「特定非営利活動法人(NPO)きらら」の機関誌に高谷清先生が書かれた「希望」についてのエッセイがおくられてきた。「生活教育における希望」ということを考えてみる。
言葉にみる人間のこころ ②
希望
谷 清
びわこ学園に在園しているほとんどの人は身体的に「ねたきり」の状態で、「理解力」も障害をうけている「重症心身障害」といわれる状態にある。しかし人数はごく少ないが、言葉で会話できる人もいる。先日、自分で動けない40代の車椅子の彼を押して散歩した。彼は知的障害も伴っているが、日常のことは理解できるしゆっくりとしゃべることができる。発音は聞きとりにくいが、慣れているので大体はわかる。車椅子を押していると、「じぶんのあしであるきたい」と訴えるように言った。
一瞬、会話が途切れた。彼の「障害」を考えるとどうしても歩くことができない。私は「そうか、それはそうだね、歩きたいね」というのが精一杯であった。このような会話は他にもある、言葉がほとんど出ない人が「歌手になりたい」と声を絞りだす。まったく動けず「ねたきり」の状態の人が「結婚したい」と打ち明ける。
語っているのは「希望」である。それらの希望はかなえることは、ほぼ無理である。では、どうしたらよいのだろうか。「希望」は未来に関することであり、「ねがいのぞむこと」である。「希」一字は「少ない、まれ」の意があり、「望」は「遠くを見る」意味である。「まれなことを未来に見ている」のである。
しかし実現を「望んでいる」のは現在である。未来を望むことが、現在にあるというのが大事なのではないだろうか。その「望み」が実現するかどうかでなく、「希(まれ)」であり、実現できなくても、そのような「望」をもっているということ、そのことを話す人がいること、共感があること、そのことが「現在」を充実させるのではないかと思うのである。実現も大事であるが、その「希望」を語り、共感しあえるということが、今を生きる「希望」なのではないだろうかと、考えながら車椅子を押していた。(理事長)
言葉にみる人間のこころ ②
希望
谷 清
びわこ学園に在園しているほとんどの人は身体的に「ねたきり」の状態で、「理解力」も障害をうけている「重症心身障害」といわれる状態にある。しかし人数はごく少ないが、言葉で会話できる人もいる。先日、自分で動けない40代の車椅子の彼を押して散歩した。彼は知的障害も伴っているが、日常のことは理解できるしゆっくりとしゃべることができる。発音は聞きとりにくいが、慣れているので大体はわかる。車椅子を押していると、「じぶんのあしであるきたい」と訴えるように言った。
一瞬、会話が途切れた。彼の「障害」を考えるとどうしても歩くことができない。私は「そうか、それはそうだね、歩きたいね」というのが精一杯であった。このような会話は他にもある、言葉がほとんど出ない人が「歌手になりたい」と声を絞りだす。まったく動けず「ねたきり」の状態の人が「結婚したい」と打ち明ける。
語っているのは「希望」である。それらの希望はかなえることは、ほぼ無理である。では、どうしたらよいのだろうか。「希望」は未来に関することであり、「ねがいのぞむこと」である。「希」一字は「少ない、まれ」の意があり、「望」は「遠くを見る」意味である。「まれなことを未来に見ている」のである。
しかし実現を「望んでいる」のは現在である。未来を望むことが、現在にあるというのが大事なのではないだろうか。その「望み」が実現するかどうかでなく、「希(まれ)」であり、実現できなくても、そのような「望」をもっているということ、そのことを話す人がいること、共感があること、そのことが「現在」を充実させるのではないかと思うのである。実現も大事であるが、その「希望」を語り、共感しあえるということが、今を生きる「希望」なのではないだろうかと、考えながら車椅子を押していた。(理事長)