昨夜(2007年1月30日)のNHK・BS2の「ビッグショー」の話題。
「蔵出しエンターテインメント」と言う過去にNHKで放映された映像を再放送する番組で、昨夜の主人公は作曲家の古関裕而で後半は「今週の明星」でゲスト歌手は藤山一郎、伊藤久男、二葉あき子、岡本敦郎の声自慢歌手が勢ぞろい。
先ず伊藤久男が「イヨマンテの夜」、続いて岡本敦郎が「高原列車は行く」、二葉あき子の「フランチェスカの鐘」の次にオオトリで藤山一郎で一気にフィナーレかと思ったら・・・同じく古関の作曲になる「愛国の花」のメロディーをバックにナレーションが入った。
「『戦時歌謡』と言う言葉がある」と始まるナレーションは戦前・戦時中に数多くの軍歌をヒットさせた古関裕而に反省を迫るインタビューにも取れた。
事実、出演した古関氏は何度も「(思い出すと)胸が傷む」という言葉を繰り返していた。
この「ビッグショー」の初回放送は1975年だと言うが、NHKは戦後30年もたって一作曲家に軍歌を作ったというだけで何を反省せよと言うのか。
≪蔵出しエンターテインメント ビッグショー「古関裕而 青春!!涙!!哀愁!!」
チャンネル :BS2
放送日 :2007年 1月29日(月)
放送時間 :午後7:45~午後8:32(47分)
ジャンル :音楽>歌謡曲・演歌
バラエティ>トークバラエティ
バラエティ>音楽バラエティ
◆番組HP: http://www.nhk.or.jp/ugoku/newprogram/bs2.html#main
【出演】古関裕而、藤山一郎、伊藤久男、二葉あき子、岡本敦郎、高英男、島田祐子、阿里道子、加藤道子、鎌田弥恵、藤村有弘 ほか【曲目】「栄冠は君に輝く」「紺碧の空」「君の名は」「長崎の鐘」ほか 【司会】酒井広【ナレーション】山川静夫(初回放送日:1975年2月16日≫
◇
「歌は世につれ世は歌につれ」といわれるが、流行歌にに詳しく自分で作詞もしている作家の五木寛之さんによると、歌が世につれることはあっても、世が歌につれることはないと言う。
と言うことは数多くの「戦時歌謡」のヒットを飛ばした古関さんは時代が求めた歌を作ったに過ぎず、自分が作った歌につられて時代が軍国化したわけではない。
あの「蔵出しエンタテインメント」のインタビューの年代が1975年だというが、古関さんが軍歌を作ったというだけで「戦前の悪行」としてNHKの音楽番組で反省のインタビューをさせられる謂れはないはずだ。
そして過去の軍歌の反省でもさせるように藤山一郎が「長崎の鐘」を朗々と歌い上げて番組は「完」。
勿論「長崎の鐘」は長崎の原爆投下で被爆した永井博士を主人公にした歌で作曲は勿論古関裕而で歌詞はサトウ八ローが書いている。
藤山一郎の歌う「長崎の鐘」の明瞭な藤山の発声と発音の歌詞を聞き入りながらその意味をなぞると何か違和感を感じた。
再び考え込んだ。
NHKは、古関裕而に「戦時歌謡」の反省の弁を述べさせ、同じ作曲家が作った終戦直後の「長崎の鐘」で一体誰に何を反省させようと言うのか。
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「長崎の鐘」 作詞:サトウハチロー 作曲:古関裕而 唄:藤山一郎
1 こよなく晴れた 青空を
悲しと思う せつなさよ
うねりの波の 人の世に
はかなく生きる 野の花よ
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る
この曲は昭和24年、まだ戦後のドサクサと言った時代のヒット曲である。
曲の主人公の永井博士は長崎の原爆投下で奥さんを亡くし、自分も被爆で白血病戦いながら数々のベストセラーを出した。
結局博士はその2年後に亡くなる。
つまりこの詩は原爆の凄惨な災害を受けた原爆被爆者を歌っている筈である。
しかしこの歌詞には残虐な原爆を投下した者への恨みはない。
念のため二番の歌詞を見てみよう。
2 召されて妻は 天国へ
別れてひとり 旅立ちぬ
かたみに残る ロザリオの
鎖に白き わが涙
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る
3 つぶやく雨の ミサの音
たたえる風の 神の歌
耀く胸の 十字架に
ほほえむ海の 雲の色
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る
やはり違和感は深まる。
これは賛美歌かキリスト教讃歌か。
歌詞を鼻歌で追いながら一つの疑問にぶち当たった。
この歌が作られた昭和24年だ。
私の疑問を解く鍵がこの時代に密封されているのに気がついた。
念のため歌詞の4番に目を通した。
4 こころの罪を うちあけて
更け行く夜の 月すみぬ
貧しき家の 柱にも
気高く白き マリア様
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る
これはまるで懺悔の歌ではないか。
やはりそうだったのか!
