沖縄には琉球新報と沖縄タイムスという2大新聞に逆らっては生きてはいけない職種の人たちがいる。
政治、教育から文化に至るまで網の目のように張り巡らされた2紙の影響を逃れられない大学教授や歴史研究者など文筆で日々の糧を得ている職種の人々のことである。
県内を独占する二紙の紙面を締め出されたら、意見発表の場を完全に失ってしまい、生活の糧を得ることさえ脅かされかねない。
他県に比べて多いといわれる出版物だって、殆どの出版社は2紙の関連会社が多く、2紙との友好関係なくしては出版社としての存立さえ危うくなってくる。
当然のことながら、県内でまかり通る論調は佐野眞一氏のいう「大文字言葉」で書かれた「お約束」ごとになってしまう。
県内の論調だけではない。
本土中央で活躍の沖縄通を自認する識者達も、こと沖縄となるとその論調はたちまち金太郎飴のような「大文字言葉」で塗されてしまう。
佐野氏がその代表として挙げた大江健三郎と筑紫哲也両氏はいずれも沖縄タイムスにその論調がロンダリングされた状態にある点では言い得て妙である。
さて、これまで数多くの「大文字言葉」のみで語られてきた太田昌秀像を知る者にとって、「小文字言葉」で描かれる太田氏の実像には驚かされるであろう。
平和主義、非暴力を叫び基地撤去を叫び続ける太田氏に一番似つかわしくないのが暴力行為だと思うだろうが、
何よりも太田氏を一番知るはずの太田夫人が太田氏の酒乱と暴力でハワイに逃げて長年別居状態であり、選挙のときのみ沖縄に戻って夫婦円満を演じる「選挙妻」であることは沖縄人の間では公然の秘密といえる。
ただ太田氏を援護するマスコミがこれを報じないだけだった。
さて、「太田元知事に首を締められた」と怒りを露にする上原氏の言葉を確認するため、佐野氏は再度太田氏にインタビューを求める。
前回に引き続き佐野眞一著『沖縄 書かれたくなかった戦後史』からの引用である。
<告訴された以上、もう一人の太田に話を聞かないわけにはいかなかった。
ーー上原正稔という人物をご存知ですか。 彼は太田さんに首を絞められたといっていました。
「ええ、知っています。 大げさなヤツです(笑)。 裁判は、彼の方から取り下げたのです」
ーー原告の方から取り下げたのですか。
「そうです。 まったく話になりません。 彼が(沖縄本島南部の)具志頭村(現・八重瀬町)に世界平和を祈念する施設のようなものを作りたいといってきたのは事実です。 でもそのとき僕はもう、“平和の礎”構想をスタートさせていたのです。 1フィート運動では、彼はアメリカでよくフィルムを集めてくれました。 でも、会計のことでほかの役員から文句が出たので、事務局を下ろされたと聞きました。 それを彼は、僕が彼の首を切ったと思っているんじゃないのですかね」
後で信頼できる関係者に上原の人となりを聞くと、「英語力をはじめ能力は抜群ですし、金銭に関しては非情に潔癖です。 ただ、元々一匹狼的ところがありますから、組織人としては疑問符がつけられかも知れません」という一方に偏らない答えが返ってきた。
上原と太田をよく知る新聞記者は、太田が上原に暴力をふるったかどうかは知らないが、太田が興奮しやすい体質であることは間違いない、と言った。
「ちょっと批判的なことを」言われると、すぐ顔を真っ赤にさせる。鼻血まで流すこともありました。 酒乱? いまの(仲井真)知事の方が百倍酒乱ですが、その気(け)はありましたね。 売名欲の塊? 僕に言わせれば、学歴コンプレックスの塊だと思います。 グラビアアイドルのC・C・ガールズが知事室に表敬訪問したとき、太田さんは開口一番、『君たち大学はどこをでているの?』と聞いた。 C・C・ガールズの一人が『私たち、全員高卒です』と答えたら、みんなシーンとなってしまったことがあります(笑)」
“鉄血勤皇隊”体験が“米留”につながり、そのキャリアが結果として、太田を沖縄の代表的パワーエリートの座に押し上げ、知事の椅子にのぼらせる原動力となった。 それがもし、事大主義や権力志向、売名欲や学歴コンプレックスなど、太田の中で眠っていた負の資質まで引き出すきっかけになったとすれば、“米留”体験は、大田にとっても沖縄にとってもプラスの要素ばかりではなかったことになる。
“米留”という異文化交流体験者の訪問から始まった取材は、一方で、上原正稔という怪人物の偏向プリズムを通して、太田昌秀の隠された負の部分を浮かびあがらせた。>
◇
佐野氏に、上原氏の首を絞めたかとの問に対する太田氏の返答が、とても筑紫氏の描く太田像とかけ離れているのに驚かされる。
「大げさなヤツです」ということは暴力をふるったことは否定はしないが、話がオーバーだということか。
前のエントリーでは、首を絞めた後3メートル引きずったというのがのが大ゲサなのか、と書いたが、その後の太田氏の素行を調べると酒乱での暴力沙汰は日常茶飯事なので、
「たかが首を絞めたり引きずったくらいで告訴するのが大げさ」なのかとも思ったりする。
何が大げさかはさておいて、太田氏が上原氏の発案である「1フィート運動」と「平和の礎」の構想を知事の権力にモノを言わせて盗作し、それが原因で上原氏に暴力をふるったことは間違いないようだ。
1992年9月23日午後9時、沖縄県庁近くの高級ホテル「沖縄ハーバービュー」の宴会場で起きた事件の詳細は次回に・・・。
続く