狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

第三章ハーバービューホテルの決闘

2009-04-23 07:12:24 | 未分類
 

 

 

一見まったく接点がないように思われる太田、上原の両氏だが、沖縄戦記を出版しているという点で同じ分野にあると前に書いた。

その二人が那覇市の最高級ホテルの宴会場で衆人環視の中、取っ組み合いの乱闘劇を演じた原因は一体何であったか。

その原因を辿ると、二人が始めて対面したときからお互いの胸中に爆弾の火種を抱えていたことがわかる。

時は「ハーバービューの決闘」から更に約10年遡る。

上原氏がまだ40歳になったばかりの1983年、ある出版パーティーの席上で初めて二人の怪人は歴史的対面をする。

その頃上原氏は若い仲間役10名とチームを組んで米国公文書館から沖縄戦の資料を精力的に発掘していた。

それが地元マスコミにも知られるようになり沖縄戦の資料発掘では少しは知られた存在になりつつあった。

初対面の時は意外にも最初に声をかけてきたのは当時は琉球大学教授をしていた太田氏の方からだった。

「上原君、いい仕事をしているじゃないか」

太田氏との歓談の中で沖縄戦の映画フィルムの話題がでた。

今から考えると太田氏は一匹狼的存在の上原氏の実務能力と行動力を見くびっていたのだろう。

どうせ出来るはずもないとおもったのか、それとも自分のパシリにでもしてこき使おうと思ったのか、次のように話してきた。

「フィルムはアメリカに多数あるはずだが、誰も入手していない。 君の手で集めてみてはどうか」

当時の若い上原氏には琉球大学教授である太田氏が後に分かるような売名欲の塊であるとは知る由もなかった。

その頃上原氏の頭にはフィルムに関する壮大な構想が湧き上がっていた。

沖縄戦記の出版では高名な大学教授の一言で、若い上原氏は勇気百倍、早速行動に取り掛かかった。

何事でも人間が行動を起こすにはそれなりの資金が要る。

ましてや何度も太平洋を往復して米国公文書館から資料を発掘するにはかなりの活動費が必要だ。

これまでも一匹狼的活動をしてきた、上原氏は少数の大口の資金援助を受けるより、誰でも気軽に支払える小額の援助金を広く集める構想を練った。

県民一人一人がフィルム1フィートにつき100円出せば充分な資金があつまり、世のため人のために尽くせるという上原氏の構想に無名の若者たちはやる気満々であった。

だが、たとえ100円といえども人様から浄財を集める為にはそれ相応の信用が必要である。

若者たちの純粋な気持ちに同意してくれる人はいるとしても、より多くの県民にこの運動の趣旨を理解してもらう為には県内で知られた「識者」を運動に参加させえた方が理解は得やすい。

県民の理解を得るために純粋に燃えた上原氏は、新聞などでその名を知られた「識者」たちを訪ねて運動への参加を依頼した。

それまで一匹狼的行動をしていた上原氏は「識者」に面識はなかったが、出会って説明すると、皆、快く協力してくれるといった。

そのとき上原氏が何の疑いもなく「箔付け」のため協力を依頼した10名の「識者」の中には、仲宗根政善、牧港篤三、宮里悦、外間政彰、福地曠昭、宮城悦二郎、太田昌秀といったお馴染みの名前もあった。

列挙した名前を見て、事情を知る人なら殆どがイデオロギー臭のする人物だとわかるはずだ。

沖縄で沖縄戦を語る有名人を辿っていけば当然のことながら沖縄タイムスが発信する「鉄の暴風史観」に染まった人たちに行き当たる。

これは沖縄の言論空間を考えれば、仕方のないことともいえる。

ちなみに、太田昌秀氏はさておいても、牧港篤三氏は元沖縄タイムス記者で『鉄の暴風』の執筆者の一人であり、現在も運動の会長を務める福地氏は復帰前からの左翼の闘士である。

また宮城悦二郎氏は、琉球大学教授だった太田氏の誘いで、米軍の機関紙の記者から琉球大大学教授になった人物で、英語が堪能なので資料収集などで太田氏の第一の子分であることは知る人ぞ知る事実である。

