狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

【再掲】沖タイの歪曲記事、故赤松大尉直筆の手紙を届ける

2020-07-26 16:03:28 | ★改定版集団自決

 

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本記事は、過去に何度か再掲した記憶があるが、ここ数日アクセスが急上昇しているので、最近の読者のため改めて引用・紹介する。

沖タイの歪曲記事、故赤松大尉直筆の手紙を届ける

2012-05-12 07:10:03 | ★集団自決

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本日は午後1時30分より宜野湾市民会館で復帰40周年記念式典が行われ俳優の津川雅彦さんが記念講演をします。

入場料は500円ですが学生以下は無料ですので是非ご参加下さい。(詳しくは文末に)

                 ☆

沖縄タイムス 1983年6月8日

故赤松大尉直筆の手紙を届ける

衆議院調査室の徳嵩力さんが本社東京支社に

住民に「申し訳ない」

虐殺については否定?

【東京】戦時中、海上挺進第三戦隊の隊長として渡嘉敷島の守備につき、住民虐殺、集団自決のあの悲惨な「事件」に深く関与したといわれる赤松嘉次大尉(故人)が12年前、当時の陣中日誌とともに関係者に出した直筆の手紙がこのほど、沖縄タイムス東京支社に届けられた。渡嘉敷での数々の悲惨な出来事について赤松氏は「一部マスコミの興味本位な報道」と伝えられる事実関係については強い口調で否定。 敗戦の結果についてのみ「申し訳ない」とつづっている。折りしも、沖縄では三十八回目の「慰霊の日」をやがて迎える。

手紙を保管なしていたのは、衆議院外務委員会調査室に勤める徳嵩力さん(61)。復帰前、「鉄の暴風」(沖縄タイムス刊)を読み、そのなかで渡嘉敷島の住民虐殺、集団自決など悲惨な出来事を初めて知った徳嵩氏が、やっとの思いで赤松氏を探しあて、事実関係を尋ねたことに対する返書で日付は昭和四十五年十一月三十日。 
そのなかで赤松氏は「戦時中、現地の方々の献身的な協力にも拘わらず力足らず、あのような結果になったことは沖縄で戦った者として現地の方々に申し訳なく思っている」と敗戦の悔いを「つづっている。
ただ住民虐殺、集団自決への自身の関与については「一部マスコミの、現地の資料のみによる興味本位的に報道されているようなものでは決してありませんでした」と強く否定。 同時に沖縄を訪ねた際(四十五年三月)の渡嘉敷住民、民主団体の抗議についても“大規模な歓迎”を受けたと、抗議が意外だった心情を吐露している。
仕事上の関係もあって「沖縄に強い興味を持つ」という徳嵩氏は手紙と陣中日誌を読み返し「どうも後で理由付けした感があり、説得力に乏しい」と感想を語る。 さらに「赤松氏個人への感情は別として」と前置き、「住民の証言の方が、より重みがあるし、軍隊は、その特性から、いつでも物事を正当化するものです。 教科書問題にしても、やはり虐殺の事実は事実として歴史にとどめるべきだし、それが生き残った私たちの使命」とも。
中学、高校の教科書で沖縄戦で住民虐殺の記述も復活の兆しにある。 赤松氏がどのような胸中で手紙をつづったかは、確かめるよしもないが、日本軍による住民虐殺、軍命による集団自決という悲惨な出来事が渡嘉敷島で起こったことはまた歴史の事実である。

             ☆

【追記】

日本軍による住民虐殺、軍命による集団自決という悲惨な出来事が渡嘉敷島で起こったことはまた歴史の事実である。

この記述は真っ赤な嘘である。(※引用者)

この30年前の沖縄タイムスの記事が筆者の不注意により未完のままアップされてしまったことを改めてお詫びしたい。

結果的には予告編の役割をしたが、本稿は本編である。

当日記を古くから読まれている方は上記引用の記事を読んで、アウトラインは理解できるでしょうが、複雑に絡み合った集団自決の整理のため、記事に書かれている事実の説明から始める。

