
[ボーダーレス 伊江島の78年](2)渡嘉敷の惨劇 強制移住先で虐殺被害 日本軍からスパイ容疑
米軍は沖縄戦で伊江島を攻略すると、日本本土攻撃の拠点に使うため全住民を島外に追い出した。激烈な戦闘を生き延びた住民は、米軍の船で運ばれた慶良間諸島で、今度は日本軍の敗残兵に直面した。
安里正春さん(84)は渡嘉敷島で、姉安子さんを失った。山中にこもる赤松嘉次大尉の部隊に投降を勧告するため、米軍が伊江島住民の男女6人を派遣した。安子さんも選ばれてしまった。
赤松隊は6人に理不尽なスパイ容疑をかけて虐殺した。最期についてはいろんな証言があり、どれが本当か分からない。どれも、むごいものだ。
安子さんが「親に一言も言わないで来た。せめてお母さんに会わせて」と哀願するのを兵士が「あの世に行って会え」と切り捨てた、「助けて」と叫んで逃げる安子さんを日本刀を持った兵士が追いかけた、木に縛られて白骨化していた-。安子さんが家族の元に帰れなかった事実だけは変わらない。
窮乏していた赤松隊は夜陰に乗じて下山し、安里さんの父正江さんに「娘さんを預かっている。毛布を持たせてください」などと物資をせびった。「元気で生きている」とうそを聞かされ、正江さんは娘を殺した赤松隊に着物を持たせた。
島で集団自決(強制集団死)を引き起こし、さらに住民や朝鮮人軍夫十数人を直接虐殺した赤松隊は1945年8月、ようやく投降した。赤松大尉の姿を見た正江さんは、殴りかかろうとして米軍に制止された。「裁判にかけるから」と言われ、思いとどまった。
25年後、赤松大尉が渡嘉敷島の慰霊祭に参加するため来県した。新聞を読んだ安里さんがそのことを伝えると、正江さんはじっと下を見て言葉を絞り出した。「まだ生きていたのか。戦争犯罪人として処刑されたと思っていた」。日本復帰にも「日本人は野蛮だ」と言って反対した。
母マサさんは夜、「安子、なぜ早く迎えに来ないか」などとうなされた。病気がちで心労も重なり、50代前半で亡くなった。
45年に伊江島から移住させられたのは渡嘉敷島へ約1700人、慶留間島(座間味村)へ約400人の合わせて約2100人。山を下りた元々の住民と合わせて6700人分を養う食料は島々になく、米軍の配給も全く足りなかった。
慶良間諸島の住民は米軍宛ての陳情で訴えた。「老人、小児は殆(ほとん)ど栄養不良に陥り、近時余病を併発し多数の死者を見るに至れり」。配給と、伊江島住民の島外移転を求めた。(編集委員・阿部岳)
(写図説明)1945年に米軍が渡嘉敷村で撮影した民間人の写真(県公文書館所蔵)
軍に救われた金城重明氏
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『WILL』増刊号掲載のジャーナリスト鴨野守氏の渾身のレポート
「村民多数を手にかけた『悲劇の証人』金城牧師」
を、当日記で一部紹介したところ、
当日記コメント欄を含むネット上に、「軍命あり派」のヒステリックな反応が見られた。
世界日報に6月から7月にかけて掲載された鴨野氏の
「沖縄戦『集団自決』から63年 第3部 真実の攻防」
の記事の中から何編かを当日記で紹介したら、
これも同じく反対派から異常な反応があった。
地元紙が黙殺する「不都合な真実」を取材すると、
それを「人格攻撃」というらしい。
痛いところを突かれて動揺する「軍命あり派」の様子が垣間見れた興味深かった。
「真実の攻防 第3部」は、
「Viewpoint 2008 August」として発売されているので是非読んでほしいのだが、
その中から前記「WILL」記事の金城重明氏に関連する部分を一部引用で紹介したい。