太田氏の県知事時代の1995年に開設された県公文書館の初代館長に宮城氏が就任したことは、太田氏が知事職以外の自分のアルバイトである沖縄戦の資料収集に、自分の第一の子分を配属させ、知事辞任後の沖縄戦史の出版のため、公費を使って米国民政府文書などを収集させたことになる。 太田氏は名誉欲の達成の為なら、なかなか悪知恵の働く男らしい。

宮城悦二郎氏は沖縄紙の紙面では識者として著名であるが、その一方、太田氏の子分として大活躍した事実は、太田知事時代に創設した反日思想のメッカとも言われる「沖縄県平和祈念資料館」の監修委員会会長を宮城氏が勤めたことでも分かる。

同資料館は太田知事から、稲嶺知事に政権が変わったとき、「子供を抱いた親子に日本兵が銃剣を向ける人形像があまりにも反日的」という理由で、

日本兵が持つ銃剣を壕の外部に向けるように作りなおす話が持ち上がった。

だが、太田氏が腹心として残しておいた宮城氏などの扇動もあって県内マスコミが稲嶺新知事を連日のように猛攻撃し、結局は従来通り「親子に銃剣を向ける悪逆非道の日本兵」という太田氏のメッセージは守られたママに放置されている。

 

当時の状況を伝える以下の記事はお約束通りの「大文字言葉」で書かれており、事情を知る者にとっては誠に噴飯モノである。

 新県平和資料館で開館式典  2000年3月30日
  沖縄戦の実相を次の世代に正しく伝えるため糸満市摩文仁に完成した新しい県平和祈念資料館が29日午後、開館記念式典を迎えた。
  式典には稲嶺恵一知事、友寄信助県議会議長、監修委員会ら多数の関係者が出席し、新たな平和発信拠点の誕生を喜んだ。
  稲嶺知事は式典で「新資料館が平和を何よりも大切にする沖縄の心を世界へ発信する拠点施設になるものと確信している」と述べ、新資料館が果たす役割に期待を寄せた。式典後、稲嶺知事、友寄議長、宮城悦二郎監修委員会会長、米須小学校5年の上原正稔さん、神里美加子さんらによるテープカットが行われ、多くの関係者が常設展示室を見学した。
  稲嶺知事は監修委員会の宮城悦二郎会長の案内で展示室を回り、銃が途中で取り外されたとして問題になったガマの模型展示や戦後の沖縄の展示などを見学した。見学後、稲嶺知事は「素晴らしい内容になっている。展示は戦前、戦後の流れを整理しており、大変感動を覚えている。関係者の努力に感謝したい。沖縄の誇るべき一つの財産で、各地各国から来られる多くの人に見ていただきたい」と話していた。
  また
昨年に表面化した展示変更問題について「私は一番大事なのは、きちんとした平和祈念資料館を完成させることが責務であると話している。きょうは大変うれしく思っていると同時に、ある意味ではほっとしている」と述べ、開館を迎えたことに安堵(あんど)感を表していた。
  同資料館は4月1日と2日は一般無料公開され、3日は休館日で、4日から通常開館となる。
  開館時間は午前9時から午後5時まで(常設展示室への入室は午後4時半)で、入館料は大人300円、小人150円。
 
 写真説明:監修委員会の宮城会長(左)の説明を受けながら、銃を手にした日本兵の展示を視察する稲嶺知事(右)=糸満市摩文仁の県平和祈念資料館
 
 評価と不満の声 交錯/注目集めた壕模型/監修委、きょう最終確認
 
  開館式典を迎えた新しい県平和祈念資料館。式典後の関係者への内覧会では、沖縄戦に加えて沖縄戦前後の歴史も併せた展示を真剣なまなざしで見学する人の姿がみられた。見学者からは「素晴らしい展示内容になっている」と喜びの声がある一方で「今後も実相から外れないよう監視が必要だ」との声も聞かれた。初めて最終的な展示を目にした監修委員は展示内容が軌道修正されたことを評価しながらも「展示作業はまだ完全ではない」と指摘し、複雑な思いをのぞかせた。
 