ここに登場する徳嵩力氏は、1921年生まれ、長野県出身。戦後、国家公務員上級試験合格し1956年衆議院外務委員会調査になり、沖縄問題を担当。復帰の3年前の昭和44年(1969年)に衆議院職員初の沖縄調査団として沖縄視察をしたエリート官僚である。

徳嵩氏は戦後一貫して沖縄問題を担当した使命感から独自に沖縄問題の研究から発展し「鉄の暴風」、「秘録沖縄戦」(山川泰邦)、「沖縄ノート」(大江健三郎)などの沖縄戦の本を読み漁り、ついには赤松大尉を捜し当てて、ことの真相を問いただす。

ちなみに「鉄の暴風」が伝聞や噂の類を基に書かれた嘘まみれの本であり、「沖縄ノート」はその嘘のネタ本を下地にしたデタラメの本であることは、今では大方の知るところ。 「秘録沖縄戦」も、「鉄の暴風」の影響を大きく受けており、近年著者の故山川康邦氏のご子息が歪曲部分を削除した改定版を出したくらいである。

復帰前の沖縄戦の情報が少なかった当時としては仕方の無いことだが、徳嵩氏が沖縄戦を勉強した本が全て沖縄タイムスの偏向思想により歪曲された本だけだったのは徳嵩氏にとって不幸であった。

優秀で誠実な戦前の日本のエリート官僚の系譜を継いだと思われる徳嵩氏は、イデオロギーとは別の視点から、日本軍が沖縄に及ぼした被害の数々をこれらの「沖縄本」から勉強し、激しい贖罪意識に襲われる。 そして政府の沖縄担当の調査官としての使命感から赤松大尉を探し出して当時の状況を聞き取るのだが、赤松大尉がそれに対する返事を手紙にして送ったのが記事に出て来る昭和45年11月30日付けの赤松氏の手紙である。 

今年は沖縄の日本復帰の40周年だが、赤松氏が手紙を送ったのは復帰の2年前、今から42年前の出来事である。

徳嵩氏は沖縄担当の官僚という職務上、沖縄紙の東京支局の記者と知り合うことになるが、ある席上偶々隣の席にいた沖縄タイムス記者に赤松大尉の手紙のことを話すことになる。

徳武氏としては赤松大尉の存在を知ったのが沖縄タイムス刊の「鉄の暴風」だったのだから沖縄タイムス記者に話すことに何の躊躇も無かったのだろう。 当時の徳武氏としては「鉄の暴風」や「沖縄ノート」がイデオロギーまみれのデタラメな本と言うことを知る由もなく、沖縄戦史の解明の資料として沖縄タイムスに手紙を渡したのも仕方の無いことである。

沖縄タイムスが赤松大尉の直筆の手紙を入手したら、どのような行動にでるか。 

猫に鰹節とはまさにこのこと。

手紙の内容の如何に関わらず、イデオロギーによる歪曲した捏造記事を書くことは火を見るより明らかだった。

それが上記引用の記事である。

この記事は12面のトップを徳嵩氏の写真つきで大きく飾り。徳嵩氏の写真には「故赤松氏からの当時の手紙を見ながら住民虐殺について語る徳嵩氏」というクレジットが付いている。

沖縄タイムスの記事を見て、沖縄戦当時渡嘉敷島の駐在巡査を勤め集団自決の一部始終を目撃した比嘉(旧姓安里)喜順氏が記事のあまりにも酷い歪曲された内容に悲憤慷慨し、その日のうちに抗議の手紙を徳嵩氏に送った。

手紙の日付が沖縄タイムスの記事と同じなのは、それだけ比嘉氏が当時の生き証人として居ても立ってもおれなかった比嘉氏の心境を表している。比嘉氏はその日の午後3時頃記事を読み、すぐ沖縄タイムスに抗議すると同時に徳嵩氏の連絡先を問いただし、その日のうちに手紙をしたため郵送している。

その手紙はご子息から公開の許しを得ているので、集団自決の真相解明の歴史的資料として下記に公開する。

その前にタイムス記事が触れている「同時に(赤松氏が)沖縄を訪ねた際(四十五年三月)の渡嘉敷住民、民主団体の抗議」について事実を説明しておく。

当時の新聞には、沖縄県民や渡嘉敷住民が、赤松氏を空港に出迎えた抗議した、と報道している。

が、実際に空港で抗議したのは僅か十数名の那覇市の市職労の組合員であり、渡嘉敷住民は慰霊祭に赤松氏が参加するのを歓迎していた。

1970(昭和45年)3月26日、赤松氏が那覇空港で、左翼集団に取り囲まれて渡嘉敷島には渡ることを阻止されたことは過去にも再三書いたが、親族関係者の話で次のことも判明した。