両親や兄弟、そして村民多数を殺害した金城兄弟は、敵に切り込みをかけて死のうと敵陣に向かう。
ところが、彼らがその途中で目撃したのは「全滅したと思った日本軍だった」という。
「その時の衝撃は計り知れないものがあった。『なぜ自分達だけが、こんなむごい目にあわなければならないのだ』と、腹の底から憤りと不信感こみあげてくるのを禁じえなかった」(「WILL」記事より)
金城氏が主張し続けるように、実際に軍が住民に自決命令で地獄を味あわしておきながら、
自分たちだけのうのうと生きているのなら、
金城氏の憤りも不信感も理解できる。
だが、その後の彼のとった行動は、とても同一人物の行動とは思えない。
昨年9月10日那覇の出張法廷で証人として証言台に立った金城氏は、憤りと不信感を表したはずの日本軍に、傷の手当てを受けていたのである。
<証人の金城氏は、集団自決後、米軍の迫撃砲で負傷した。その傷は軽いものではなく、傷跡に指が四本も入るほどのケガだったという。その後、赤松嘉次隊長と遭遇。 直接、隊長と言葉を交わしているのである。 法廷で金城氏はそのときの様子をこう証言している。 「軍の医療班のところへちょいちょい通って消毒、絆創膏(ばんそうこう)だけです。 薬は無かった。 それでたまたま赤松さんに会ったら、渡嘉志久に行けば薬はあるはずだよと。 そして、確認の意味で言ったけれども、ああ渡嘉志久に行けば薬はありますかと。 隊長から、権威ある者の発言はもう一回で十分だといわんばかりに叱られた」 この発言は重要だ。つまり、金城氏の傷は軽症ではなかったので、日本軍の医療班を訪ねた。 ちょいちょい通ったが、医療班からは消毒や絆創膏を張ってもらっただけだという金城氏。 こうした傷の手当ての場合、一日に何度も行くわけではない。 毎日、日本軍の医療班のある所に通って消毒してもらい、絆創膏を張ってもらったのだろう。 負傷して何日かの或る日、赤松隊長は金城少年を見て、「渡嘉志久に行けば薬はあるはずだ」と助言している。 この証言は結局、明らかに赤松氏が住民に自決命令なるものを発していないというものだ。(略)
金城重明氏は法廷証言を通じて、「赤松氏の自決命令はなかった」という証人であることを浮き彫りにした。 被告の大江健三郎氏・岩波書店に勝訴判決を出した深み敏正裁判長が、判決文の中で金城証言に言及しなかったのは、そのためでないかと思えて仕方がない。>(「Viewpoint August 2008」よりー太字強調は引用者)
「真実の攻防 沖縄戦「集団自決」から63年 3部」を収録した
「Viewpoint August 2008」には、
沖縄県にも大いに関係のある「中台貿易の最前線ルポ」も掲載されており、
特に沖縄県民には目からウロコの必読の一冊です。(定価500円)
★
『WILL』増刊号掲載のジャーナリスト鴨野守氏の渾身のレポート
「村民多数を手にかけた『悲劇の証人』金城牧師」
を、当日記で一部紹介したところ、
当日記コメント欄を含むネット上に、「軍命あり派」のヒステリックな反応が見られた。
世界日報に6月から7月にかけて掲載された鴨野氏の
「沖縄戦『集団自決』から63年 第3部 真実の攻防」
の記事の中から何編かを当日記で紹介したら、
これも同じく反対派から異常な反応があった。
地元紙が黙殺する「不都合な真実」を取材すると、
それを「人格攻撃」というらしい。
痛いところを突かれて動揺する「軍命あり派」の様子が垣間見れた興味深かった。
「真実の攻防 第3部」は、
「Viewpoint 2008 August」として発売されているので是非読んでほしいのだが、
その中から前記「WILL」記事の金城重明氏に関連する部分を一部引用で紹介したい。
