狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

米軍資料が物語る! 「軍命は無かった!」

2009-06-01 06:59:02 | ★集団自決

 人気blogランキングへ クリックお願いします 

 ブログセンターランキングへ。

『沖縄戦「集団自決」の謎と真実』(秦郁彦編著)に関しては、書評が出るのを期待して、内容の詳細については極力論評を避けてきたが、産経新聞が書評に代わり、同書が突きつけた問題点を改めて提起してくれた。

その一部は偶然にも『うらそえ文藝』で上原正稔氏が突きつけた問題点とも一致する。

米兵の記録した資料や米軍が戦地で押収した資料資料が「集団自決と軍の命令は関係なかった」と証明したのだ!

【土・日曜日に書く】論説委員・石川水穂 「住民は避難」が軍の大方針
2009.5.30
  ◆旧軍の極秘文書から

 沖縄県渡嘉敷・座間味両島で旧日本軍の隊長が集団自決を命じたとするノーベル賞作家、大江健三郎氏の著書「沖縄ノート」などの記述をめぐり、元隊長らが出版差し止めなどを求めた訴訟は、1、2審とも原告側が敗訴し、最高裁に上告中である。

 この3月に出版された「沖縄戦『集団自決』の謎と真実」(PHP研究所)で、編者の現代史家、秦郁彦氏が国立公文書館で見つけた旧軍の極秘文書をもとに、沖縄戦当時の政府や現地軍(第32軍)が非戦闘員に対し、どんな方針で臨もうとしていたかについて、興味深い考察を行っている。

 極秘文書は、沖縄戦が始まる3カ月前の昭和19年12月、32軍の高級参謀、八原博道大佐が起草した「南西諸島警備要領」である。文書の存在は八原氏の回想録「沖縄決戦」などで知られていたが、現物がどこにあるかは分かっていなかった。秦氏が見つけたのは、米軍が32軍の62師団から捕獲して英訳したものだ。

 そこには、19年8月に閣議決定された「総動員警備要綱」や同年10月に策定された陸海軍「沿岸警備計画設定上の基準」に基づく老人や子供たちの避難計画が具体的に記されていた。

 「軍の作戦を円滑に進め、混乱を避け、被害を少なくするために島民を適当な場所、あるいは近隣の島々に疎開させる」「『老人、子供』とは、60歳以上の者及び、国民学校6年生以下の者をいう。『戦闘に参加できない者』とは、女性の大半及び、直接戦闘参加を命じられなかった男子をいう」(秦氏の訳)

 疎開先は沖縄本島北部の国頭郡とし、昭和20年4月末までに完了することを目標にしていた。

 ◆あり得ぬ軍の自決命令

 この計画のもとになった「沿岸警備計画設定上の基準」は、地方の特性に応じて老人や子供を危険地域から避難させる措置を求めたものである。

 秦氏は「これらの文書から、政府や大本営、現地軍が、非戦闘員を玉砕させず、安全地帯に避難させる大方針だったことは明らかだ」とし、集団自決について「軍が自決命令を出す動機も必要性もなかった」と断じている。

 昨年10月、2審・大阪高裁は集団自決について「『軍官民共生共死の一体化』の大方針の下で日本軍がこれに深く関(かか)わっていることは否定できず、これを総体としての日本軍の強制ないし命令と評価する見解もあり得る」との判断を示した。

 秦氏の研究は、この高裁判断を根底から覆すものだ。

 昨年2月、座間味島で民宿を経営する宮平秀幸氏から、同島に駐屯した海上挺進第1戦隊長の梅沢裕少佐が村長らに集団自決を押しとどめようとしたという話を取材した(同月23日付産経)。

 宮平氏は一家で避難する途中、日本軍の壕(ごう)で、将校から「死に急ぐことはない」と言われ、軍が保管していた食糧を分け与えられたことや将校らがその後、米軍に斬(き)り込んで戦死したことも話した。

