「旅に出たい…」と最近つくづく思う。
それも最低、数ヶ月という期間でなければダメなのだ。
長い旅は、それ自体が日常になり好奇心もなくなってくる
ものである。しかし、そこからがまた旅なのだと個人的に
は思っている。
観光することにも飽きてくると、基本的にやることがなくなる
のが旅行というものである。朝起きて朝食を食べると、「さて、
今日は何をしようか?」と考えを巡らせる。
もちろん街くらいは歩くが、特にすることもない毎日が延々と
続く日々は、なんだが退屈にも思えるが、この退屈さを自分の
中で越えた時、初めて日常となった旅を楽しめるようになる
ものなのだ。
基本的には時間だけは有り余っているわけで、すると当然、
歩く速度が遅くなる。ゆっくり歩けば、同じ街歩きでも視界
に入って来るものが異なってくるのだ。人々の顔や服装、働い
ている人の姿や家の作り、売られている食べ物など、些細な
ところにまで目が行くようになり、興味や疑問を覚えるように
なるのだ。
そうなるともう、訪れる街の数だけ新しい興味や疑問に触れる
ようになるわけで、ある意味、退屈知らずである。
しかし、そこは人間、毎日同じことの繰り返しでは、疲れて
しまうこともあるだろう。雨の日だってある。そんな時は、物
思いに耽るのだ。昔の出来事を思い出したりすることも一考で
ある。そうすることで、自分自身を見つめ直すこともできるだろう。
私などは、夜行バスの移動中、寝れない時などは良く過去の
出来事を思い出していたものである。また、そういう時間がある
意味とても好きだったこともあり、極力、移動だけは誰かとつる
まないよう、心がけたものである。
あとは、本と音楽があれば、2~3年なら楽しんで旅を続けられる
だろう。
インドでは晩年、家族に別れを告げ、サドゥーとなり旅を続け
ながら死に場所を求めるような行動をする人々がいる。
もちろん宗教的な意味合いを持つ行為だが、宗教的なことは
さておき、少ない年金を旅先で受け取りながら旅をし続け、最後に
自分の気に入ったところで死んでいくというのも、悪くないなと
思う今日この頃である。

それも最低、数ヶ月という期間でなければダメなのだ。
長い旅は、それ自体が日常になり好奇心もなくなってくる
ものである。しかし、そこからがまた旅なのだと個人的に
は思っている。
観光することにも飽きてくると、基本的にやることがなくなる
のが旅行というものである。朝起きて朝食を食べると、「さて、
今日は何をしようか?」と考えを巡らせる。
もちろん街くらいは歩くが、特にすることもない毎日が延々と
続く日々は、なんだが退屈にも思えるが、この退屈さを自分の
中で越えた時、初めて日常となった旅を楽しめるようになる
ものなのだ。
基本的には時間だけは有り余っているわけで、すると当然、
歩く速度が遅くなる。ゆっくり歩けば、同じ街歩きでも視界
に入って来るものが異なってくるのだ。人々の顔や服装、働い
ている人の姿や家の作り、売られている食べ物など、些細な
ところにまで目が行くようになり、興味や疑問を覚えるように
なるのだ。
そうなるともう、訪れる街の数だけ新しい興味や疑問に触れる
ようになるわけで、ある意味、退屈知らずである。
しかし、そこは人間、毎日同じことの繰り返しでは、疲れて
しまうこともあるだろう。雨の日だってある。そんな時は、物
思いに耽るのだ。昔の出来事を思い出したりすることも一考で
ある。そうすることで、自分自身を見つめ直すこともできるだろう。
私などは、夜行バスの移動中、寝れない時などは良く過去の
出来事を思い出していたものである。また、そういう時間がある
意味とても好きだったこともあり、極力、移動だけは誰かとつる
まないよう、心がけたものである。
あとは、本と音楽があれば、2~3年なら楽しんで旅を続けられる
だろう。
インドでは晩年、家族に別れを告げ、サドゥーとなり旅を続け
ながら死に場所を求めるような行動をする人々がいる。
もちろん宗教的な意味合いを持つ行為だが、宗教的なことは
さておき、少ない年金を旅先で受け取りながら旅をし続け、最後に
自分の気に入ったところで死んでいくというのも、悪くないなと
思う今日この頃である。