両親や兄弟、そして村民多数を殺害した金城兄弟は、敵に切り込みをかけて死のうと敵陣に向かう。
ところが、彼らがその途中で目撃したのは「全滅したと思った日本軍だった」という。
「その時の衝撃は計り知れないものがあった。『なぜ自分達だけが、こんなむごい目にあわなければならないのだ』と、腹の底から憤りと不信感こみあげてくるのを禁じえなかった」(「WILL」記事より)
金城氏が主張し続けるように、実際に軍が住民に自決命令で地獄を味あわしておきながら、
自分たちだけのうのうと生きているのなら、
金城氏の憤りも不信感も理解できる。
だが、その後の彼のとった行動は、とても同一人物の行動とは思えない。
昨年9月10日那覇の出張法廷で証人として証言台に立った金城氏は、憤りと不信感を表したはずの日本軍に、傷の手当てを受けていたのである。
<証人の金城氏は、集団自決後、米軍の迫撃砲で負傷した。その傷は軽いものではなく、傷跡に指が四本も入るほどのケガだったという。その後、赤松嘉次隊長と遭遇。 直接、隊長と言葉を交わしているのである。 法廷で金城氏はそのときの様子をこう証言している。 「軍の医療班のところへちょいちょい通って消毒、絆創膏(ばんそうこう)だけです。 薬は無かった。 それでたまたま赤松さんに会ったら、渡嘉志久に行けば薬はあるはずだよと。 そして、確認の意味で言ったけれども、ああ渡嘉志久に行けば薬はありますかと。 隊長から、権威ある者の発言はもう一回で十分だといわんばかりに叱られた」 この発言は重要だ。つまり、金城氏の傷は軽症ではなかったので、日本軍の医療班を訪ねた。 ちょいちょい通ったが、医療班からは消毒や絆創膏を張ってもらっただけだという金城氏。 こうした傷の手当ての場合、一日に何度も行くわけではない。 毎日、日本軍の医療班のある所に通って消毒してもらい、絆創膏を張ってもらったのだろう。 負傷して何日かの或る日、赤松隊長は金城少年を見て、「渡嘉志久に行けば薬はあるはずだ」と助言している。 この証言は結局、明らかに赤松氏が住民に自決命令なるものを発していないというものだ。(略)
金城重明氏は法廷証言を通じて、「赤松氏の自決命令はなかった」という証人であることを浮き彫りにした。 被告の大江健三郎氏・岩波書店に勝訴判決を出した深み敏正裁判長が、判決文の中で金城証言に言及しなかったのは、そのためでないかと思えて仕方がない。>(「Viewpoint August 2008」よりー太字強調は引用者)
「真実の攻防 沖縄戦「集団自決」から63年 3部」を収録した
「Viewpoint August 2008」には、
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沖縄戦・渡嘉敷島「集団自決」の真実―日本軍の住民自決命令はなかった! (ワックBUNKO) 曽野 綾子 ワック このアイテムの詳細を見る |
沖縄戦中、渡嘉敷・座間味両島で起きた「集団自決」(強制集団死)をめぐり、岩波新書「沖縄ノート」などで日本軍の隊長命令だったと記述され、名誉を傷つけられたとして、戦隊長だった梅澤裕氏(90)らが岩波書店と作家の大江健三郎氏に出版差し止めなどを求めている訴訟で、大阪地裁(深見敏正裁判長)は10日午後、福岡高裁那覇支部で所在尋問(出張法廷)を行った。渡嘉敷島で「集団自決」を体験し、生き延びた金城重明沖縄キリスト教短期大学名誉教授(78)が岩波側の証人として出廷。「(島に駐留していた)赤松嘉次隊長が指揮する軍の命令なしに『集団自決』は起こり得なかった」として、日本軍の強制を証言した。
金城さんは約2時間、原告・被告双方の代理人の尋問に答えた。法廷は非公開で、終了後に双方の代理人が会見し、証言内容を明らかにした。
