ちゃ~すが・タマ(冷や汗日記)

冷や汗かきかきの挨拶などを順次掲載

「希望」(高谷清)

2009年12月29日 23時01分56秒 | 生活教育
「特定非営利活動法人(NPO)きらら」の機関誌に高谷清先生が書かれた「希望」についてのエッセイがおくられてきた。「生活教育における希望」ということを考えてみる。

言葉にみる人間のこころ ②
希望
                             谷 清

 びわこ学園に在園しているほとんどの人は身体的に「ねたきり」の状態で、「理解力」も障害をうけている「重症心身障害」といわれる状態にある。しかし人数はごく少ないが、言葉で会話できる人もいる。先日、自分で動けない40代の車椅子の彼を押して散歩した。彼は知的障害も伴っているが、日常のことは理解できるしゆっくりとしゃべることができる。発音は聞きとりにくいが、慣れているので大体はわかる。車椅子を押していると、「じぶんのあしであるきたい」と訴えるように言った。
 一瞬、会話が途切れた。彼の「障害」を考えるとどうしても歩くことができない。私は「そうか、それはそうだね、歩きたいね」というのが精一杯であった。このような会話は他にもある、言葉がほとんど出ない人が「歌手になりたい」と声を絞りだす。まったく動けず「ねたきり」の状態の人が「結婚したい」と打ち明ける。
 語っているのは「希望」である。それらの希望はかなえることは、ほぼ無理である。では、どうしたらよいのだろうか。「希望」は未来に関することであり、「ねがいのぞむこと」である。「希」一字は「少ない、まれ」の意があり、「望」は「遠くを見る」意味である。「まれなことを未来に見ている」のである。
 しかし実現を「望んでいる」のは現在である。未来を望むことが、現在にあるというのが大事なのではないだろうか。その「望み」が実現するかどうかでなく、「希(まれ)」であり、実現できなくても、そのような「望」をもっているということ、そのことを話す人がいること、共感があること、そのことが「現在」を充実させるのではないかと思うのである。実現も大事であるが、その「希望」を語り、共感しあえるということが、今を生きる「希望」なのではないだろうかと、考えながら車椅子を押していた。(理事長)

重松清『十字架』(講談社)を読む

2009年12月29日 09時35分55秒 | 
重松清『十字架』(講談社)を読む

これは、中学生のいじめ自殺によって、背負ってしまったものを抱えながら、その後、青年になるまでを主人公の視点から描いたもの。
中学二年でいじめを苦に自殺した生徒の遺書に、4人の名前が書かれていた。その中で、「親友」として書かれていた主人公、あやまられた女生徒、その二人と自殺をした子どもの家族との関わりを描く。背負った重荷をどう受け止めて生きればよいのか、悩み、迷い、傷つき、別れ辿りながら青年として成長する姿を描く。

いけにえ
見殺し
級友
卒業
告白
別離
あのひと

重松の『疾走』は不幸な青年の物語だったが、それをすこし思い起こさせる。すこし「いやな」作品と思うのは、年をとって、青年の視点を共有できなくなったからなのか?