昨年の米大統領選を、同時進行で体験して驚いた事実が数点ある。
民主主義と表現の自由の本場と思っていたアメリカが、実は民主主義の本場でもなければ、言論の自由のメッカでもない、という事実だ。
我々日本人がアメリカは言論の自由の本場と信じ込まされたのは、GHQの総大将マッカーサーが、「日本人教育」のためコーンパイプを手に厚木飛行場に降り立った占領期に端を発する。
当時の日本は戦前の日本を覆っていた封建的社会を打ち破ってくれると期待されたマッカーサー時代を賛美する「若く明るい歌声」に満ちていた。
1949年に発表された映画主題歌「青い山脈」の歌詞(西城八十作詞)からマッカーサーの民主主義を考察してみよう。
青い山脈
終戦後まもない時期の青春映画というだけあって、その主題歌の歌詞には、古い体制の崩壊と新しい時代の到来を印象付けるような表現がいくつか見られる。
参考までに、『青い山脈』一番と二番の歌詞から、いくつかキーワードを拾って、その意味を簡単に解釈・考察してみたい。
青い山脈 藤山 一郎
作曲 服部良一
作詞 西城八十
➀若く明るい 歌声に
雪崩は消える 花も咲く
青い山脈 雪割り桜
空のはて
きょうもわれらの 夢を呼ぶ
➁古い上衣よ さようなら
さみしい夢よ さようなら
青い山脈 バラ色夢へ
あこがれの
旅の乙女に 鳥も啼く
『青い山脈』一番の歌詞にある「雪崩は消える」については、「(日本)全体を白く覆っていた積雪は雪崩(敗戦)となって崩れ去り、崩れ落ちた雪も春の訪れと共に溶け去った」とも解釈できる。
敗戦による古い体制の崩壊と新しい時代の到来が暗示されており、「雪」は戦前・戦中の古い体制や緊張状態の象徴として使われていると考えられる。
全体を白一色で覆いつくす冷たい雪は、戦中の冷酷で封建的・全体主義的な傾向の象徴であり、それが敗戦により崩れ去った様が「雪崩」という歌詞に暗に表現されている。
そして雪崩となって崩壊した雪も、訪れた春の暖かい日差しによって溶け去り、消えてなくなった。それが「雪崩は消える」という歌詞に込められているのではないだろうか。
では、なぜ『青い山脈』の歌詞で「雪割桜」が用いられたのだろうか?
これについても、上述の「雪崩は消える」と同様に、古い体制・時代の象徴である雪の冷たさや重さに耐えて雪を割って花を咲かせる「雪割桜」は、まさに新時代の変化を表すにふさわしい事物であったと考えられる。
二番の歌詞冒頭「古い上衣よ さようなら」についても、上述の「雪崩は消える」や「雪割桜」の延長線上で解釈ができる。
つまり、「古い上衣(上着)」は古い時代の象徴であり、それに対してはっきりと「さようなら」と決別の意を表している。
映画『青い山脈』が公開された1949年は、まだ日本がGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に占領されていた頃であり、戦前の封建的社会に対する「過去への決別」という歌詞は、GHQによる日本民主化へ向けた徹底した思想教育が反映されたものと考えられる。
つまり、マッカーサーが日本にもたらした言論の自由とは、戦前の日本社会は封建主義的悪と決めつける「自虐史観」による言論の自由であった。
*
現在公表さた資料から「マッカーサーの言論弾圧」は周知の事実だと思っていたら、日本のマスコミはマッカーサーの呪縛から未だ解き放たれていない。
日本の新聞、特に朝日新聞は「マッカーサーの焚書」から抜けきっていない。
その証拠として過去の朝日新聞、天声人語を転載してみよう。
【天声人語】2005年09月29日(木曜日)付
一瞬を切りとった写真が、時代を語ることがある。60年前のきょう、9月29日の新聞各紙を飾った1枚がそうだ。
両手を腰に当てた軍服姿の180センチと、モーニングを着て直立する約165センチ。朝日新聞の見出しは「天皇陛下、マツクアーサー元帥御訪問」だ。勝者の余裕と敗者の緊張が並ぶ構図は、人々に日本の敗戦を実感させた。
撮られたのは掲載の2日前。昭和天皇が米大使館に元帥を訪ねた初会談の時だ。外務省の公式記録には「写真三葉ヲ謹写ス」とある。「元帥ハ極メテ自由ナル態度」で、天皇に「パチパチ撮リマスガ、一枚カ二枚シカ出テ来マセン」と説明した。
未発表の2枚はいま、米国バージニア州のマッカーサー記念館にある。1枚は元帥が目を閉じている。別の1枚は天皇が口元をほころばせ、足も開いている。どちらも、発表されたものに比べて、天皇が自然体に構えている。そのぶん「敗者らしさ」が薄まって見える。
あの写真は勝者を際立たせただけでなく、時代の歯車も回した。載せた新聞を、内閣情報局が発売禁止にすると、これに怒った連合国軍総司令部(GHQ)が「日本政府の新聞検閲の権限はすでにない」と処分の解除を命じた。同時に、戦時中の新聞や言論に対する制限の撤廃も即決したのだ。
