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■街(友人知人)の声■
産経新聞と世界日報が、星、上原両氏の「勇気ある告発」を報道して以来、県内の知識人の間に衝撃が走った。
これに関しては、県内外に住む友人知人から多くの電話をもらった。
それまでの友人たちの感想は概略、次のようなものだった。
<タイムス、新報や沖縄の学者達が調査をした集団自決の結論に対して、あまりムキならない方が良いよ(筆者へのアドバイス?)>
冗談ともつかないこんなアドバイスもあった。
<あまり深入りすると家に火でもつけられれるよ>
結局沖縄では独占状態の地元二紙のどちらかを購読している友人達の「集団自決をしつこく書き続ける」当日記への感想は、概ね次のようなものだった。
<新聞には多少の偏向はあっても、君(狼魔人)が言うような意識的な捏造や言論封殺はしないだろう>
だが、アレ(産経記事)以来、当日記がムキになって沖縄紙を糾弾する意味が少しはわかったようだ。
会話の中で印象に残ったものを抜書きするとこうなる。
「新報の編集長は、圧力をかけていないというが、本人(上原氏)が圧力をかけられたと感じたら、圧力だろう」
「本人が脅迫を受けたと感じたら脅迫罪が成立する」
「上原氏が琉球新報を訴えたら勝訴できる」
「そうしたら、沖縄紙のデタラメさが浮き彫りになり、集団自決訴訟の上告審にも大きな影響を与える」
なるほど、沖縄紙のデタラメな言動が浮き彫りになれば、『鉄の暴雨風』を貴重な歴史資料とした控訴審判決も最高裁判決では逆転することも充分ありうる。
■原告が沖縄タイムスではなく「大江・岩波」を被告にした理由■
星 ただ、もう一つ不思議なことは、新聞にも一、二回誰かが書いていたんだけれど、なぜそうならば『鉄の暴風』を訴えないのか°そこに何か秘密があるような気がする。
上原 これについでは原告側にちょっと聞いたことがあるんですよ。どうして『鉄の暴風』を訴えなかったか、と聞いたら、向こうは、裁判の結論については自信満々だったわけです。しかし『鉄の暴風』に書かれていることは、中傷どころの騒ぎじゃないですよ、これは大変なこと。攻撃目標は、ヤマトから見ると沖縄タイムスというのは小さな新聞です。小さな新聞よりか『沖縄ノート』を書いた大江健三郎という、大物をもつてきたほうがいいだろうということだったらしい。それだけのことなら、僕は『鉄の暴風』を訴えるべきじゃなかったかと、言ったらね、今から考えてみるとそう思うけれどと言っていた。今からでも遅くないからもう一回やりなさいと言いましたよ。(『うらそえ文藝』より)
秦郁彦氏は『沖縄戦「集団自決」謎と真実』の中で、次のような感想を述べている。
「大方の専門家の間で原告勝訴と予想された」ので原告に心の緩みがあった。
一方「形勢不利と判断した被告の弁護団は支援勢力を動員して同調圧力を加え、軍命否定論者を次々と「転向」させた。
上原氏が言うように、容易に勝訴できる沖縄タイムスを相手にするより、影響力のある「大江・岩波」を被告に選んだという説はある面では正しい。
だが、被告を「大江・岩波」にした本当の理由ではない。
本当の理由は原告側の「台所事情」にある。
インテリジェンスの達人佐藤優氏が
台所事情の苦しい小林よしのり氏の弱みに付け込んで攻撃再開したとき、当日記はこう書いた。
<実際の戦争にせよ、法廷闘争にせよ、争いごとは経済的裏付けがなくては、勝利を勝ち取るのは困難だ。>
訴訟沙汰には金が掛かる。
原告代理人が『鉄の暴風』(沖縄タイムス)を被告人にしたら、民事訴訟の規定により係争法廷を「那覇地裁」に定めねばならぬ。
そうなると、ほとんど手弁当で原告を支援している原告側代理人は出廷の度に交通費、宿泊費と長い係争中には膨大な経費的負担を強いられる。
極めて下世話な話だが、これが被告を「大江・岩波」にした最大の理由である。
法定管轄 (法律の定めによる管轄)
①被告の居住地(民訴法4条)被告の居住地には常に管轄が生じます。原告にとっては被告の居住地を選択することは被告の居住地まで赴くことになり必ずしも有利ではないので、他の管轄との比較検討が必要でしょう。 (法律関連ブログより)
◇
■今さらながら、『鉄の暴風』のデタラメ記事について■
