京都市学校歴史博物館で開催されている「『京都盲唖院』発!障害のある子どもたちの教育の源流」を見る。
以下はこの企画展の内容(京都市学校歴史博物館のホームページより)
『京都盲唖院』発!障害のある子どもたちの教育の源流
平成20年1月18日(金)~4月14日(月)
障害のある人にも等しく教育の機会を準備し、発達を保障しようとする盲聾教育の創始者古河太四郎氏の願いは、今から約130年前の明治11年に、京都市中京区東洞院御池通上ルに日本初の「盲唖院」を開設させました。この志は現在、国内の各盲・聾学校など障害のある子どもたちの教育の源流となって受け継がれています。
学校歴史博物館の今回の企画展は、64校の番組小学校を明治2年に開校させた京都の町の特性とヒューマニズムを踏まえて、障害のある子どもへの教育に対する熱意と工夫を、主に明治期に盲唖院で使用された教具や資料をもとに伝えるものです。
なお、この企画展は、京都府立盲学校、聾学校の協力を得て、両校に遺されている明治初期からの盲唖院の資料を中心に展示するもので、「日本最古のオルガン」や「最初の凸型地球儀」、古河太四郎氏の情熱により作成された手勢座図など、展示品の多く(約130点)が京都府指定文化財に指定されている貴重なものです。
主な展示品
木刻凸字 明治時代 京都府立盲学校蔵
「発音起源図」 有馬考山 明治11(1878)年 京都府立聾学校蔵
「音唖手勢五十音字形手勢図」 有馬考山 明治12(1879)年 京都府立聾学校蔵
風琴(オルガン) 明治16(1883)年 文部省下賜 京都府立盲学校蔵
凸形京町図 明治12(1879)年頃 京都府立盲学校蔵
「京都市立盲唖院之図」 児玉兌三郎 明治30年代 京都府立盲学校蔵
「手算法略図」 有馬考山 明治11(1878)年 京都府立聾学校蔵
人体模型 明治時代 京都府立盲学校蔵
展示品総数 約150点(展示替も含む)
以下はこの企画展の内容(京都市学校歴史博物館のホームページより)
『京都盲唖院』発!障害のある子どもたちの教育の源流
平成20年1月18日(金)~4月14日(月)
障害のある人にも等しく教育の機会を準備し、発達を保障しようとする盲聾教育の創始者古河太四郎氏の願いは、今から約130年前の明治11年に、京都市中京区東洞院御池通上ルに日本初の「盲唖院」を開設させました。この志は現在、国内の各盲・聾学校など障害のある子どもたちの教育の源流となって受け継がれています。
学校歴史博物館の今回の企画展は、64校の番組小学校を明治2年に開校させた京都の町の特性とヒューマニズムを踏まえて、障害のある子どもへの教育に対する熱意と工夫を、主に明治期に盲唖院で使用された教具や資料をもとに伝えるものです。
なお、この企画展は、京都府立盲学校、聾学校の協力を得て、両校に遺されている明治初期からの盲唖院の資料を中心に展示するもので、「日本最古のオルガン」や「最初の凸型地球儀」、古河太四郎氏の情熱により作成された手勢座図など、展示品の多く(約130点)が京都府指定文化財に指定されている貴重なものです。
主な展示品
木刻凸字 明治時代 京都府立盲学校蔵
「発音起源図」 有馬考山 明治11(1878)年 京都府立聾学校蔵
「音唖手勢五十音字形手勢図」 有馬考山 明治12(1879)年 京都府立聾学校蔵
風琴(オルガン) 明治16(1883)年 文部省下賜 京都府立盲学校蔵
凸形京町図 明治12(1879)年頃 京都府立盲学校蔵
「京都市立盲唖院之図」 児玉兌三郎 明治30年代 京都府立盲学校蔵
「手算法略図」 有馬考山 明治11(1878)年 京都府立聾学校蔵
人体模型 明治時代 京都府立盲学校蔵
展示品総数 約150点(展示替も含む)
當道職屋敷跡。明石検校の屋敷からはじまったといわれる。今は、京都市立洛央小学校に石碑がある。
この當道職屋敷について調べていたら、京都の銘菓「八つ橋」との関係が分かった。八つ橋本店のホームページをみると、「八つ橋」の由来が、視覚障害者で検校職にあった八橋検校に由来するとのことである。以下は、その引用。
『聖護院八ツ橋総本店』(屋号は「玄鶴堂」)。
「玄」は、黒谷(京都東山の地名あるいは金戒光明寺の通称)の「黒」を、「鶴」は、鶴の鳴き声が琴の音色の似ていることから名付けられました。また「聖護院」は、地名(もしくは聖護院門跡の通称)で、「八ツ橋」は、人名の「八橋検校」に由来しております。
近世箏曲の開祖といわれる八橋検校が、慕う数多くの高弟・門弟たちに見守られて、貞享2年6月12日(1685年)亡くなり、黒谷金戒光明寺に葬られました。享年72才であったといわれております。その後、亡き師のご遺徳を偲び門弟たちが、続々絶え間なく墓参におとづれ続けましたが、歿後4年の元禄2年(1689年)黒谷参道の聖護院の森の茶店で、琴の形に似せた干菓子を、「八ツ橋」と名付けて発売するようになりました。これが「八ツ橋」の始まりといわれており、その場所が当社創業の地(現在の本店の場所)であります。
この當道職屋敷について調べていたら、京都の銘菓「八つ橋」との関係が分かった。八つ橋本店のホームページをみると、「八つ橋」の由来が、視覚障害者で検校職にあった八橋検校に由来するとのことである。以下は、その引用。
『聖護院八ツ橋総本店』(屋号は「玄鶴堂」)。
「玄」は、黒谷(京都東山の地名あるいは金戒光明寺の通称)の「黒」を、「鶴」は、鶴の鳴き声が琴の音色の似ていることから名付けられました。また「聖護院」は、地名(もしくは聖護院門跡の通称)で、「八ツ橋」は、人名の「八橋検校」に由来しております。
近世箏曲の開祖といわれる八橋検校が、慕う数多くの高弟・門弟たちに見守られて、貞享2年6月12日(1685年)亡くなり、黒谷金戒光明寺に葬られました。享年72才であったといわれております。その後、亡き師のご遺徳を偲び門弟たちが、続々絶え間なく墓参におとづれ続けましたが、歿後4年の元禄2年(1689年)黒谷参道の聖護院の森の茶店で、琴の形に似せた干菓子を、「八ツ橋」と名付けて発売するようになりました。これが「八ツ橋」の始まりといわれており、その場所が当社創業の地(現在の本店の場所)であります。