渡嘉敷島では米軍上陸翌日の1945年3月28日に「集団自決」が起き、住民329人が命を落とした。当時16歳だった金城さんも母と妹、弟を手にかけた。 軍の命令で陣地近くに集められていた金城さんら住民の下に軍の自決命令が出たようだとの話が伝わり、村長の「天皇陛下万歳」の号令で「集団自決」を始めたと具体的に証言した。
「『天皇―』は玉砕の掛け声。村長が独断で自決を命じるなどあり得ず、軍命が出たということ」とし「集団自決」の直接の引き金に軍の強制があったと明言した。
金城さんは家族を手にかけた時の気持ちについて、「米軍が上陸し、(惨殺されるかもしれないという思いで)生きていることが非常な恐怖で、愛するがゆえに殺した」と語った。
金城さんは、高校日本史教科書から「集団自決」について軍の強制の記述を削除した3月の文部科学省の教科書検定に対しては、「多くの体験者が軍命や軍の強制を証言してきた。戦争の残酷な部分を隠ぺいする文科省の責任は大きい」と批判した。
岩波側の代理人は会見で「体験者しか話せない実相を述べ、軍命があったと考えていることもはっきり証言された」として、軍の強制についての立証ができたとの認識を示した。
原告代理人は会見で「村長が自決命令を出すはずはなく、軍命だったという金城氏の証言は推論にすぎない」などとして「金城氏は集団自決の隊長命令を語る証人として資格がないことがはっきりした」と述べた。
(琉球新報 9/11 9:38)
◇
上記ウェブサイト記事を見る限り、琉球新報は集団自決に「軍命は無かった」と、やっと気がついたような印象の記事だが、実際の朝刊は相変わらずの「軍命はあった」の印象操作記事であふれている。
金城氏「軍命出た」
「村長独断あり得ず」
「強制」具体的に証言
9段を使った一面トップ記事の見出しである。
1面と26面、そして社会面の27面の大部分を使った琉球新報のキャンペーン記事にも関わらず、金城重明氏の出張尋問では何ら新しい証言は出なかった。
それどころか、新報の大見出しとは裏腹に集団自決は軍の命令ではなく家族への愛のためだったと「本心」を吐露してしまったのだ。
≪金城さんは家族を手にかけた時の気持ちについて、「米軍が上陸し、(惨殺されるかもしれないという思いで)生きていることが非常な恐怖で、愛するがゆえに殺した」と語った。≫
*
■軍命令はすべて推論■
軍命令をにおわす証言については、金城氏はこれまでいろんな場面で証言しており、それが62年も経った今頃になって新しい証言が出たらかえって信憑性を疑われるだろう。
ただ、新しいといえば吉川勇助氏の証言を法廷で自分の証言の「軍命令あり」の推論の補強に使ったぐらいだろう。
結局、金城証言のどこを見ても「軍命があった」という「体験者」としての証言は無い。
琉球新報が「軍命あり」と断定する部分は次の点だろう。
①村長が音頭を取った「天皇陛下万歳」とは玉砕の掛け声。 村長が独断で自決命令を出すのはありえず、軍から命令が出たということ。
②村長が「天皇陛下万歳」唱える前、軍の陣地から伝令の防衛隊員が来て、村長の耳元で何かを伝えたとの事だが、軍の命令が伝えられ、村長が号令を書けたことが分かった。
③軍から手りゅう弾が配られた。
>村長が独断で自決命令を出すのはありえず、軍から命令が出たということ。
「Aが○○をすることはあり得ないから、Bがやったに違いない」。
これは原告弁護団がいみじくも言うように金城氏の「推論」であり、彼の証言は「悲惨な体験」の証言者としては価値があっても、
「金城氏は集団自決隊長命令を語る証人として資格が無いことがはっきりした。」
■伝聞の又伝聞■
