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上記図は日中戦争の際、米国が当時の蒋介石の中華民国を支援するためアンダマン海から中国の昆明に向かった「蒋援ルート」を逆にたどったルート。
以下坂田さんのコメントの引用。
今もフライングタイガースの名前を冠するのが普天間飛行場のローター中隊MVー24オスプレイ2個隊24機です。尾翼にデカいトラの顔マークを掲げています。
図解でインド洋が在りますね、この図解を良~くご覧下さい。
図解右側に、赤く太い矢印がインド領有のアンダマン諸島です。
そして、最右部に南シナ海の出入り口で在るマラッカ海峡の真ん前がアンダマン海域です。
その地政学的な構図が、まるでマラッカ海峡を通過する船舶に対しての「監視関所」の様に見える。
このアンダマン諸島を要塞化されたら東南アジア全員が困る。
南シナ海と西太平洋からの出入口マラッカ海峡を通過の貿易船が、世界の海運量の8割を占めるから沿線国家群の死活問題になる。
そして、要塞化する懸念が2年前にやっぱり出た。
なんと、インドと日本が海上自衛隊の基地をアンダマン諸島に造る借地契約を合意した。
日印の合意と言えども、国際法で「条約に準じる」と定義ゆえに絶対約束で在る。国際法で約束は当事国の国内法よりも優先すると定義する。(玉城知事さ~ん、国際法を知らんから埋立中止言う訳だ)
海自アンダマン諸島基地化の合意に付いては日印で数年を要したものと察します。日印地位協定や受入インド側の国内法整備が先だからだ。
なお、軍隊同士の駐屯に於いて地位協定合意が進まない事例が今年の軍事同盟「日・米・豪・印のクワッド体制」です。
日本と豪州が噛み合わないままです。その理由が日本の死刑制度に在る。日・印・米も死刑制度を温存するから地位協定が早い。
でもさ、今月、豪州軍司令官が「台湾有事に対処する米軍を支援しないわけにはいかない」とする、まるでエルビスプレスリー並みの“ I Can't Stop LovingUSA”協力を惜しまずの会見をした。
それって、対日視線と矛盾するじゃ在りませんか。死刑制度日本とは綺麗ごとだったのか?
未だ在る、3カ月前に豪州が最大のミサイル駆逐艦6000トン級を横須賀第七艦隊に派遣して、原子力空母ドナルドレーガンを護衛すると表明した。
もうとにかく、夜の横須賀で豪州軍人なら事件を起こさんでくれ、知らないよ~ん。
豪州は豊満なカワイ子ちゃんがいるだろうが? それがですね、日本人が金髪を好む様に、白人もオリエントの黒髪を好むのです、どうしようもない。
アンダマン諸島に基地を持つ海上自衛隊、インド海軍と口を合せて「アンダマンに発電所を造り地域に貢献する」だとさ。
そんなウルトラ規模の火力発電所をこさえて、ウルトラ電波レーダー望遠鏡基地を運用で天体観測するのだろうか? そんなわけがないさ。
防衛省、良くやりましたっ あっぱれです。上記のインド洋図解を見れば一目瞭然で在ります。
中國空母遼寧打撃群艦艦隊がマラッカ海峡を出たら、直ぐ機雷封鎖の罠が待ち構えることになる。
アマンダン日本海軍港に、新たな軽空母2隻が配備ならアジアの無敵艦隊打撃群に成る。
軽空母2隻が艦載の戦闘機が世界最強ステルス垂直離着陸機F35B型の2個隊20機で在るからだ。
この2個隊で中國最新鋭ステルス戦闘機とする400機群が全て無力化するから、封じ込める。
なぜなら、軽空母「呉かが」と「横須賀いずも」に艦載がF35B型が総勢20機で在るから、F35B型導入機数が未だ半分余っているからだ。
だから、新たに2隻のF35B型艦載専用軽空母が新造される可能性を見做していました。
昨日は昼過ぎから那覇にでて、野暮用を数件済まし、夜から友人三人と食事会をした。
久しぶりにカラオケで蛮声を張り上げたいという話が持ち上がり、台風で雨の降る中、友人行きつけのカラオケスナックへと繰り込んだ。
呑んだアルコールは、順に言うとビール、日本酒、ワインとまるで整合性がない。後で気がついたのだが、日頃醸造酒は悪酔いすると言ってるくせに、醸造酒オンリーだった。
台風で客が我々三人だけだったので貸しきり状態。 久しぶりにマイクに向かって蛮声を張り上げたが、カラオケがこんなに疲れるものと初めて知った。 息切れがしたのだ。
帰宅は久しぶりの午前様。
タクシーの深夜料金はスナックの飲み代より高くついた。 逆に言えば安スナックで飲んだという証明にもなる。
おかげで、今朝は昨夜の醸造酒が後を引いて、酔眼朦朧、ブログ更新のネタを考える気力もない。
コメント欄に古いエントリーへの言及があったので、これ幸いと7年前にエントリーした関連記事を一部加筆して、本日のエントリーに代えたい。 ヨロシク。
「幻のAmerica’s Sneak Attack on Tokyo」