星 そこで、「鉄の暴風」のことに入るんだけど、実は「鉄の暴風」は沖縄戦のバイブルであるとか、正しい戦記であるとかマスコミで報道されたことが大いに災いしている。そしてまた、私たちが名嘉正八郎はじめ県史で沖縄戦記録を創るときに、『鉄の暴風』は、多くの証言を基にして書いたんだろうと想定していた。それで戦争記録編九巻を宮城聰さんと私が執筆するにあたり、あちこち歩いて二百人以上の人たちからの証言を集めて文章化した。そのとき『鉄の暴風』の中には幾つもの間違いがあることを発見した。後で太田良博さんと牧港篤三さんにそのことで二度ほど話し合った。実相とは若干違うものになっているかもしれない…と、お二人とも異口同音に認めてもいたが、別にそれ以上は何も言わなかったですよ。そして名嘉正八郎も『鉄の暴風』には、間違いがいくつかあると言っていた。
ただ『鉄の暴風』については、いろいろと謎が多いと思う。あれの初版は一九五〇年八月一五日で朝日新聞社発行になっている。そのまま二〇年間も伏せられ空白があり、第二版は一九七〇年六月です。なぜ放置同然にしてあったのか。また大江健三郎の『沖縄ノート』の第一版の発行は一九七〇年九月であり、大江は『鉄の暴風』の初版を参考にして『沖縄ノート』を書いた可能性が強い。『鉄の暴風』の第二版を見たとしても、ほとんど同じだしね。
上原 『鉄の暴風』の集団自決の記述についでは、ほとんど真実のかけらもないですよ。日付から何から何まで、場所も間違っていて、有名な恩納河原というのは場所が違います。阿波連のウフガーの上流での集団自決もない。だから何から何まで間違っている。(『うらそえ文藝』)
作家 曽野綾子
「正論」平成15年9月号掲載
<・・・ そのうちに私は、第三資料にぶつかった。那覇在住の作家・星雅彦氏のエッセイによると、資料となるものは三つ年代順と思われる順に並べると、次のようになる、という。
第一が『渡嘉敷における戦争の様相』(渡嘉敷村、座間味村共編)で、当時の村長・古波蔵惟好氏と役所吏員防衛隊長・屋比久孟祥氏の記憶を辿って書いたもの、となっている。資料は琉球大学図書館にあるガリ版刷りで、書かれた日時の明記はなく、赤松元隊長が自決命令を出したという記録もない。
第二が『鉄の暴風』(沖縄タイムズ社編)。1950年(昭和25年)8月の日付があり、「自決命令が赤松からもたらされた」とある。
第三が『慶良間列島、渡嘉敷島の戦闘概要』(渡嘉敷島村遺族会著)で、出版は1953年(昭和28年)3月。「赤松隊長から、防衛隊員を通じて、自決命令が出された」となっている。
この三つの資料には、どれかを模写したような共通の文体と内容があることを炯眼の星氏は看破していたのである。
第一資料『渡嘉敷における戦争の様相』と第3資料の『慶良間列島、渡嘉敷島の戦闘概要』は、その自決の場面などには、偶然とはとうてい思えない多くの同一表現が見られる。
とりわけ私にとって決定的に思えたのは、この三つの資料が、米軍上陸の日、1945年3月27日を、どれも3月26日と一日間違って記載していることであった。
何しろ悲劇の始まった日なのだ。生き残った村民にとっては父母兄弟たちの命日の日である。それを三つの資料とも書き違って平気でいるということはないだろう。
これは、三つの資料共、直接体験者でない人々が、後年、伝聞証拠を元にして、前の資料を下敷きにしながら書いて行ったと言う証拠であろう。・・・
◇
ちなみに上記記事は「集団自決訴訟」が起きる二年前のものである。
■米軍側の日付の記録をそのまま転記した『鉄の暴風』■
上原正稔氏が『鉄の暴風』の間違いは「日付から何から何まで」と呆れているが、曽野綾子氏も日付けの間違いを決定的と見ている。
>とりわけ私にとって決定的に思えたのは、この三つの資料が、米軍上陸の日、1945年3月27日を、どれも3月26日と一日間違って記載していることであった。
戦史の記録で真珠湾攻撃は日本側の記録では1941年12月8日だが、米国側の記録では1941年12月7日である。
「鉄の暴風」が日付を一日間違えたのは、筆者の太田良博記者が自分の調査ではなく、米軍から提供されて米国時間の資料を検証なしに書いたので1日間違えたと推定できる。
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