>村長の耳元で何かを伝えたとの事だが、軍の命令が伝えられ、村長が号令を書けたことが分かった。
結局金城氏は軍の命令を直接聞いていないが、他人の伝聞、それも「耳打ちしたのを見た」であり、耳内の内容を聞いたわけでも無い伝聞のその又伝聞を自分の「推論」の補強にしているに過ぎない。
推論が推論を呼ぶともはや法廷の証言者としては欠格であり、文学の世界では興味深い逸話でもいたずらに法廷を混乱させるだけである。
おまけにその耳内を目撃した吉川勇助氏の証言によると、耳打ちの最中にすさまじい迫撃砲や艦砲射撃の爆発音も聞いている。
その伝聞の伝聞さえ爆音で消されているのである。
≪不意に軍の陣地方向から現れた防衛隊員が、村長に何かを耳打ちしているのに気付いた。迫撃砲や艦砲射撃のすさまじい音と爆発の音、防衛隊員が村長に何を伝えたか、勇助の所までは聞こえない。≫。(9)防衛隊員、耳打ち「それが軍命だった」
このような状況での「耳打ち」を目撃した吉川証言に頼らざるを得ないほど金城氏は「隊長軍命令」を語るには不適格なのである。
■真実の吐露■
先日行われた「沖縄戦『集団自決』の真実を探る」と題するフォーラムでジャーナリストの鴨野守氏が次のようなことを語ったのをふと思い出した。
「集団自決の生き残りという人がいろんな証言をしているが、出来ることならジャーナリストとして集団自決で死んだ人たちの胸の内を聞いてみたい」
なるほど、いろんな沖縄戦の体験者が連日新聞の特集欄を賑わしているが実際の集団自決の生き残りの証言は少ないし、ましてや生き残ることもかなわず死んでいった人々の胸の内を聞く事は誰も出来ない。
しかし生き残りの証言者たちは集団自決の生き残りではあっても実際には自決しなかった。
もし、軍の命令を主張するのなら彼らは「軍命違反」して生き残ったことになる。
軍命令違反は軍法会議か即処刑だろうが、それはさて置いても生き残った者に複雑な心理的葛藤が起きても不思議ではない。
本人の意識、無意識に関わらず証言には自分が手にかけた家族への贖罪の気持ち、音頭を取った村長としての自責の念など、これらが渾然一体となって微妙にその証言に影を落しても不思議ではない。
昨日のエントリーの宮平さんの「論壇」の次のくだりを思い起こしてほしい。
≪彼らの死は、生き残ることにより死よりつらい生き地獄が愛する肉親に降りかかることを恐れての行動であり、家族以外の何物でもなかったのだろうと考える。≫県民大会開催に反対する
金城氏は被告側証人として「軍命があった」を証言する筈だったのが自分が手をかけた家族のくだりになると「本心」を吐露して上記引用の宮平さんの意見を裏付ける証言をしている。
≪金城さんは家族を手にかけたときの気持ちについて、「米軍が上陸し,(惨殺されるかもしれないという思いで)生きていることが非常に恐怖で、愛するが故に殺した」と語った。≫(琉球新報一面)
この部分は新報記事の「金城氏の証言骨子」には何故か記載されていないが、計らずも金城氏は、
「集団自決は軍の命令や強制ではなく、家族への愛だった」
と、真実の証言をしてしまったのだ。
参考までに沖縄タイムスで金城氏の「家族に手をかけた」くだりを見ると、
「手をかけなければ、非人情という思いがあった」
と簡単に記するに留めている。戦隊長下の軍命証言/「集団自決」沖縄法廷
タイムスがあまり触れたくない金城氏のコメントは被告側にとっては致命的な「本音告白」だったのだろう。
金城氏の証言は被告側にとって思わぬ自殺点(オウンゴール)になってしまった。
◆
前稿で、那覇空港で繰り広げられた「赤松隊長vs渡嘉敷」の憎悪、というウソの構図を、空港に出迎えに来ていた玉井喜八渡嘉敷村長が、「赤松隊長が慰霊祭に参加できなかったのは残念だった。 村民と赤松隊員との信頼関係が出来たのは良かった」といった主旨の随想を寄稿した村内のミニコミ誌を紹介した。