1941年12月8日。日本の「真珠湾攻撃」によって日米戦争が始まった。
だが、実はその四年前アメリカは既に日本と戦っていた。
卑怯にも(sneak)日本攻撃(attack)の準備をしていた。
日本の真珠湾攻撃以前に、アメリカ製戦闘機を駆って日本軍と戦っていたアメリカ人士官とアメリカ人戦闘機集団がいたのだ。
*
アメリカでは軍戦没者は一兵卒でも英雄として扱われる。
最近のテレビ映像等でもイラクで戦死した兵士の棺を星条旗で包んで国に殉じた英雄として丁重に扱うシーンが記憶に新しい。
■アーリントン墓地での風景
昨年の2005年5月28日、アーリントン墓地に約四百人の老いた退役軍人が集結した。
彼らはフライングタイガースの元隊員であった。
フライングタイガースの元隊員といっても、大阪の道頓堀川に飛び込む熱狂的な阪神タイガースファンのことではない。
フライングタイガースとは、日米開戦の四年前、既に日本と交戦状態にあった中国に航空部隊として参戦した「アメリカ合衆国義勇軍」の事をフライングタイガースと称していた。
5月28日の軍戦没者慰霊祭に、一人の年老いた東洋系婦人参列していた。
元軍人集団の中心にいるこの老婦人はフライングタイガースの創設者シェンノート元少将の未亡人、陳香梅であった。
時は遡り今から16年前の1989年。
あるアメリカの航空貨物会社が消滅した。
アメリカの航空貨物会社・フライングタイガースス社のことだ。
世界最大のアメリカ航空貨物社「フェデックス」に吸収されたのだ。
フライングタイガース社は大戦終了の年1945年に設立の44年の歴史を誇っていた。
しかしその社名の由来は更に終戦の年から八年時代をさかのぼり故シェンノート少将に行き当たる。
この航空貨物会社「フライングタイガース」の名前は1937年誕生のアメリカ合衆国義勇軍(American Volunteer Group,AVG)に由来していた。
日本では天空を駆ける想像上の生き物として「天馬」がある。
中国では飛竜が一般的だが、空を飛ぶ虎は無敵であるという故事から「飛虎」という想像上の無敵の動物を敬う。
中国を愛したシェンノートはこの中国の故事に因んでフライングタイガースという名の航空義勇軍を創設した。
因みに写真で見るフライングタイガース戦闘機は頭部に歯をむき出して大口を開けているサメの絵が描かれている。
戦闘機の体形上虎よりサメの方が描きやすかったのだろうが、フライングシャークス、「飛鮫」では大陸国家中国の空を雄飛するには格好がつかない。
その代わり乗務員は翼の生えた虎のマークの入ったエンブレムを背中に貼り付けていたようだ。
フライングタイガースを創設した故シェンノート少将。
アーリントン墓地ではその夫人が約400名の退役軍人にエスコートされ、
「中国人の誰もが知っているアメリカ軍将軍」として今でも中国人に愛されている故シェンノート少将といったいどんな人物なのか。
シェンノートは1893年9月6日テキサス州に生まれた。
1937年7月、中日戦争が全面戦争に突入すると、シェンノート大佐は中国の昆明に航空学校を設立して、積極的に中国空軍の対日作戦を支援した。
大佐はパイロットの養成だけでなく、自ら戦闘機に操縦し戦闘にも参加している。
日米戦争が勃発すると、アメリカ政府は積極的に中国を支援する方針を採った。
1942年7月、航空志願部隊は第10航空隊中国特別派遣部隊に編入され、准将に昇進したシェンノート氏がそのまま指揮に当った。
1943年3月、部隊はアメリカ陸軍航空隊第14航空隊に再編入され、シェンノート氏は少将に昇進する。
■「真珠湾攻撃」の前に組織されたフライングタイガース
1941年7月に組織されたアメリカ志願部隊は23戦闘機大隊から第14航空隊に編入されるまで、シェンノート氏は一貫して志願部隊の指揮を執り、自身も退役将校から少将にまで昇進した。
シェンノートン少将の中国に対する思いは深く、中国人を夫人にし、昆明に家を建てて、生涯を中国で過ごすことを希望していた。
1945年7月、日中戦争勝利を目前に、シェンノート少将は8年間暮らした中国を離れ、アメリカに帰国した。
このとき、中国人の群集がシェンノート少将を見送りに集まっている。
人々は彼の乗用車を取り囲み、まるで駕篭を担ぐように乗用車を担ぎ上げ、数時間かけて中心広場まで運んだという。
広場のひな壇はフライングタイガースのエンブレムで飾られ、花束でアーチが築かれていた。
別れを惜しんで握手を求める人々の長蛇の列にシェンノート少将は、感激の涙を流した。
この情景はマッカーサーがに離日した時の日本人のマッカーサーに対する惜別の表現を髣髴とさせるものがある。
・・・・・で、そのフライングタイガースが一体どうしたのかって?