翌30日の新聞で、それを知った作家の高見順は『敗戦日記』(中公文庫)に書いた。「これでもう何でも自由に書ける……生れて初めての自由!」。こんな、はじける喜びの浮き浮きした感じにこそ、あの写真が語り継ぐ時代の重さの実感がこもっている。
【終了】
9月29日の「天声人語」でマッカーサーが戦前の言論弾圧を解放して、日本も「これでもう何でも自由に書ける……生れて初めての自由!」と有名作家の言葉を借りて「言論の自由の到来」を高らかに謳い上げた。
ところが、その舌の根の乾かないうちにとはこのことか。
半月後の「天声人語」は「新聞に対する検閲は、明治の初めから占領期まで約80年間続いた。」とある。
「天声人声」は戦後60年で、やっと「マッカーサーの三年殺し」から解放されたのか。
同じ新聞の同じコラムの論調が半月ほどでこうも変わるとは。
【天声人語】2005年10月16日(日曜日)付
第二次大戦後の占領期に実施された検閲には不可解な例がいくつもあった。「東北で疫病の恐れ」といった記事が削られる。馬追い祭りの写真も掲載できない。武者姿が復古的と見なされたようだが、恣意(しい)的である。新聞人は敗戦の悲哀をかみしめた。
新聞の事前検閲が本格化したのは60年前の10月だった。各紙が連合国軍総司令部(GHQ)に日々大量の原稿を持参し、掲載可か否か保留か判定を待った。新聞統制に腕をふるったのは元記者でGHQ情報課長のドン・ブラウン氏である。検閲行政を進めたほか、印刷用紙の割り当ても差配した。
ブラウン氏の足跡を紹介する企画展が30日まで横浜開港資料館で開かれている。彼が戦時中に手がけた対日宣伝ビラは巧妙だ。すし盛りのカラー写真や天皇の詠歌を載せ、日本兵を投降に誘う。占領終結後も日本にとどまり、80年に病没した。
ブラウン氏が米国で生まれた1905年、日本は対露戦争のさなかで軍部が検閲に力を入れていた。元TBS記者竹山恭二氏の『報道電報検閲秘史』(朝日選書)を読むと、特報の数々が軍や警察でなく、地方の郵便局で気まぐれに没とされ、削られていたことがわかる。
当時の報道合戦は電報頼みだった。「○○少佐昨夜旅順ヘ出発ス」。陸軍の拠点だった香川・丸亀の郵便局から記者たちが本社へ送った大量の電報の行方を竹山氏は克明に調べた。歴史に埋もれた電報検閲に光をあて、今年の日本エッセイスト・クラブ賞に輝いた。
新聞に対する検閲は、明治の初めから占領期まで約80年間続いた。
★
【おまけ】
友人の一人А君は沖縄空手の達人で彼の師である故Y先生は沖縄でも伝説の武人であった。
毎月一度の酒席の話題で恩師の武勇伝に話が及んだ。
Y先生は晩年は殆ど弟子を教える事はなく、代わりにA君が代稽古をつけていた。
それでも年に一回、新年の稽古始めにはY先生自ら必殺の突き技を披露していたという。
世界中に散らばる高弟達がこの突き技を見る為年末から新年にかけて道場は外人の弟子で溢れたという。
但し伝説の「突き」は年にたった一回しか披露しない。
裂帛の気合と共に繰り出した拳の突きを、その瞬間クシャミでもして目をつぶってしまったら万事休す。
「もう一度お願いします」と言っても、
「又来年来なさい」と言ってアメリカからわざわざそのために来た高弟も来年又出直さざるを得なかったと言う。
伝説の突きをA君はボクシングのパンチに例えて次のように説明する。
同じパンチでもボクシングのパンチは誰の目にも明らかに相手は当たればその瞬間ダメージを受ける。
当然パンチを受けたらその表面は腫れあがる。
だが、Y先生のパンチ(突き)は受けた表面にはダメージを受けないが後になって内部の組織を徐々に破壊すると言う。
表面は傷つけず内部細胞を破壊する恐怖の必殺技を持っていたと言う。
つまりパンチを受けたときは何も感じないが三年もした頃内部に異常を来たし場合によっては死に至ることもあるという。
これを必殺「三年殺し」の技と言うらしい。
この技を使われたら現行犯を見つかっても殺人の完全犯罪が成立する。
もっともH君、酔ってロレツが回らない状態での話しなので何処までが本当なのかその信憑性は保証の限りではない。
◇
戦前の日本の軍部は意にそぐわぬ言論にはあからさまに弾圧した。
当然弾圧を受けた相手は弾圧のダメージを受けるし、弾圧された意識もある。
A君の解説に従うとこれはボクシングのパンチに相当する。
誰の目にも明らかに相手はその瞬間ダメージを受ける。
戦前の新聞等が軍部の意に添う記事を書きまくったのもある意味で理解出来る。
しかし戦後のマッカーサーの言論弾圧は誠に巧妙だった。
「自由と民主主義」のソフトな言葉に包んだ「マッカサーの言論弾圧」はまさに空手の達人「Y先生」の「三年殺し」の必殺技だった。
誰にも気付かれずに徐々にその効果を表す・・・。
戦後75年数年経過しても、沖縄では言論の自由は無い。
つまり、沖縄2紙による言論封殺が続いているからだ。