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沖縄戦「集団自決」の謎と真実 秦 郁彦 PHP研究所 このアイテムの詳細を見る |
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「うつろな目の少女」として夙に知られた写真の少女の正体が、 実は女装した大城盛俊氏だ、と報じた琉球新報の記事に衝撃を受けた。 だが沖縄出身で長年沖縄に在住する筆者が何よりも驚いたのは、この手のニュースには過敏に反応するはずの沖縄紙が戦後60数年間もこんなオイシイ話を見逃してきた事実である。 大城氏が自分の体験を語るのを好まず、そのときまで沈黙を守っていたのなら納得もできる。 だが、大城氏は全国を行脚して千数百回にも及ぶ講演会行っている講演会のプロではないか。 それに大城氏が写真の少女が自分であると知ったのは、二十年以上も前のことである。 更に、不謹慎ながら、新報記事を見てとんでもない誤読をしてしまったことが驚きに輪ををかけた。 戦時中に鬼畜米兵の毒牙を免れるため女性が断髪し男装したとは沖縄では良く聞く話。 だが、「少女が髪を切って少年に化ける」のなら腑に落ちるのだが、その逆の大城氏の場合は筆者の理解を超えた。 髪の伸びる時間や技術的にいっても、丸刈りよりオカッパ頭の方が調髪は難しいはずだ。 それにこのような例は数ある沖縄戦の証言の中でも、後にも先にも、大城氏の話が初めてであると思われた。 記事を誤読したというのは、次のくだりである。 <当時12歳で、育ての父に「男の子は兵隊にやられるから女の子になりすましなさい」と言われ髪を伸ばした。(琉球新報 2007年8月25日)> 冷静に読めば「男の子は兵隊にやられる」とは「兵隊に遣(や)られる」だと理解できるのだが、 二年前のその当時は「11万人」集会を目前に控え新聞は連日「悪逆非道の日本軍」という合言葉を表面に押し立てた大キャンペーンを張っている最中である。 筆者は恥ずかしながら記事中の「兵隊」という単語に脊髄反応してしまい、「男の子は兵隊にヤルられる」、つまり犯されると誤読してしまったのだ。 いくらなんでも日本軍を貶めるのに「ホモ集団」はないだろうと怒りを通り超して苦笑した。 まもなく誤読と判明するのだが、実際は大城氏は兵役の手伝いをされるのを避けるため少女に扮装していたのだ。 現在の感覚で言えば兵役を逃れるため大城少年をオカッパ頭の少女に仕立てた義父の心境はよく理解できるが、兵役忌避は例え少年といえども当時は恥ずべき行為とみなされる時代であった。 大城氏が、自分の故郷である沖縄本島での講演をさけるようにもっぱら本土を中心に講演している理由も、女装により「兵役忌避」したと言う負い目があったのではないか。 この兵役忌避は筆者の勝手な推量ではなく、本人が2005年8月11日放送の朝日放送の戦争特集「語りつぐ戦争」に登場して、オカッパ頭にした理由を、次のように証言している。 <女の子に変装したのには、理由がありました。 「お父さんは私に向かって、『兵隊たちは年齢に関係なしに連れて行くから、髪を伸ばしなさい』と…」>(http://webnews.asahi.co.jp/you/special/sengo.html)
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2007年8月25日琉球新報
<「うつろな目の少女」と題し、大田昌秀著「これが沖縄戦だ」(1977年出版)の表紙写真で紹介された兵庫県伊丹市の大城盛俊さん(75)=旧玉城村出身=が来県、高校歴史教科書検定で沖縄戦の「集団自決」に関する記述から日本軍の強制が修正・削除された問題で、「沖縄県民はもっと怒って立ち上がらなければ」と訴えている。・・・・ 表紙の“少女”の正体が大城さん。当時12歳で、育ての父に「男の子は兵隊にやられるから女の子になりすましなさい」と言われ髪を伸ばした。>
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■地元では知られていない「女装の少年」■
沖縄戦で米軍が撮影した膨大なフィルムが公開されてきたが、その中でも見る人の胸を打つ有名な二人の「少女」の写真がある。
「少女」の写真はそれぞれ大田昌秀著『写真記録「これが沖縄戦だ」改訂版』の中に収録されているが、
その一枚が「白旗の少女」として知られる一枚で、他の一枚が「うつろ目の少女」の写真である。
「うつろな目の少女」は同書の表紙に使用されているだけでなく、冒頭第1頁でも「傷つき血みどろになった少女」とキャプション付きで掲載。
一冊の本で二度も大きく紹介されているので、同書を手にした者の目に必ず飛び込んでくる構成になっている。
同書は40万部を売る大ベストセラーになったせいか、この「少女」の写真は沖縄では良く知られた写真である。
だがこの少女が実は男の子であったということを知る人は、地元沖縄でも少ない。
実際、筆者の知人友人ら二十数人に尋ねてみたが、「少女」の写真は見たことはあってもその正体が少年であると知る者は一人もいなかった。
■沖縄戦史資料館も知らない「少女」の秘密■
試しに沖縄戦の資料展示で「反軍姿勢」で知られる二つの歴史資料館を調べてみた。
激戦地のあった本島南部にある「具志頭村立歴史民俗資料館」の沖縄戦の資料展示コーナーは、ご多分にもれずお決まりの日本軍の残忍さとアメリカ人の人間性溢れる行為を強調した展示構成になっている。
同コーナーの「村内の仮収容所(米軍指定)に集められた人たち」と題した写真展示の中に「うつろな目の少女」の写真が展示されているが、説明文は「傷の手当てを待つ少女」とだけしか記されてない。
「反日本軍」を訴えるには絶好のはずの「少女」の正体も記されていなければ、「日本軍の暴行を避ける為のオカッパ頭の少年」とも記されていないのだ。
たまたま隣で見ていた地元出身の青年に「この少女は実は少年だよ」と話したが、信じてもらえなかった。
「もしそうなら、何故事実を掲示してないのか」と反論され、返答に窮した。
「具志頭村立歴史民俗資料館」からそう遠くない場所にある「沖縄県立平和祈念資料館」といえば徹底した反日思想の展示で有名だ。
赤ん坊を抱く母親に銃剣を向ける人形まで展示して反軍思想を煽っているが、
不思議なことに、ここには「うつろな目の少女」の写真展示はない。
見落としたかと思い、念のため受付の係員に尋ねたが、そもそも「うつろな目の少女」を知らなかった。
学芸員と称する専門家に聞いても、最初は「うつろな目の少女」が理解できず、大田元知事の著書の表紙に使われている写真だと説明してやっと理解してくれた。
だが、「少女」の正体が少年だったと話してもよく飲み込めない様子だった。
このように沖縄戦の資料を専門的に展示してある沖縄の代表的資料館でも「うつろな目の少女」の正体は少年だったという話は認識されていない。
筆者の友人知人が「少女」の写真は知ってはいるが、その正体をごく最近まで知らなくても無理はない話だ。
後に、大城氏は右目を日本兵の暴行により失明したとして「援護法」の適用申請したが却下されたという。
日本兵の暴行による失明は果たして事実なのか。
それよりも少女の正体が大城氏だという話そのものが事実なのだろうか。
「うつろの目の少女」のエピソードを追えば追うほど謎は深まってくる。
(続く)
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