 
日本兵から銃が取り外されて問題となった壕(ごう)模型には多くの見学者が熱い視線を注ぎ、迫りくる戦車の音、砲撃弾の音、ひんやりとする壕内の温度に沖縄戦の追体験をした。稲嶺恵一知事も監修委員会の宮城悦二郎会長の説明に緊張した面持ちで一つひとつうなづきながら、聞き入っていた。
  展示を見学した関係者からは「沖縄が誇れる資料館ができた」「県民世論で沖縄戦の実相を歪めることは免れた」など評価する声が次々に挙がった。
  初めて展示全体を見た監修委員会の新城俊昭委員は「何と言っても現物資料が足りない。それは時間も人も十分でなく、資料を探しに行くことすらできなかった。展示パネルでは間に合わないところもあり空白部分が目立った」と展示が万全でないことを残念がった。石原昌家委員は「県民世論の後押しで、監修委員会の承認案が通った展示になった」と述べ、展示が監修委員会の検討結果を尊重したことについては評価した。
  安里英子委員は「百パーセントではない。微調整が必要」、星雅彦委員は「まだ展示されていない展示物があった」などと一様に問題点が挙げ、県が開館を急いだあまりに生じたしわよせを指摘した。監修委員会では30日に開かれる同会で最終確認し、調整していきたいとしている。
 
 写真説明:ベトナム戦争のころの基地の町や商店が再現され、訪れた人たちの目をくぎ付けにしていた=糸満市摩文仁・県平和祈念資料館
 
 宮城悦二郎監修委会長に聞く/「住民の視点」の理念守って/責任を持って最後まで監修
 
  最終的には昨年3月の監修委員会で承認された案に沿う形での展示内容に落ち着いた新しい県平和祈念資料館。同館の監修委員会(宮城悦二郎会長)は約5カ月間で展示説明文の作成などの現場作業と並行して精力的に監修作業をしてきた。県行政による展示変更問題で、揺れた新資料館の開館式典が29日行われた。展示作業にかかわった同会の宮城会長に資料館の課題や展望を聞いた。
  -開館式典を迎えての感想は。
  「開館できて、ほっとしている。監修委員の先生方は五カ月という短い期間、開館に向けて熱意と誠意を持って作業をしていただいた。展示変更問題でゴタゴタが続いたが、資料館の展示は監修委員会で承認したものになっている。それは、県による展示変更を県民世論が許さなかったからだ。だがまだ展示されてないものもあり、若干調整が残っている。責任が持てるよう最後まで監修したい」
  -開館式典後、監修委員会が展示の最終的な監修をすることについてどう思うか。
  「開館を急ぐあまり、手順が間違っている。本来、委員による最終的な監修を終えてから、開館式典を行うべきだった。なぜなら同館の基本理念が監修委員会で修正が決まっているにもかかわらず県は修正せずに展示した。県からの説明も一切ない。修復されつつあった信頼関係もまた崩れていく。ほかでも誤りがないか、30日の監修委員会ではっきりしたい」
  -新資料館に望むことは。
  「運営協議会を早急に発足し、企画展の計画や調査研究など今後の運営の在り方を検討してほしい。展示に関しては恣意(しい)的に変更せず、住民の視点から見た沖縄戦という基本理念を守ってほしい。また資料館が平和発信の拠点になるよう、多くの県民に利用してもらいたい」

                   ◇

同資料館のイデオロギーを決定した「監修委員会」会長の宮城悦二郎氏が太田元知事が送り込んだ子分であり、新城俊昭氏や石原昌家氏といった「集団自決訴訟」の被告側応援団の面々が委員として顔を揃えている事実だけでも同資料館の偏向した性格が分かる。

なお上記記事に出てくる上原正稔さんが、太田氏と「ハーバービューホテルの決闘」を演じた怪人・上原氏とは同性同名の別人であることは言うまでもない。

 続く