今までの話は単なる前書きであって本題は今から始まる。
日本人には馴染みの薄いシェンノートというアメリカ軍人がアメリカ人による「義勇航空隊フライングタイガース」を中国に創設した1937年という年度に注目して欲しい。
その年シェノートが義勇軍を創設して数ヵ月後に事実上の日中戦争の開始とも言うべき盧溝橋事件が起きている。
そのころの中国大陸は蒋介石率いる国民政府と毛沢東率いる共産政府が分裂し各地で内戦が行われていた。その間を掻い潜るように日本軍が右往左往していた。
シェンノートは中国空軍の訓練教官及びアドバイザーとして国民党政府に雇い入れられた。
当時48歳であった彼は健康上の理由により軍では退役寸前であったが蒋介石は空戦経験の豊富な彼を中国空軍の航空参謀長とし階級も大佐としての待遇を持って国民党政府に招き入れた。
着任したシェンノートはまず重慶の基地を見回り中国空軍内を視察してまわった。
そしてそれまで爆撃機を主軸に活動していた中国空軍に対しシェンノートは蒋介石に「日本軍航空隊に対し中国軍は優れた戦闘機100機とそれを操縦する優れたパイロットを持つことで、中国空軍はこの脅威を退けることが出来るでしょう」とのアドバイスを行っている。
この意見は蒋介石に承認され、アメリカ合衆国と協議の結果、米国にも承認された。
アメリカは当時中立政策をとっていたため表面だって中国を支援する事は国民の支持を得にくかった。
「リメンバーパールハーバー」より遡ること四年前の事である。
つまりアメリカは「真珠湾の卑劣な攻撃(sneak attack)」の実に4年も前から日本と交戦していたのである。
歴史に「もし」は許されない。
だが密かに計画されていた「1941年9月下旬のロッキード・ハドソン長距離爆撃機による東京、大阪の空爆計画」が実行されていたら
「東京空爆を忘れるな!」(リメンバー;・東京)
が日本の合言葉になっていただろう。
これ嘘のような本当の話。
1958年7月27日、シェンノート少将はアメリカで死去したが、中国系アメリカ人の陳香梅夫人は今も健在である。
フライングタイガーの創始者シェノートと陳香梅夫人
「フライングタイガーズ」のパイロットは、蒋介石の軍事顧問クレア・シェンノート氏によって、当時の新米パイロットの5倍相当に当たる月給600ドルと日本軍機1機撃墜ごとに500ドルという破格の報酬で、全米各基地から集められた。全員は農民や伝道師、エンジニアなどを装ってビルマに集結。蒋介石政権が米国に借金する形で資金を負担、弱体の中国航空部隊を裏で支えた」
(読売新聞1991年7月8日)
驚くべきことに、フライングタイガーズが東京や大阪の奇襲攻撃を計画していた
「作戦には350機のカーチス戦闘機と150機のロッキード・ハドソン長距離爆撃機が参加の予定で、うまくいけば(1941年)9月下旬には東京や大阪に大量の焼夷弾をばらまいて木と紙の日本の家屋を焼き尽くすはずだった。だが、「フライング・タイガース」が集結したビルマの英空軍基地には10月下旬になっても肝心の爆撃機は到着しなかったのである。(中略)需要の多い爆撃機はその年の暮れになっても届かず、41年12月7日の真珠湾攻撃で日米が開戦すると、中国大陸を経由した日本爆撃そのものがほごにされ、計画はやみに葬られた」
(産経新聞2000年7月15日)