赤松氏は、空港で、抗議集団にもみくちゃにされ、背広のボタンも引きちぎられる酷い有様だったという。

このような激しい抗議に遭っては、普通の定期船ではとても渡嘉敷島に渡ることができないと判断し、渡嘉敷行きは諦めかけていたが、翌慰霊祭当日、伊礼蓉子氏(旧姓古波蔵、戦時中、渡嘉敷村女子青年団長)のご主人が、迎えに来てくれ舟を出してくれた。

たが、結局、赤松氏はさらなる騒動を避け、島には渡ることはせず、島の入り口まで行って、慰霊祭への花束だけを託したという。

渡嘉敷の住民は赤松氏の来島を大変歓迎していたが、マスコミや抗議集団との混乱を避けるため渡嘉敷上陸は断念した。

なお、伊礼蓉子氏の娘さんは、赤松氏宅にも訪問したことがあり、赤松氏の家族と今も交流が続いているという。 
     
この事件を、沖縄タイムスをはじめ全国の新聞、雑誌が騒ぎ立てて、これを機に赤松氏の悪評が一気に広がった。

赤松氏の地元では、地元紙である神戸新聞の記事を見た人が多く、赤松氏の長女は後にクラスメートからこのことを教えられたという。 

なお、赤松氏を渡嘉敷に送る舟を手配した伊礼蓉子氏(旧姓古波蔵)は、星雅彦氏の手記「沖縄は日本兵に何をされたか」(雑誌「潮」1971年11月号に掲載)の中で証言者として登場している。

《村の指導者たちやその家族や防衛隊の幾人かは、そろって無事で、その集団にまじっていた。みんなひどく興奮していて、狂人のようになっていた。村長は狂ったように逆上して「女子供は足手まといになるから殺してしまえ。早く軍から機関銃を借りてこい!」と叫んだ。その意志を率直に受けて、防衛隊長の屋比久孟祥と役場の兵事主任の新城真順は、集団より先がけて日本軍陣地に駆けこみ、「足手まといになる住民を撃ち殺すから、機関銃を貸してほしい」と願い出て、赤松隊長から「そんな武器は持ち合わせてない」とどなりつけられた。(注・比嘉喜順、伊礼蓉子らの証言。その点、米田惟好は米軍に決死の戦闘を挑むつもりだったと、異議を申し立てている)(雑誌「潮」1971年11月号・星雅彦)》

 

赤松氏は当時の渡嘉敷村長の了解の下に沖縄訪問をしたわけだから「“大規模な歓迎”を受けたと、抗議が意外だった心情を吐露している」という赤松氏の心情は事実であった。

赤松氏に罵声を浴びせる組合員の中には赤松氏を出迎えにきた玉井喜八渡嘉敷村長がいた。

組合員の暴力的な実力行使で、結局赤松氏は慰霊祭に参加を断念するが、玉井村長は次のようなコメントを沖縄タイムスに伝えている。

「赤松氏は三年ほど前から慰霊祭に出席したいと連絡していた。ことしも村から慰霊祭のスケジュールを送ったらぜひ行きたいという返事があり、喜んでいたところだ。」 

集団自決論争が問題解決を困難にしている理由は次の点にある。

①「事件」が60数年前のことであり、体験者はほとんどが物故している。

②数少ない証言も、当時子供だった証人の曖昧な証言に頼らざるを得ない。

③物的証拠は一つもなく、証言あるいは証言記録のみを証拠としているの。

④意識的嘘の証言は論外としても、証言の「思い違い、記憶違い」等も考慮に入れなければならぬ。

これらに親族、地域社会などの人間関係、経済的要素の呪縛や、イデオロギーの呪縛が絡むと証言の信憑性の検証はますます難しくなる。

2007年の「11万人集会」の前後、沖縄紙は夥しい数の証言者を紙面に登場させ、連日「体験者証言」と大々的に報じたが、そのほとんどが、「毒おにぎり証言」の例のように客観的検証に耐える証言ではなかった。

