沖縄タイムスが沖縄戦の特集記事を掲載するのは3末の「集団自決」の起きた時期、そして「屈辱の日」と言われる講和発効の4月7日前後、そして6月23にの慰霊の日前後と、大体スケジュールは決まっている。
病身を押して、一歩ずつ、前へ出る。集まった人たちが息をつめて見守る。視線の先に、87歳になる玉寄哲永さんの姿があった。
4月6日、ロシアのウクライナ侵攻に抗議して那覇市の県庁前で開かれた集会で、マイクを握った。10歳で戦場を逃げることを余儀なくされた沖縄戦を語り、呼びかけた。「侵攻に全国民が、全世界が一つになって反対するきっかけを大きくつくってまいりましょう」。侵攻に巻き込まれた住民に、かつての己が重なった。
◇ ◇
両親と弟の4人で暮らしていた。1944年10月10日に那覇市を襲った10・10空襲で、父が営む仕出屋は全焼。米軍上陸で日本軍から南へ避難するよう言われた。逃げ惑う毎日が始まった。
向かった先々で、嵐のような艦砲射撃と機銃掃射にさらされた。避難のために一緒に歩く人たちが米軍艦からの砲撃で一人、また一人と倒れていった。道に折り重なる遺体の腐臭が鼻にしみつき、離れない。
住民を守るはずの日本軍は命をおびやかす存在になっていた。日中の攻撃を避けて徹夜で掘った壕は翌朝、兵士に銃剣を地面に突き立てて脅され、奪われた。
食べ物がなく飢えに苦しむなか、母が頭の上半分がない日本兵の背嚢(はいのう)から、靴下に入った米を見つけた。衰弱した弟のために鍋で炊いたかゆは、軍刀を抜き放ち切りかかってきた将校に取り上げられた。軍服の上から浴衣を着て、住民を装っているように見えた。「貴様らこれ使え」。代わりに手りゅう弾を渡された。
★
時期外れの戦争記事が一面トップを飾っている。
一体何にコジツケた記事だろう。
不審に思っていたらウクライナ戦争での住民虐殺と沖縄戦を強引に重ね合わせ記事と知り納得した。
しかし、戦後77年も経過してよくもこのような裏付けのない記事で一面記事を飾れる沖縄タイムスには呆れかえる。この記事のように日本兵の名前さえ特定しなければ、「極悪非道な日本兵」を表現するにはどんな作り話でも書き放題というわけだ。
15年前の記事を拾ってみよう。
沖縄タイムス2007年7月7日の1面、社会面でこのような記事が掲載された。
見出しは、こうだ。
隊長「死になさい」
<軍命ない限り悲劇おこらぬ>
座間味体験者、切々
結局これが誤報だったというから驚きだ。
しかもこの誤報の訂正記事が小さなベタ記事で、よっぽどで無いと気がつかない。
こうなると、沖縄タイムスの確信的犯行と思わざるを得ない。
念のため上記見出しの該当記事を下記に引用する。
《「軍の命令がない限りは、日本兵が入ってこなければ、そんなこと(『集団自決』)はなかった」。6日、県議会文教厚生委員会(前島明夫委員長)の聞き取り調査に応じた座間味村の「集団自決(強制集団死)」体験者6人は、それぞれの体験を率直に証言した。聞き取るのがやっとの小さな声で話したり、じっとうつむいたり。語り、向き合うにはつら過ぎる62年前の記憶を口にしたのは、「教科書からの軍関与削除は絶対に許せない」との思いを伝えるためだった。》《吉田春子さん(81)は1945年3月25日、妹を連れて日本兵がいる壕に避難した。翌26日になり壕が米軍に攻撃され、夜になったら脱出しようと相談し、その夜に玉砕命令を聞いた。だが「母と会うまでは死ねない」と逃げだし、助かった。》
《当時25歳だった大城澄江さん(87)は座間味島への米軍の艦砲射撃が始まり、友人4人と避難中、壕内で「忠孝碑の前に集まれ」との声を聞いた。一度は忠孝碑の前に行ったが、その後、逃げ回っている途中で日本軍に遭遇、手りゅう弾を渡された。逃げ場を失い、自決しようとしたが爆発せず、生き延びた。》 《上洲幸子さん(84)は母ら4人と壕に避難。母は殺ソ剤での自死を主張したが、上洲さんが「逃げられるうちは逃げよう」と訴え、島内を歩き回った。ため池近くに村民や日本兵がおり、梅沢裕部隊長の姿もあった。梅沢部隊長は村民を集め「米軍は上陸して、どこにでも入り込んでくるから、もし敵に見つかったら舌をかみ切って死になさい」と話したという。》(沖縄タイムス2007年7月7日)
沖縄タイムス編著『鉄の暴風』では、梅澤隊長は「不明死」させられたが、上記記事の時はご存命であり、デタラメな記事は抗議して訂正させている。