同時に「手榴弾証言」で有名な富山眞順氏も別のミニコミ誌に、手記を寄稿していると書いた。
複数の知人からその手記を紹介して欲しいとの要望があった。その手記は次のエントリーで紹介済みであるが、同エントリーを一部編集して再掲する。
戦時中、渡嘉敷島や座間味島に駐屯していた旧軍人たちが、慰霊祭等の参加の為、島を訪れて島の人々と親しく交流する話はよく聞くが、これが地元の新聞で報じられることはない。
地元紙が報じるイメージとは、島を訪問した「残虐非道の旧軍人たち」に対して、村人たちが「人殺し!」「帰れ!」といった怒声を浴びせる憎悪のシーンであり、
このような対立構図があってこそ報道価値がある。
「住民と旧軍人の親しげな交流」など、間違っても記事になる話ではないのだ。
京都国体を見学に行った座間味の老人会グループが、ついでに旧軍人を訪ねて旧交を温めた話は以前に書いた。
『沖縄ノート』が伝えた住民による「赤松帰れ!」の情景の4年後の昭和59年に撮影された一枚の記念写真がある。
渡嘉敷港を背景に村民や地元の婦人たちに囲まれて、にこやかに記念撮影に収まるのは紛れも無く「憎むべき日本軍」のはずの元赤松隊一行である。
旧軍人と住民の暖かい交流を示す証拠写真である。
星雅彦氏は、1970年3月27日の渡嘉敷港でおそらくはこれと同じような光景を目撃して、「軍命はなかった」という確信を持ったのだろう。
◇
富山眞順氏は、老人クラブ記念誌の他にも手記を寄稿している。
マスコミの呪縛を解かれた富山氏のミニコミに託した「本音」を読み取ってみよう。
同手記は「続・悲劇を呼ぶ濃密な人間関係」で紹介したが,集団自決の翌日の富山氏と赤松隊長との関係を知る上で貴重な資料故、再度以下に引用する。
◇
富山眞順手記「元鰹節加工場敷地の顛末記」
渡嘉敷漁協創立90周年記念誌(平成5年4月発行) ※(29日)等()書きは挿入
略…元嘉豊丸組合当時の加工場は補助金により建築された建物で周囲はコンクリート流し込みで、屋根は赤瓦葺で頑丈な建物であったが今時大戦で鈴木部隊の食料米倉庫であったため白米を加工場一杯積み込んでいたのを米軍により食料と共に焼かれました。
私は村民玉砕の翌日(29日)、故赤松隊長の命令を受けて渡嘉敷港海岸の加工場に食料、特に白米を保管してあるから敵前線を突破して兵員200名を誘導して加工場にある白米を確保してこいと命じられた。赤松隊長は更に部隊の前方50m程度を隠密に先行してうまく誘導し成功させよと命令されたので夜の9時を期して出発した。誘導案内はイシッピ川の高淵までの命令であったので、そこへ来ると加工場の2ヶ所嘉豊丸、源三丸加工場は石炭火の如くお米が真っ赤に燃えている。記念運動場も飯盒炊事の後が燃えている。(略)
暫く休んでから、斥候長が私に「何か要望はないか」と問われたので「あります」といって、村民玉砕で乳飲み子の母親が戦死して、空腹で泣く子供達が居るので農協の倉庫に粉ミルクがあるだろうから運搬を協力してほしいと要望した。部隊の200名を呼んで粉ミルクを担ぎに行きました。ところがそこには粉ミルクどころか何一つなく、部隊に戻ったときはすでに夜明になっていた。(30日朝)
赤松部隊長の壕の正前に私の壕は古波蔵(吉川)勇助君とともに掘らされていた。壕にもどると赤松部隊長が起きたので、私は斥候の状況報告と拾った煙草やお菓子等を差し上げた。敵は退却したのかと喜んだ。
