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我那覇真子の現地報告、米大統領選
本日17日(水)13時15分より玉城デニー知事の責任を追求する万国津梁会議談合疑惑事件住民訴訟の第6回口頭弁論が那覇地裁にて行われます。
傍聴頂ける方は是非ともお越し下さい。
尚、報告の動画は今週末迄には、沖縄県政の刷新を求める会のホームページにアップする予定ですのでご覧頂ければ幸いです。
前回は、被告側から提出された領収書の内、数カ所に動かし難い事実と異なる記載、支出がある事を指摘しております。
今回は、住民監査請求を原告が提出後に帳尻合わせのように年度末に 行われた4回の会議は、新型コロナ発生後、県内外で自粛や公立学校の臨時休校が出される前後の為、無駄な支出、帳尻合わせの為に行われている事を指摘する予定です。
■催し物の御知らせ
※開廷日時に誤りがありましたので訂正します。
デニーりま官製談合糾弾訴訟
日時 2月7日 午後1時30分⇒2月17日(水)1時15分
場所 那覇地裁
原告 江崎孝ほか3名
被告 玉城デニー県知事
■支援金のお願い■
当日記管理人は、沖縄県らを相手取って複数の裁判を係争中です。 代理人弁護士には手弁当でご協力いただいていますが、訴訟費用の資金難で交通費、宿泊代などの実費支払いも厳しい状態です。
支援金お振込先
お振込先 ゆうちょ銀行から振り込む場合
- 金融機関:ゆうちょ銀行
- 名義:沖縄県政の刷新を求める会
- 記号:17010
- 番号:19246121
ゆうちょ銀行以外からお振り込む場合の振込先
- 金融機関:ゆうちょ銀行
- 金融機関コード:9900
- 預金種目:普通
- 名義:沖縄県政の刷新を求める会
- 店名:708(ナナゼロハチ店)
- 店番:708
- 番号:1924612
マッカーサーは天皇でさえも支配下に置く絶対権力者と思われていた。
しかし、トルーマン大統領に逆らったため呆気なく解任されGHQ最高司令官の座を明け渡すことになった。
解任されたにも拘らず日本でのマッカーサー人気は絶大だった。新聞各紙は解任を惜しみ、業績をたたえる記事を続々と掲載した。
帰国の日となった4月16日には、羽田空港の沿道に20万人以上が詰めかけ、星条旗と日の丸を掲げてマッカーサー夫妻との別れを惜しんだ。
マッカーサーは日本人に愛された。
だが、マッカーサー以上に中国人に愛され、帰国の際は見送りの人々が列をなしたもう一人の米国軍人がいた。
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■中国人に愛されたアメリカ軍人
2005年5月28日、アーリントン墓地に約四百人の老いた退役軍人が集結した。
彼らはフライングタイガースの元隊員であった。
フライングタイガースの元隊員といっても、大阪の道頓堀川に飛び込む熱狂的な阪神タイガースファンのことではない。
日米開戦の四年前、既に日本と交戦状態にあった中国に航空部隊として参戦した「アメリカ合衆国義勇軍」の事をフライングタイガースと称していた。
アーリントン墓地の軍戦没者慰霊祭には元軍人の他に一人の年老いた東洋系婦人参列していた。
元軍人集団の中心にいるこの老婦人はフライングタイガースの創設者シェンノート元少将の未亡人、陳香梅であった。
時は遡り1989年、あるアメリカの大手航空貨物会社が消滅した。
航空貨物会社「フライングタイガース」が世界最大のアメリカ航空貨物社「フェデックス」に吸収されたのだ。
この会社は大戦終了の年1945年設立で創業44年の歴史を誇っていた。
しかしその社名の由来は終戦の年から更に8年、時をさかのぼると、アーリントン墓地の慰霊祭も参列した老齢の中国人陳香梅の夫故シェンノートに辿りつく。
この航空貨物会社「フライングタイガース」の名前は1937年誕生のアメリカ合衆国義勇軍(American Volunteer Group,AVG)に由来していた。
日本では天駆ける想像上の生き物として「天馬」があるが、中国には飛竜と共に空を飛ぶ虎は無敵であるという故事から「飛虎」という想像上の無敵の動物がいるという。
中国を愛したシェンノートはこの中国の故事に因んでフライングタイガースという名の航空義勇軍を創設した。
因みに写真で見るフライングタイガース戦闘機は頭部に歯をむき出して大口を開けているサメの絵が描かれている。
戦闘機の体形上虎よりサメの方が描きやすかったのだろうが、フライングシャークス、飛鮫では大陸国家中国の空を雄飛するには格好がつかない。その代わり乗務員は翼の生えた虎のマークの入ったエンブレムを背中に貼り付けていたようだ。
戦後本国アメリカに先立って日本軍と戦ったフライングタイガーは米国人のヒーローとなり、若き日のジョンウェイン主演で映画にもなった。
フライングタイガースを創設した故シェンノート少将。
アーリントン墓地ではその夫人が約400名の退役軍人にエスコートされ、「中国人の誰もが知っているアメリカ軍将軍」として今でも中国人に愛されている故シェンノート少将といったいどんな人物なのか。
シェンノートは1893年9月6日テキサス州に生まれた。
1937年7月、中日戦争が全面戦争に突入すると、シェンノート大佐は中国の昆明に航空学校を設立して、積極的に中国空軍の対日作戦を支援した。
昆明は当時のビルマを起点にする援蔣ルート(えんしょうルート)の終点である。
