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「青い山脈」と「マッカーサーの呪縛」「マッカーサーの三年殺し」【再掲】
の続編です。
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名曲「長崎の鐘」は、戦争への懺悔の歌か?2020-05-03
寄りの抜粋・引用です。
◇
「長崎の鐘」 作詞:サトウハチロー 作曲:古関裕而 唄:藤山一郎
1 こよなく晴れた 青空を
悲しと思う せつなさよ
うねりの波の 人の世に
はかなく生きる 野の花よ
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る
この曲は昭和24年、まだ戦後のドサクサ時代のヒット曲である。
曲の主人公の永井博士は長崎の原爆投下で奥さんを亡くし、自分も被爆で白血病戦いながら数々のベストセラーを出した。
結局博士はその2年後に亡くなる。
つまりこの詩は原爆の凄惨な災害を受けた原爆被爆者を歌っている筈である。
しかしこの歌詞には残虐な原爆を投下した者への恨みはない。
GHQの言論検閲の結果である。
念のため二番の歌詞を見てみよう。
2 召されて妻は 天国へ
別れてひとり 旅立ちぬ
かたみに残る ロザリオの
鎖に白き わが涙
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る
3 つぶやく雨の ミサの音
たたえる風の 神の歌
耀く胸の 十字架に
ほほえむ海の 雲の色
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る
やはり違和感は深まる。
これは賛美歌か。
歌詞を鼻歌で追いながら一つの疑問にぶち当たった。
この歌が作られた昭和24年だ。
疑問を解く鍵がこの時代に密封されているのに気がついた。
念のため歌詞の4番に目を通した。
4 こころの罪を うちあけて
更け行く夜の 月すみぬ
貧しき家の 柱にも
気高く白き マリア様
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る
これはまるで懺悔の歌ではないか。
やはりそうだったのか!
作曲家古関裕而と詩人サトウハチローの苦悩が手によるように判った。
昭和24年前後の日本。
サトウハチローが「長崎の鐘」の作詞に呻吟していた頃。
日本はマッカーサーの厳重な言論封鎖の下にあった。
それよりさらに四年時を遡る。
昭和20年8月6日と9日。
広島と長崎に原爆が投下された。
続く8月15日に発表された『終戦の詔書』で天皇陛下は既に原爆投下を批判していた。
「敵ハ新タニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及ブ所真ニ測ルべカラザルニ至ル」
天皇陛下は「アメリカは残虐非道な新型爆弾を投下、罪無き人々を殺傷した。その災害の及ぶ範囲は想像を絶する状況に至ってい」と敵の犯した「人道上の罪」をいち早く批判したのだ。
原爆の惨状は当時のマスコミの想像を絶した。
新聞は「悪霊の町広島」「進駐軍に向ける憎悪のまなざし」などと克明に報道していた。
だがこれに対するマッカーサーの動きは素早かった。
アメリカは昭和20年9月30日より日本独立までの7年間、マスコミの原爆報道は禁止した。
それまでの原爆被害と被災地の状況は一切、掲載される事がなくなった。
話を「長崎の鐘」の昭和24年に巻き戻そう。
永井博士だけがなぜ例外的にアメリカ占領軍の下で原爆被災者の代表のような立場で報道されたのか。
マッカーサーによる厳重な原爆報道禁止の下で。
永井博士はカトリック信者であった。
それにしても長崎原爆についても永井博士の著作では原爆を落とした側のアメリカに対する憎悪は全く記されていない。
この永井博士の、≪原爆を落とした側への批判は行わずに、すべてをあるがままに受け入れ、すべてを赦そう≫といった視点が、その後の日本人の原爆観を決定付けた。
当然現実の被災者の中にはアメリカへの憎悪の念を燃やす人は少なからずいた。
ただアメリカ占領軍は数多くの原爆被災者の中で永井博士の言説だけを特別に報道許可したというのは、そこに政治的な意図が介在していた。
原爆投下を今でも正当だったと主張するアメリカにとって永井博士の言動は願っても無い宣伝媒体だったのだ。
永井博士は自著で次のような主旨を述べている。
「原爆が神の御心ならば、それが以下に辛いことであっても試練として、自分はそれをそのまま受けいれる」
マッカーサーの厳しい言論統制と「原爆は神の御心には関係なく、人類が犯した最大の悪業である」と言う人間の本音の狭間で作曲家古関裕而と詩人サトウハチローは悩み苦しんだのか。
そしてあのような原爆被害に対する曖昧な歌詞を捻り出したのか。
ここにもマッカーサーの目立たない言論封殺の秘技を見る。
これはその後の日本人の原爆観に引き継がれる。
昭和27年日本独立の年に建立された広島の原爆碑文にその証が刻み込まれた。
碑文を書いたのは被爆者のひとり、雑賀忠義広島大学教授にも三年殺しは引き継がれた。
碑文には「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と刻み込まれている。
この碑文には主語が無い。
過ちを犯した(原爆を投下した)主語が書かれていないのだ。
昭和27年11月日本独立の年、極東軍事裁判の弁護人であったインドのパール博士はこの碑を読んで発言した。
「原爆を落としたのは日本人ではない。落としたアメリカ人の手は、まだ清められていない」と。
このことがきっかけとなっていわゆる碑文諭争がおこった。
原爆投下についてのマッカーサーの目立たぬ言論封殺は「長崎の鐘」から「広島原爆碑」と受け継がれ平成の世になっても日本人の思考を停止させたままにしている。
驚嘆すべきかな米国の占領政策!
恐るべきかなマッカーサーの言論封殺!
戦後4年にして、古関裕而に反省させ
サトーハチローの詩心を惑わし
反省の歌「長崎の鐘」を作らした
怒る筈の原爆被害者を従順な子羊に変えるために
時を乗り越え
戦後30年経った1975年、NHKはその歌謡番組で古関裕而に反省のインタビューをさせた。
この反省は何時の日まで引き継がれていくのか
ア~ア~! 今も長崎の鐘は鳴る。