だが、沖縄タイムスの「梅沢部隊長は・・・もし敵に見つかったら舌をかみ切って死になさい」の記事は朝日新聞に引用され、訂正されずにそのまま放置されている。悪質な「情報ロンダリング」と言わざるを得ない。
■デタラメな新報コラム
日本兵の名前さえ特定しなければ、どんな捏造記事を書いても構わないという例は他にもある。
2013年6月12日付琉球新報の次のコラムもその類のいい加減な証言があたかも真実であるかのように語られている。
< 自然壕の暗闇の中、赤ん坊が次々に泣き出した。「黙らせろ」。敵に居場所を知られるのを恐れた日本兵が怒鳴った次の瞬間、銃声が響いた。7歳ほどの少女が前へ崩れ落ちた ▼糸満市の仲松庸全さんが沖縄戦で目撃した日本兵による少女銃殺の場面だ。「軍隊は住民を守らない。それどころか住民を殺害したり、死に追いやったりした」。体験から得た最大の教訓という 。 > (2013年6月12日付琉球新報)
上記コラムの事例が嘘である証拠は、米兵の目を恐れる日本兵が赤ん坊の泣き声は気にするが、射殺した銃声が米兵の耳に入るのを気にしていない。 これなどは戦争体験者の証言ではよくでてくる矛盾であり、誰もが気がつく嘘の証言である。
証言者の名前を記すと全てが真実のように受取られがちだが、よく読み返すと嘘は自ずと矛盾が露呈してくる。
壕に潜んでいた母親が、赤ん坊の泣き声が気になり、湿ったオムツを赤ん坊の口に当てて窒息させたと言う悲惨な話は今でも密かに語られている。
それが新聞などで証言となって公開されると、そこに「残虐非道な日本兵」が介在し、「日本兵によって殺された」という話に変化していく。
わが子を自分の手にかけた贖罪意識のある母親としては、せめて「残虐非道な日本兵に殺された」とでも証言しなければやりきれなかったのだろう。 だが、この場合日本兵の名前が特定されていないからまだ救える話だ。
だが、自決命令を下して住民を集団自決に追いやったのは、「赤松、梅澤両隊長だった」などと名前を特定されたのが慶良間島集団自決の悲劇である。 そして名前を特定した理由が、当時の厚生省役人の漏らした「軍命があったなら集団自決の遺族も援護法の適用が可能」というひと言だという。
以後「軍命による集団自決」が集団自決のあった座間味村役場の公式見解になる。座間味島村の援護係宮村広延は援護金の支給で何度も当時の厚生省と交渉し援護金支給に貢献したして村役場から表彰を受けている。
■「援護法」が作り上げた極悪人
本来なら軍人の遺族にしか適用できない「援護法」を、軍属でもない集団自決の遺族に適用するための「拡大解釈」という厚生省の善意。 それが、仇となって2人の軍人に「集団自決を命じた極悪人」という汚名を着せることになる。 歴史の皮肉である。 上原正稔さんの琉球新報を相手取った戦いの目的は、不当に汚名を着せられた梅澤、赤松両隊長の汚名返上にある。
■戦争にもルールがある、
冒頭に引用した玉寄哲永氏のコメントは日本兵に対する憎悪を剥き出しにして『鉄の暴風』が主張する日本兵=残虐非道という構図を表している。
だが「戦争にもルールがある」という事実を沖縄タイムスは知らないようだ。
●戦時国際法ではどんなことが定められている?
国際法のひとつである戦時国際法は、戦争状態であってもあらゆる軍事組織が遵守すべき義務を明文化したものです。
戦時国際法と呼ばれるものとしてハーグ陸戦法規やジュネーヴ条約などがあり、代表的なルールとして以下の8つがあります(条約締結国だけに適用されるものもあります。)。
⑴ 軍事目標以外への攻撃禁止(降伏者、負傷者、民間人等の攻撃禁止)
⑵ 休戦旗を揚げながら戦闘する行為
⑶ 遭難信号を不正に発信する行為
⑶ 赤十字旗を揚げながらの軍事行動
⑷ 軍事的必要性を超える無差別な破壊・殺戮
⑸ 捕虜虐待の禁止
⑹ 対人地雷使用の制限
⑺ 化学生物兵器使用の制限
⑻ 開戦に先立つ宣戦布告義務
個々の法規違反の解説は省略するが、米軍が1944年10月10日に那覇市を空爆したことは、紛れもなく(1)の民間人への攻撃禁止に相当する。
さらにアメリカ軍は1945年3月10日の東京空襲や、8月6日に広島に原爆を投下した。広島の街は一瞬で破壊され、広島では10万人をこえる民間人が亡くなった。9日には長崎に原子爆弾が落とされ、8万人ほどの民間人が亡くなった。
これ等の例は、誤爆による民間人虐殺ではない。
確信犯的ジェノサイドだ。
これ等は全て、すべて戦時国際法違反の民間人の大量虐殺に相当する。