卑近な例で、意図せざる「記録の過ち」を一つ例示しておこう。

玉井喜八渡嘉敷村村長がミニコミ誌に寄稿した『遺族会発足当時を想う』と題する手記の中に、玉井村長の記憶違いが見られる。

手記はここ⇒沖縄戦を歪曲した沖縄タイムスの大罪

同手記には昭和53年赤松夫人が三十三回忌の慰霊祭に渡嘉敷訪問したとある

だが、これは玉井村長の記憶違いで、赤松夫人が慰霊祭に参加したのは昭和53年ではなく、正確には昭和59年に戦隊員や遺族の方々に同行し、赤松氏の遺品を寄贈したという。

これは赤松氏の遺族関係者からご指摘を受けた。

玉井村長のような重要人物でさえこのような記憶違いを手記に書くくらいだから、故人が残した証言の記録が全て正しいとは限らず検証が必要なことは言うまでも無い。

実際に赤松夫人が渡嘉敷島を訪れたのは、手記にある昭和53年ではなく、昭和59年であるというから、赤松夫人は次の記念写真のどこかに写っているものと思われる。

和やかに記念撮影に収まる元赤松隊の一行

 

 

■比嘉喜順氏の手紙

 徳嵩様 謹んで申しあげます。

あなた様の東京支局によせられた故赤松大尉直筆の手紙を届けるの記事を読み、お便りを差し上げます。
私、当時(沖縄戦)昭和20年2月より昭和20年8月14日まで渡嘉敷村の巡査駐在所で勤務しておりました者であります。
それであなた様が「12年前より(まま)赤松大尉直筆の手紙」を届ける記事を6月8日の午後3時ごろ読みまして、早速沖縄タイムスに電話で貴殿の調査室の住所を知らして下さいと頼みまして、このお便りを差し上げます。 それで私は当時の最初から最後まで村民と共に行動し、勿論自決場所のことも一部始終わかっております。 あの集団自決は、軍命でもなければ赤松隊長の命令でもございません。
責任者として天地神明に誓ひ真実を申しあげます。 今までの戦争は満州、支那大陸で戦い、私達もその体験者の1人であります。 それが而も一番(不明)島、沖縄県、離島の自国内で連合軍の包囲を受け家族とも共戦争体験をしたのは、その人でなければ実際を語ることは出来ません。
「鉄の暴風」が発刊されてをるのも知らず、那覇の友人から聞かされ、それを見せてくれて驚いた程であります。 その時には既に遅く、全国に販売されていたようです。
それで一方的な言い分を聞いて実際に関与した責任ある私達に調査もされず刊行されたことは私の一生涯の痛恨の極みであります。
沖縄タイムスの記者が私を訪ね、渡嘉敷島について調べたことは今もって一度もございません。
私も戦い終わって昭和二十年八月二十七日、捕虜で金武村屋嘉の収容所に収容され、同年十一月三日そこを出て、家族をさがしあてたのが昭和二十年十一月十五日でした。 それで戦争の話、友軍の行動等を分かりました。 
それに比較して赤松隊長のとった行動は本当に良かったと思われました。 戦争中而も敵の海、空よりの砲撃のさ中で軍の食料(米、味そ等)調味品を村民にも二分し与えて下さったあの赤松隊長の志を、行動を、こんな隊長が大東亜戦争、沖縄戦の悪い代表扱いに掲載されることは本当に残念でなりません。 あの戦争は吾々日本人全体の責任と私は思って憚りません。 徳嵩さんがどう云う理由で十二年保存されて、然も赤松さんが故人となられた今頃にから沖縄タイムスに掲載されたか、私には理解に苦しむものです。
赤松隊の生存者もをられるし、当時の村民も尚健在者が多数残っています。 それでお願いですが曽野綾子著「ある神話の背景」沖縄、渡嘉敷の集団自決、文藝春秋社刊をお読みにお読みになられたらと思います。
真実と云ふのは両方の調査の上に立って表現するものでありまして、一歩的に出してそれで何も知らない人々がそれを信じることになり、大方はそんなものではございません。 私はそう思います。
歴史の事実も本当はそうであったかと、両方の調査をし、綿密に調べられてから、正しく報らすのが真の在り方と思われます。 私も貴方が出された「タイムス」の記事を見て、当時の沖縄戦の生々しい実態が甦り、本当に何とも言ひようのない悲憤慷慨と申しましょうか痛恨の念が一極です。
只々書かなければ止まない衝動にかられてこのお便りを書きました。
徳嵩様の重要な部所にお勤め鳴られてをり幸いと思います。
益々ご健康で、ご繁栄でありますと併せて我が国の繁栄に寄与なされますようご御祈りいたします。 乱筆で御免下さい。

