tetujin's blog

映画の「ネタバレの場合があります。健康のため、読み過ぎにご注意ください。」

世界で一番美味しい朝食を作る男 BILL GRANGER

2011-11-14 22:24:52 | 日記

 

世界一の朝食は、パラオのダイビング・クラブ、アンティロープのシェフであるエレナが作るアメリカン・ブレックファストだと固く信じているが、あまりにもローカル、かつ、個人的な意見なのでここでは折れておこう。
(ちなみに、パラオでは野良の鶏がその辺を闊歩していて、オーガニックな新鮮卵が簡単に手に入る)

ビル・グレンジャー。オーストラリア・メルボルンのパン屋兼肉屋さんの生まれ。
19歳の時にシドニーへ移住。ウェイターのアルバイトがきっかけで美術を学んでいた彼は食の世界へ。1993年、22歳の時、彼はシドニーのハーストに「bills」をオープン。1996年にはサリーヒルズ郊外近くにbills Surry Hillsを、2005年7月には、専属のバンドが生演奏を奏でるbills Woollahraをオープン。日本では七里ケ浜・横浜・お台場に。

実は、あまりにいろんな場所で活躍するシェフに対して、ちょっとした不信感を覚えていた。調理人であることをやめて、ビジネスマンになったのだ。当然のことながら、料理の味も落ちる・・・。
だが、飲食店とは、売れれば売れるほど、売上をあげることが難しくなる商売であることを教えてもらった。一生懸命、がんばっても、満席の繁盛店になればそれ以上の売り上げは望みようがなくなる。
その一方で、店の繁盛を手伝って一緒に働いている人たちの生活のことを考えると、人件費は上げざるを得ないだろう。人件費の増加分をなんとかしようととすると、料理の値段を上げるしかない。しかし、それに顧客が納得するだろうか。
・・・腕のいいスタッフに十分に報いるためには、2号店、3号店が必要なのだという。
人件費を浮かすため、外人アルバイターを動員して味を落とすか、腕のいい日本人スタッフで固めた超高級料理店で行くか、経営判断の分かれ目だ。食の現場は悩ましさがつきまとう。。

さて、そんなbillsの「オーガニックスクランブルエッグ」レシピ 

材料 (1人分)
卵(2個) バター(10g) 塩(少々) 生クリーム(90cc)

作り方
 (1) 卵を混ぜる際、「泡立て器」を使い空気を内部に入れるように溶く。
 (2) 細かい泡が立ったら生クリームを投入。さらに全体をよく混ぜる。
 (3) 熱したフライパンにバターをのばし塩をふりかける。バターに塩を入れる事で、
   塩辛さがマイルドになり卵の味がより強くなる。
 (4) 円を描くようにしながらフライパンを回す。卵の下の方が固まってきたら、
   その部分をゆっくりと木べらを使って20秒くらい混ぜれば完成。

「bills」 のスクランブルエッグの大事な "ポイント" は、「混ぜすぎない」 「触りすぎない」 ことらしい。
(・・・それでも世界一はエレナが作るパラオのブレックファストと思ってる)


ご訪問&最後まで読んでくださりありがとうございます。
お帰りの際、ひとつクリックお願いします。
お手数かけてすいません。
↓↓↓↓↓↓
にほんブログ村 写真ブログ スナップ写真へ
にほんブログ村


11月のしえと

2011-11-13 23:18:10 | 日記

  

最近のお気に入り〔伊藤園ベルガモット&オレンジティー〕。・・・美味いです、コレ(^-^)v
 ベルガモットとは、ミカン科の常緑低木樹の柑橘類でイタリア原産。柑橘系の香りだが、甘すぎず、軽くもなく重くもなく、それでいて印象深い不思議な香りだ。紅茶のアールグレイにはこのベルガモットが香りづけに使われている。

夜明け前の稲毛海岸から佐倉街道へ。房総半島横断。長距離走行の心地よい疲れを、しえとで頼んだアールグレイから立ちのぼるベルガモットのやさしい香りが癒してくれた。

ベルガモットは「イタリア原産」と書いたが、正確にはコロンブスがカナリア諸島で発見し、スペイン、イタリアに伝えたものだ。そのDNA解析の結果から、ダイダイとマンダリンオレンジの交雑種であると推定されている。