援蔣ルートは別名ビルマルートとも呼ばれ、日中戦争に於ける日本と中国の対立の際、主にイギリス、アメリカ、ソ連が中国を軍事援助するために用いた輸送路のことである。
ちなみに現在ミャンマーでアウンサンスー・チーと軍政府でクーデタ―騒動が起きているが、安倍前首相が提案した「自由で開かれたインド太平洋」の出口を封鎖された中国が、援蔣ルートを確保するためクーデター騒動の裏で暗躍しているとの見方もある。
シェノート大佐はパイロットの養成だけでなく、自ら戦闘機に操縦し戦闘にも参加している。日米戦争が勃発すると、アメリカ政府は積極的に中国を支援する方針を採った。
1942年7月、航空志願部隊は第10航空隊中国特別派遣部隊に編入され、准将に昇進したシェンノート氏がそのまま指揮に当った。
1943年3月、部隊はアメリカ陸軍航空隊第14航空隊に再編入され、シェンノート氏は少将に昇進する。
1941年7月に組織されたアメリカ志願部隊は23戦闘機大隊から第14航空隊に編入されるまで、シェンノート氏は一貫して志願部隊の指揮を執り、自身も退役将校から少将にまで昇進した。
シェンノート少将の中国に対する思いは深く、中国人を夫人にし、昆明に家を建てて、生涯を中国で過ごすことを希望していた。
1945年7月、日中戦争勝利を目前に、シェンノート少将は8年間暮らした中国を離れ、アメリカに帰国した。
このとき、中国人の群集がシェンノート少将を見送りに集まっている。人々は彼の乗用車を取り囲み、まるで駕篭を担ぐように乗用車を担ぎ上げ、数時間かけて中心広場まで運んだという。
広場のひな壇はフライングタイガースのエンブレムで飾られ、花束でアーチが築かれていた。
別れを惜しんで握手を求める人々の長蛇の列にシェンノート少将は、感激の涙を流した。
この情景はマッカーサーがに離日した時の日本人のマッカーサーに対する惜別の表現を髣髴とさせるものがある。
・・・・・で、そのフライングタイガースが一体どうしたのかって?
今までの話は単なる前触れで、本題は今から始まる。
日本人には馴染みの薄いシェンノートというアメリカ軍人がアメリカ人による「義勇航空隊フライングタイガース」を中国に創設した1937年という年度に注目して欲しい。
その年シェノートが義勇軍を創設して数ヵ月後に事実上の日中戦争の開始とも言うべき盧溝橋事件が起きている。
そのころの中国大陸は蒋介石率いる国民政府、毛沢東率いる共産政府が分裂し各地で内戦が行われていた。その間を掻い潜るように日本軍が侵略をはじめていた。
シェンノートは中国空軍の訓練教官及びアドバイザーとして国民党政府に雇い入れられた。
当時48歳であった彼は健康上の理由により軍では退役寸前であったが蒋介石は空戦経験の豊富な彼を中国空軍の航空参謀長とし階級も大佐としての待遇を持って国民党政府に招き入れた。
着任したシェンノートはまず重慶の基地を見回り中国空軍内を視察してまわった。
そしてそれまで爆撃機を主軸に活動していた中国空軍に対しシェンノートは蒋介石に「日本軍航空隊に対し中国軍は優れた戦闘機100機とそれを操縦する優れたパイロットを持つことで、中国空軍はこの脅威を退けることが出来るでしょう」とのアドバイスを行っている。
この意見は蒋介石に承認され、アメリカ合衆国と協議の結果、承認された。
アメリカは当時中立政策をとっていたため表面だって中国を支援する事は国民の支持を得にくかった。
「リメンバーパールハーバー」より遡ること四年前の事である。
つまりアメリカは「真珠湾の卑劣な攻撃」の実に4年も前から日本と交戦していたのである。
これ嘘のような本当の話。
1958年7月27日、シェンノート少将はアメリカで死去した。
が、中国系アメリカ人の陳香梅夫人はその半世紀後の2018年、92歳の天寿を全うした。
陳香梅さん死去、92歳=抗日戦参加の米将校の妻、台米関係に影響力
(台北 4日 中央社)抗日戦で中華民国軍を支援した米航空義勇隊「フライング・タイガース」の指揮官の妻で、台米関係に影響力を持った陳香梅さんが先月30日、米ワシントンで死去した。92歳だった。外交部(外務省)が4日、明らかにした。遺族によると、脳卒中発症後に合併症を患っていたという。
●【参考】
「フライングタイガーズ」のパイロットは、蒋介石の軍事顧問クレア・シェンノート氏によって、当時の新米パイロットの5倍相当に当たる月給600ドルと日本軍機1機撃墜ごとに500ドルという破格の報酬で、全米各基地から集められた。全員は農民や伝道師、エンジニアなどを装ってビルマに集結。蒋介石政権が米国に借金する形で資金を負担、弱体の中国航空部隊を裏で支えた」(読売新聞1991年7月8日)
さらに驚くべきは、フライングタイガーズが東京や大阪の奇襲攻撃を計画していた。
「作戦には350機のカーチス戦闘機と150機のロッキード・ハドソン長距離爆撃機が参加の予定で、うまくいけば(1941年)9月下旬には東京や大阪に大量の焼夷弾をばらまいて木と紙の日本の家屋を焼き尽くすはずだった。だが、「フライング・タイガース」が集結したビルマの英空軍基地には10月下旬になっても肝心の爆撃機は到着しなかったのである。(中略)需要の多い爆撃機はその年の暮れになっても届かず、41年12月7日の真珠湾攻撃で日米が開戦すると、中国大陸を経由した日本爆撃そのものがほごにされ、計画はやみに葬られた」(産経新聞2000年7月15日)
つづく