の「韓国人侵略」が気にはなるが、記事にある日本人と中国人の夫婦が純粋に銀天街復興に貢献し、
横浜中華街のような観光の目玉になるのを目指しているのなら応援したい。
現在の銀天街の衰退振り↓人影も見えない。
過去に銀天街はこのような、涙ぐましい努力もしている。↓
コザの「台所」再び 銀天街舞台にミュージカル(2008年3月12日)
商店街の再生を目指して上演された「ミュージカルGINTENGAI44」=沖縄市銀
【沖縄】地域住民の「台所」として親しまれた沖縄市の銀天街に活気を取り戻そう、と「復活」をテーマにした「ミュージカルGINTENGAI44」が15日、同商店街で上演された。銀天街を拠点に芸術活動などに取り組む若者たちの創作集団「銀天座」(比嘉陽花座長)の主催。ミュージカルを通して商店街の人たちが抱える悩みや問題、人との触れ合いの大切さを訴えた。
銀天街は、同市コザ十字路に位置する商店街。以前は、近隣市町村からも衣料品など生活必需品を買い求める人が後を絶たず、にぎわいを見せていた。
毎月第3土曜日に開催される屋台祭りや、県内外の若者が定住し空き店舗を利用した各種の芸術活動などを通して、商店街の活性化を目指している。
「ミュージカルGINTENGAI44」は、芸術活動をきっかけに銀天街と出合った比嘉陽花さんが、そこで出会った住民との交流や商店街の現状を脚本としてまとめ、音楽を加えて表現した。
今回は2006年の「ウチナー芝居カタハランブー」に続く2作目。銀天街屋台祭りの一環として行われた。
◇
那覇市の国際通り「てんぶす館」の裏に広がる一帯は、復帰前は「桜坂飲み屋街」という沖縄でも有数ののんベー天国だった。
復帰後、新興の盛り場にその王座を奪われたがそれでも、10年ほど前から、衰退して安くなった家賃に目をつけた若者たちが手造りでレトロ雰囲気を残したユニークな店を出して、独特の発展をしようとしていた。
ところが現在は大資本が入り込んで、「のんベーの街」を大改造しつつある。
沖縄市でいえば、BC通りを大改造して、奥に「東京風」ショッピングセンター「ショッピングモール コリンザ」を作ったが、これが大失敗に帰した例を「桜坂再開発」から連想する。
これまでの銀天街の努力↓
つるつる「冷た~い」 銀天街でそうめん流し(2008.7.8)
空き店舗情報お任せ 交流センターがオープン(2008.6.5)
【追記】 12月4日
銀天街へのブログ応援団
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