 座間味島では今も、日本軍のことを悪く言う住民は少ない。

 今月、渡嘉敷島に駐屯した海上挺進第3戦隊の中隊長(少尉)だった皆本義博氏から、陣中日誌を送っていただいた

 昭和20年3月下旬の集団自決について、こう書かれていた。

 三月二十九日曇雨「悪夢の如(ごと)き様相が白日眼前に晒(さら)された昨夜より自訣(じけつ)したるもの約二百名(阿波連方面に於(お)いても百数十名自訣、後判明)…戦いとは言え言葉に表し得ない情景であった」「勤務隊、水上勤務隊を以(も)って犠牲者の埋葬を行う」

 「自訣は翌日判明した」との記述もあり、軍命令によるものとはとても考えられない。

 軍命令説のもとになった沖縄戦記「鉄の暴風」(沖縄タイムス)では、日本軍が住民の食糧を強制徴発したとされているが、陣中日誌には「各隊は野菜家畜類其(そ)の他の物資を自由に集収することを厳禁す」などと書かれていた。

 ◆16万人が疎開・避難

 「沖縄戦『集団自決』の謎と真実」には、元防衛研究所戦史部主任研究官、原剛氏の沖縄の集団疎開に関する論文も載っている。原氏の研究によれば、沖縄県民の総人口(約60万人)の約4分の1にあたる16万人が九州や台湾、沖縄本島北部(国頭郡)などに疎開・避難している

 県民の疎開・避難を先頭に立って指導したのが島田叡(あきら)知事だ。島田知事は沖縄戦終結後に自決し、「沖縄の島守」といわれている。

 それでも沖縄戦は住民を巻き込んだ地上戦となり、軍民合わせて18万8000人が戦死した。その一方で、住民を危険から守ろうとした人たちの努力も忘れてはならない。(いしかわ みずほ)

                                             ◇

 

「集団自決訴訟」の特徴の一つに、被告側が次のような印象操作成功し、裁判官がそれに判断の基準を置いたことだ。

「集団自決訴訟」とは、事実上は「沖縄県民vs元日本軍人の戦いである」

となると当然の帰結として「(悪逆非道の)元軍人」が戦後書残した資料などに裁判官が信頼を置くはずはない。

だが、集団疎開が軍の指導で行われていたことは、紛れもない事実であり、当日記でも再三これを指摘している。

軍・行政が住民疎開に尽力 利用された「軍命」

ウソの「通説」 軍隊は住民を守らない

沖縄の県外疎開の実体

恨み辛みの学童疎開  沖縄戦秘話2

歪んだ眼鏡の沖縄タイムス 日中友好協会が聞き取り調査?

第32軍が、住民の安全を確保するため、集団疎開等を実行していたことは軍人の書残した資料で周知のことではあったが、

その元の記録が米軍側に押収され英文に訳され保管されていたとなると、被告側応援団も「旧軍人が戦後自己弁護のため捏造した」という抗弁が力を失ってくる。

秦氏は米軍側から発見された第32軍の資料により、次のように判断する。

「これらの文書から、政府や大本営、現地軍が、非戦闘員を玉砕させず、安全地帯に避難させる大方針だったことは明らかだ」と。

そして集団自決については、「軍が自決命令を出す動機も必要性もなかった」と。

被告側は赤松、梅澤両隊長が「命令を出した」という証明が出来ないと判断するや、

急遽方針を変え「隊長命令の有無は問題ではない」とし、

「更に日本軍の構造的命令」といった詭弁に切り変え、裁判官もまんまとその手に乗ってしまった。

百歩譲って「隊長命令の有無は問題でない」という被告側の抗弁に同意したとしよう。

だとしても、米軍が現場で押収した第32軍の第一次資料に次のように、書いてあるとなると「軍の構造的命令云々」も、その神通力を失ってくる。

< 軍の作戦を円滑に進め、混乱を避け、被害を少なくするために島民を適当な場所、あるいは近隣の島々に疎開させる」「『老人、子供』とは、60歳以上の者及び、国民学校6年生以下の者をいう。『戦闘に参加できない者』とは、女性の大半及び、直接戦闘参加を命じられなかった男子をいう」