作曲家古関裕而と詩人サトウハチローの苦悩が手によるように判った。
昭和24年前後の日本。
サトウハチローが「長崎の鐘」の作詞に呻吟していた頃。
日本はマッカーサーの厳重な言論封鎖の下にあった。
それよりさらに四年時を遡る。
昭和20年8月6日と9日。
広島と長崎に原爆が投下された。
続く8月15日に発表された『終戦の詔書』で天皇陛下は既に原爆投下を批判していた。
「敵ハ新タニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及ブ所真ニ測ルべカラザルニ至ル」
天皇陛下は「アメリカは残虐非道な新型爆弾を投下、罪無き人々を殺傷した。その災害の及ぶ範囲は想像を絶する状況に至ってい」と敵の犯した「人道上の罪」をいち早く批判したのだ。
原爆の惨状は当時のマスコミの想像をも絶した。
しかし新聞は「悪霊の町広島」「進駐軍に向ける憎悪のまなざし」などと克明に報道していた。
だがこれに対するマッカーサーの動きは素早かった。
アメリカは昭和20年9月30日より日本独立までの7年間、マスコミの原爆報道は禁止した。
それまでの原爆被害と被災地の状況は一切、掲載される事がなくなった。
話を「長崎の鐘」の昭和24年に巻き戻そう。
永井博士だけがなぜ例外的にアメリカ占領軍の下で原爆被災者の代表のような立場で報道されたのか。
マッカーサーによる厳重な原爆報道禁止の下で。
永井博士はカトリック信者であった。
それにしても長崎原爆についてもその著作では原爆を落とした側のアメリカに対する憎悪は全く記されていない。
この永井博士の、≪原爆を落とした側への批判は行わずに、すべてをあるがままに受け入れ、すべてを赦そう≫といった視点が、その後の日本人の原爆観を決定付けた。
当然現実の被災者の中にはアメリカへの憎悪の念を燃やす人は少なからずいた。
ただアメリカ占領軍は数多くいる原爆被災者の中で永井博士の言説だけを特別に報道許可したというのは、そこに政治的な意図が介在していた。
原爆投下を今でも正当だったと主張するアメリカにとって永井博士の言動は願っても無い宣伝媒体だったのだ。
永井博士は自著で次のような主旨を述べている。
「原爆が神の御心ならば、それが以下に辛いことであっても試練として、自分はそれをそのまま受けいれる」
マッカーサーの厳しい言論統制と「原爆は神の御心には関係なく、人類が犯した最大の悪業である」と言う人間の本音の狭間で作曲家古関裕而と詩人サトウハチローは悩み苦しんだのか。
そしてあのような原爆被害に対する曖昧な歌詞を捻り出したのか。
ここにもマッカーサーの目立たない言論封殺の秘技を見る。
これはその後の日本人の原爆観に引き継がれる。
昭和27年日本独立の年に建立された広島の原爆碑文にその証が刻み込まれた。
碑文を書いたのは被爆者のひとり、雑賀忠義広島大学教授にも三年殺しは引き継がれた。
碑文には「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と刻み込まれている。
この碑文には主語が無い。
過ちを犯した(原爆を投下した)主語が書かれていないのだ。
昭和27年11月日本独立の年、極東軍事裁判の弁護人であったインドのパール博士はこの碑を読んで発言した。
「原爆を落としたのは日本人ではない。落としたアメリカ人の手は、まだ清められていない」と。
このことがきっかけとなっていわゆる碑文諭争がおこった。
原爆投下についてのマッカーサーの目立たぬ言論封殺は「長崎の鐘」から「広島原爆碑」と受け継がれ平成の世になっても日本人の思考を停止させたままにしている。
驚嘆すべきかな米国の占領政策!
恐るべきかなマッカーサーの言論封殺!
戦後4年にして、古関裕而に反省させ
サトーハチローの詩心を惑わし
反省の歌「長崎の鐘」を作らした
怒る筈の原爆被害者を従順な子羊に変えるために
時を乗り越え
戦後30年経った1975年、NHKはその歌謡番組で古関裕而に反省のインタビューをさせた。
この反省は何時の日まで引き継がれていくのか
ア~ア~! 今も長崎の鐘は鳴る。
【追記】
十数年前の記事にアクセスが多い理由を調べていたら、4月2日のNHKのラジオ深夜便に辿りついた。
恐るべしNHk!
<time datetime="2020-5-2 3:05:00">午前3時05分</time>~ <time datetime="2020-5-2 4:00:00">午前4時00分</time>
関西発ラジオ深夜便▽にっぽんの歌こころの歌
午前3時05分
住田功一
▽にっぽんの歌こころの歌
「メディアの音楽~古関裕而作品集(1)」