暫くすると赤松隊長に又呼ばれたので、何かまたあるのかと思った。隊長の基(下)に現役当時のようにきちんと申告して部隊編入になったのに何事かと思って伺いましたら、「昨夜は御苦労様、君が見てのとおり部隊は食うものはなんにもないので、家族と共に生活しながら部隊と村民との連絡要員をしてくれ」と云われたので故小嶺良吉兄、故小嶺信秀兄、故座間味忠一兄にも連絡して共に家族の元に帰りましたが、私は現役満期の除隊申告より感激は大きかった。
赤松部隊では村の先輩達が日夜奮闘しているのに自分は楽な立場でいいのかと思いました。赤松部隊長に部隊入隊編入を申告して隊員になったのに、部隊長より除隊命令された事は生涯の思い出として消えることはありません。…以下省略
◇
この手記(随想)が書かれた平成5年(1993年)は、「富山証言」(1990年)の三年後であるが、「自決を命じた旧軍人への憎悪」は少しも感じ取ることは出来ない。
いや、むしろ「鬼の赤松」が手榴弾による自決命令を出し、自決が実行された日(29日)の翌日(30日)にしては、この手記でも富山氏と赤松隊長との関係はいたって良好のようである。
富山氏と赤松隊長の関係は、後に(戦後45年経って)「富山証言」(手榴弾による自決命令説)をする関係とは到底信じることは出来ない。
やはり「富山証言」は戦後45年経って、ある目的を持った勢力に強制され、心ならずも証言させられたと言わざるを得ない。
なお後に吉川に改姓した役場職員は、沖縄タイムスのインタビューに答えて「耳打ち」するのを聞いて、「それが軍命だった」と細木数子もビックリの証言するのだから、富山証言もまだカワイイ部類に入るのかも知れない。
吉川勇助証言⇒(9)防衛隊員、耳打ち「それが軍命だった」
爆音の中で、耳打ちするのを傍で目撃し、(勿論、本人は聞こえない)それを「軍命だった」と言い当てるのだから、細木先生もビックリでしょう。
なお、戦後語り部として「軍命」を主張している吉川嘉勝氏は吉川勇氏の実弟。⇒(13)母「生きよう」脳裏に鮮明
更にこの二人の証言を取材した沖縄タイムスの謝花直美記者は、元渡嘉敷中学校長の吉川嘉勝氏の教え子であるというから、「軍命あり派」の人脈は濃密に繋がっている。
【おまけ】
原告準備書面(4)全文2006年9月1日
3 手榴弾配布=軍命令説の破綻
渡嘉敷島での《赤松命令説》について被告らが主張する軍命令の根拠は、詰まるところ、米軍上陸前の3月20日に手榴弾が配布されたという富山真順の証言に尽きるようである。
富山真順の証言が信用性に重大な疑問があり、その内容は真実であるとはいえないことは、既に原告準備書面(3)に主張したとおりである。そしてまた、仮に、それが真実だとしても、自決命令の根拠になりえないことも、そこで主張したとおりである。
被告大江健三郎と同じく、旧日本軍の残虐さを指弾し、終始沖縄の側にたつ姿勢を示してきた大江志及夫も、その著書『花栞の海辺から』(甲B36)に、手榴弾の配布があったことを前提にしながらも、「赤松隊長が『自決命令』をださなかったのはたぶん事実であろう。挺進戦隊長として出撃して死ぬつもりであった赤松隊長がくばることを命じたのかどうか、疑問がのこる。」とする。
同様に林博史もその著書『沖縄戦と民衆』(甲B37)のなかで、3月20日の手榴弾配布があったという富山証言を何の留保もなく鵜呑みしながらも、「なお、赤松隊長から自決せよという形の自決命令はだされていないと考えられる」としている。
米軍上陸前の手榴弾の配布が、仮にそれが事実であったとしても、《赤松命令説》の根拠となりえないことは、これらの著作の記述からも明らかである。
関連エントリー:
マスコミ演出の或る「情景」★本土風の名前
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