                                                        敬具

昭和五十八年六月八日午後十一時三十分

沖縄県北中城字大城の自宅にて

旧姓 安里  比嘉喜順拝

徳嵩力 様

(つづく)

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トランプが本気で中共潰し、米国が領事館へ突入!ヒューストン中国領事館に

2020-07-26 05:01:14 | 外交・安全保障

 

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冒頭から追記です。

【追記】

昨日の記事で、こう書いた。

24日付沖縄タイムスは、米政府が閉鎖を要求した米国ヒューストンの中国総領事館について、4面最下部のアリバイ記事で胡麻化している。

だが、領事館の閉鎖は宣戦布告直前の米中が緊迫する問題であり、沖タイの平和ボケには今更ながら呆れかえる。

平和ボケと指摘され、沖タイは目が覚めたのか、最下部のべた記事(24日)から一転、七面トップに大転換。

ツーテンポ遅いんだよ!

これで新聞と言えるか、沖タイさん。

遅ればせながら今日(26日)の沖タイは、7面トップをこのような大見出しで飾っている。

米中、相互に交換閉鎖へ

報復の応酬 遠のく対話

スパイ活動の拠点指摘 米国

共産党批判を容認せず 中国

 

アメリカが閉鎖後の中国総領事館立ち入り 中国は非難

アメリカメディアは、24日、アメリカ・ヒューストンの中国総領事館が閉鎖された後、アメリカ側の当局者が館内に立ち入ったと報じました。

これについて中国外務省は25日夜、非難するコメントを発表し、アメリカ側に非があることを印象づけたいねらいもあるとみられます。

アメリカ国務省の担当者は24日夜、ヒューストンにある中国総領事館が閉鎖されたことを明らかにしました。

アメリカメディアによりますと、閉鎖されたヒューストンの中国総領事館ではアメリカ政府が通告した退去の期限の24日の午後4時を過ぎると、アメリカ国務省の職員らが裏口のドアをこじあけ、建物の中に入る姿が確認されました。

これについて、中国外務省は25日夜、「大使館や領事館の保護を定めた『ウィーン条約』と米中の領事条約ではいかなる方法でも館内を侵すことはできず、強い不満と反対を表明する」と、アメリカ側を非難するコメントを発表しました。

中国は対抗措置として、四川省成都にあるアメリカ総領事館の閉鎖を通知していますが、今回の非難はアメリカ側に非があることを印象づけたいねらいもあるとみられます。

一方、中国メディアは、25日、成都のアメリカ総領事館前の道路に警察官が配置され、大型バスやトラックが出入りする様子を伝えていて、閉鎖に向けた作業が進んでいるとみられ、両国の一段の関係悪化が避けられない状況となっています。

 

 

■ポンぺオ米国務長官演説は、文末に掲載

 

 

■ポンぺオ米国務長官演説

「共産主義の中国 変えなければ」米国務長官の演説要旨

2020/7/24 8:26 (2020/7/24 12:31更新)

 

23日、米西部カリフォルニア州で、演説するポンペオ米国務長官=ゲッティ共同

23日、米西部カリフォルニア州で、演説するポンペオ米国務長官=ゲッティ共同

 

ポンペオ米国務長官の中国に関する演説の要旨は次の通り。

 