                    *

更に被告側にとって衝撃的なのは、渡嘉敷島上陸作戦に参加し、集団自決の現場を目撃していた米兵が手記を残しており、その内容が「不都合な真実」を語っていることだ。

■渡嘉敷島の集団自決を目撃した米兵の手記■

>三月二十九日曇雨「悪夢の如(ごと)き様相が白日眼前に晒(さら)された昨夜より自訣(じけつ)したるもの約二百名(阿波連方面に於(お)いても百数十名自訣、後判明)…戦いとは言え言葉に表し得ない情景であった」「勤務隊、水上勤務隊を以(も)って犠牲者の埋葬を行う」

集団自決の現場を目撃した戦隊の「陣中日記」は一級資料であるはずだが、これまで、沖縄の研究者達は「日本兵が自己弁護のために戦後書いたもの」だとして、頭からその史料価値を否定していた。 

その一方で、林教授のように米軍側の資料なら捻じ曲げてでも利用しようというのがこの裁判の特徴であった。

上記の陣中日記もそのような扱いを受けていたのだが、この記述が集団自決を目撃した米兵の手記と符合するとなると「軍命あり派」も陣中日記を虚偽だとして否定する根拠を失う。

60数年前渡嘉敷島で敵と味方に分かれて戦った米兵と日本兵の記録が見事に一致する。

この厳然たる事実を否定する方がおかしい。

敵と味方が夫々ウソの目撃記録を書き、それが一致するのは偶然では有り得ないことである。 日本側の記録はともかく、米兵がわざわざウソの記録を書く根拠も見当たらない。

 

上原正稔氏は渡嘉敷島の上陸作戦に参加し、「集団自決」を目撃したグレン・シアレス伍長の手記を入手し、1996年6月、「沖縄ショウダウン」と題して琉球新報に発表している。 当時の琉球新報は約10年後に「集団自決訴訟」が起きるとは夢にも思わなかったのか、寛容にも上原氏の記事を検閲なしにそのまま掲載したようだ。

新報掲載のグレン・シアレス伍長の手記を『うらそえ文藝』から孫引きすると次のようになる。

-1945年4月(ママ・3月の誤植と思われるー引用者)27日夜明け、俺たちは渡嘉敷の最南端の浜に上陸し、山の小道を登る途中で3人の日本兵を射殺し、目的地に着くと信号弾を打ち上げ、味方の艦隊の砲撃が始まった。 「山を下りて阿波連の村を確保せよ」との命令を受けた。 その途中、小川にでくわした。川は干上がり、広さ10メートル、深さ3メートルほどの川底のくぼみに大勢の住民が群がっている。 俺達の姿を見るや、住民の中で手榴弾が爆発し、悲鳴と叫び声が谷間に響いた。想像を絶する惨劇が繰り広げられた。大人と子ども、合わせて100人以上の住民がお互いに殺し合い、あるいは自殺した。・・・(引用者注:凄惨な集団自決の描写が続くが省略する)ー

渡嘉敷島の集団自決を目撃した米兵の手記で紹介した後、上原氏は次のようにコメントしている。

この阿波連のウフガー上流の集団自決については、今進行の「集団自決裁判」でも表に出たことがなく、タイムスも新報も全く触れていない。 だが第三戦隊陣中日記日記は記す。 
「3月29日ー悪夢のごとき様相が白日眼前に晒された。 昨夜より自決したる者約二百名(阿波連方面においても百数十名自決、後判明)」。 グレン・シアレスさんの手記を見事に裏付けている。

上記で紹介した二つの例はいずれも、集団自決を目撃した人物の貴重な第一次資料であるが、被告側がこれまで一方的に信頼してきた米軍側の資料であることに大きな意味がある。

もはや「日本兵の戦後に書いた記録は信頼できない」といった強弁は通用しなくなっている。

 

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
PHP研究所

このアイテムの詳細を見る

 

人気blogランキングへ クリックお願いします 

 ブログセンターランキングへ。

コメント (11)