いまの学生さんたちの行動原理が分からない。そもそも、大学が変化しきった-自分としても腑に落ちないことが多い。
講義が成り立たない、崩れる現状の中、参加型やアクティブラーニングがもてはやされる。
竹内洋『教養主義の没落』(中公新書)は、大学を中心とした文化の変容をコンパクトにまとめている。
「一九七〇年前後まで、教養主義はキャンパスの規範文化であった。それは、そのまま社会人になったあとまで、常識としてゆきわたっていた。」
「人格形成」「社会」などは中軸となる概念だった。それが、「なに?」ということになったし、そもそも「読書で人格形成って?」「そんなに難しい本をなぜ読むの?」
そんな無邪気な問いが浴びせられるのである。
筆者は歴史社会学者であり、社会学的接近を行っているのだが、このような内容を思想として深めればもうすこし違ったものになるのかもしれない。
丸山真男、高橋克己、大江健三郎、石原慎太郎、岩波茂雄と岩波書店、吉本明、ビートたけしなどの言説が歴史に位置づけられている。
文化の分かち伝えの媒体が変化している。もう、本や読書ではないのだろう。そういえば、むかし、岩波から出されている論文であると云うことだけで、中央学会誌として権威を持った。もうそんな、論文の時代ではなくなってしまった。なをもって、業績というのか、文化の創造や蓄積というのか?
唐突に(しかし、筆者にとっては必然的に)前尾繁三郎がとりあげられ、その「大事なのは何を為さざるかであり、おこなわざるも勇だ」とのことばが紹介されているのが印象的である。
この本前に一回読んだことがあるかもしれない。読んでないかもしれない。
ぼけてしまった。
講義が成り立たない、崩れる現状の中、参加型やアクティブラーニングがもてはやされる。
竹内洋『教養主義の没落』(中公新書)は、大学を中心とした文化の変容をコンパクトにまとめている。
「一九七〇年前後まで、教養主義はキャンパスの規範文化であった。それは、そのまま社会人になったあとまで、常識としてゆきわたっていた。」
「人格形成」「社会」などは中軸となる概念だった。それが、「なに?」ということになったし、そもそも「読書で人格形成って?」「そんなに難しい本をなぜ読むの?」
そんな無邪気な問いが浴びせられるのである。
筆者は歴史社会学者であり、社会学的接近を行っているのだが、このような内容を思想として深めればもうすこし違ったものになるのかもしれない。
丸山真男、高橋克己、大江健三郎、石原慎太郎、岩波茂雄と岩波書店、吉本明、ビートたけしなどの言説が歴史に位置づけられている。
文化の分かち伝えの媒体が変化している。もう、本や読書ではないのだろう。そういえば、むかし、岩波から出されている論文であると云うことだけで、中央学会誌として権威を持った。もうそんな、論文の時代ではなくなってしまった。なをもって、業績というのか、文化の創造や蓄積というのか?
唐突に(しかし、筆者にとっては必然的に)前尾繁三郎がとりあげられ、その「大事なのは何を為さざるかであり、おこなわざるも勇だ」とのことばが紹介されているのが印象的である。
この本前に一回読んだことがあるかもしれない。読んでないかもしれない。
ぼけてしまった。