中国との闇雲な関与の古い方法論は失敗した。我々はそうした政策を継続してはならない。戻ってはならない。自由世界はこの新たな圧政に勝利しなくてはならない。

米国や他の自由主義諸国の政策は中国の後退する経済をよみがえらせたが、中国政府はそれを助けた国際社会の手にかみついただけだった。中国に特別な経済待遇を与えたが、中国共産党は西側諸国の企業を受け入れる対価として人権侵害に口をつぐむよう強要しただけだった。

中国は貴重な知的財産や貿易機密を盗んだ。米国からサプライチェーンを吸い取り、奴隷労働の要素を加えた。世界の主要航路は国際通商にとって安全でなくなった。

ニクソン元大統領はかつて、中国共産党に世界を開いたことで「フランケンシュタインを作ってしまったのではないかと心配している」と語ったことがある。なんと先見の明があったことか。

今日の中国は国内でより独裁主義的となり、海外ではより攻撃的に自由への敵意をむき出しにしている。トランプ大統領は言ってきた。「もうたくさんだ」と。

対話は続ける。しかし最近の対話は違う。私は最近、ハワイで楊潔篪(ヤン・ジエチー中国共産党政治局員)と会った。言葉ばかりで中国の態度を変える提案はない、相変わらずの内容だった。楊の約束は空っぽだった。彼は私が要求に屈すると考えていた。私は屈しなかった。トランプ大統領も屈しない。

中国共産党の)習近平総書記は、破綻した全体主義のイデオロギーの真の信奉者だ。中国の共産主義による世界覇権への長年の野望を特徴付けているのはこのイデオロギーだ。我々は、両国間の根本的な政治的、イデオロギーの違いをもはや無視することはできない。

レーガン元大統領は「信頼せよ、しかし確かめよ」(trust but verify)の原則にそってソ連に対処した。中国共産党に関していうなら「信頼するな、そして確かめよ」(Distrust and verify)になる。

世界の自由国家は、より創造的かつ断固とした方法で中国共産党の態度を変えさせなくてはならない。中国政府の行動は我々の国民と繁栄を脅かしているからだ。

この形の中国を他国と同じような普通の国として扱うことはできない。中国との貿易は、普通の法に従う国との貿易とは違う。中国政府は、国際合意を提案や世界支配へのルートとみなしている。中国の学生や従業員の全てが普通の学生や労働者ではないことが分かっている。中国共産党やその代理の利益のために知識を集めている者がいる。司法省などはこうした犯罪を精力的に罰してきた。

今週、我々は(テキサス州)ヒューストンの中国領事館を閉鎖した。スパイ活動と知的財産窃盗の拠点だったからだ。南シナ海での中国の国際法順守に関し、8年間の(前政権の)侮辱に甘んじる方針を転換した。国務省はあらゆるレベルで中国側に公正さと互恵主義を要求してきた。

 

自由主義諸国が行動するときだ。全ての国々に、米国がしてきたことから始めるよう呼び掛ける。中国共産党に互恵主義、透明性、説明義務を迫ることだ。

現時点では我々と共に立ち上がる勇気がない国もあるのは事実だ。ある北大西洋条約機構(NATO)同盟国は、中国政府が市場へのアクセスを制限することを恐れて香港の自由のために立ち上がらない。

過去の同じ過ちを繰り返さないようにしよう。中国の挑戦に向き合うには、欧州、アフリカ、南米、とくにインド太平洋地域の民主主義国家の尽力が必要になる。

いま行動しなければ、中国共産党はいずれ我々の自由を侵食し、自由な社会が築いてきた規則に基づく秩序を転覆させる。1国でこの難題に取り組むことはできない。国連やNATO、主要7カ国(G7)、20カ国・地域(G20)、私たちの経済、外交、軍事の力を適切に組み合わせれば、この脅威に十分対処できる

志を同じくする国々の新たな集団、民主主義諸国の新たな同盟を構築するときだろう。自由世界が共産主義の中国を変えなければ、中国が我々を変えるだろう。

中国共産党から我々の自由を守ることは現代の使命だ。米国は建国の理念により、それを導く申し分のない立場にある。ニクソンは1967年に「中国が変わらなければ、世界は安全にはならない」と記した。危険は明確だ。自由世界は対処しなければならない。過去に戻ることは決してできない。(ワシントン=芦塚智子)

 

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