このベルガモットの香りが印象的な男性用のコロンに、「4711ポーチュガル」がある。「4711」製のコロンだ。
1792年、ミューレンス社の創始者ウィルヘルム・ミューレンスは、ファリナという名の修道士から婚礼祝いにアクア・ミラビリス(奇跡の水)のレシピを授かった。最初は風邪薬として服用されたりもしたが、悪臭が病気の原因との考えから、18世紀の人々の生活においては悪臭を遮断することが重要で、その目的にも用いられた。
1810年にナポレオンがすべての医薬品の処方の開示を求めた時、ウィルヘルム・ミューレンスはようやく内服用ではなく、外用に用いられるべきと宣言し、世界初のオーデコロン「4711ポーチュガル」の誕生と相成った。(http://www.mirabilis.ca/archives/001826.html
(・・・Cologneの語源って、なんとドイツの都市Kölnのフランス語読みだったんだ)

2007年からは、1845年創業の老舗化粧品・香水メーカー、モイラーウントヴィルツ社がミューレンス社より「4711」ブランドを託され、伝統的製法を守りつつ、製造を行っている。
このブランド名の「4711」は、ナポレオンによるフランス軍占領下に建物に付けられた番号に由来する。そして「ポーチュガル」は、大航海時代にヨーロッパにオレンジを伝えた「ポルトガル人」に由来する。

ポルトガル人とは、つまり、コロンブス。
コロンブスの出生にはいろんな説があるが、ジェノヴァ人共同体の助けを借りてリスボンへ移った彼は、「東方見聞録」にある黄金の国・ジパングに惹かれて西廻りでアジアに向かう夢をはぐくむ。
大航海時代かあ。savvy?
キャプテン・ジャック・スパロウもベルガモットの香りに酔っていたんだろうか。


ご訪問&最後まで読んでくださりありがとうございます。
お帰りの際、ひとつクリックお願いします。
お手数かけてすいません。
↓↓↓↓↓↓
にほんブログ村 写真ブログ スナップ写真へ
にほんブログ村


旅人とサーファー

2011-11-12 23:34:11 | プチ放浪 海沿い編
 
 

鴨川はサーファーが集まる町のひとつ。
冬の寒い時期でも、セミドライのウェットスーツを来たサーファーでにぎわう。

ビーチを横切る道路には、リゾートマンション。
房総鴨川の波は良いといわれ、波に魅了されて多くのサーファーがやってくる。
東京(都心部)まですぐに出れて、きれいな海とともに生活できるうえ、山、川、田畑もあり自給自足が無理なくできることから、都会からの移住者も多いようだ。
なにしろ、土地が安い。買えないっすけど・・・( ・ω・)ノ。

サーファーの町だけあって、サーファーのコミュニティがある。
「Olive」は、サーファーの溜まり場。
鴨川には、こうした店がいくつか存在する。
だが、町は全体的に静か。


ご訪問&最後まで読んでくださりありがとうございます。
お帰りの際、ひとつクリックお願いします。
お手数かけてすいません。
↓↓↓↓↓↓
にほんブログ村 写真ブログ スナップ写真へ
にほんブログ村


大山棚田 秋

2011-11-11 23:25:51 | プチ放浪 山道編
 
 

棚田の秋の収穫。
山あいの早朝はダウンが懐かしくなる。

持参してきたコンビニのスタバラテで、まだ眠っている脳に刺激を与え朝の散歩に出る。
田んぼの上の道を登り、棚田を上から見下ろす。

生い茂るススキ、朝もやのかかる山、朝日を反射するはさがけされた稲穂。

米の出来具合は良さそうな印象。
今年の秋も多くの農家の人の笑顔があふれそうだ。


ご訪問&最後まで読んでくださりありがとうございます。
お帰りの際、ひとつクリックお願いします。
お手数かけてすいません。
↓↓↓↓↓↓
にほんブログ村 写真ブログ スナップ写真へ
にほんブログ村
 


一ノ瀬泰造という青年

2011-11-10 22:14:44 | プチ放浪 都会編

 
 

1973年11月23日。クメール・ルージュが放った一発の弾丸が、捕虜として拘束した日本人の青年の頭を撃ちぬいた。青年はフリー・ジャーナリスト、一之瀬泰造。彼が26歳になったばかりの時だった。

1972年、内戦の激化するカンボジア。銃撃の飛び交う中、彼は愛用のニコンを携えてシャッターを押しつづけた。彼はロバート・キャパや沢田教一に憧れて戦場カメラマンを志し、激動のインドシナ半島を駆け巡るうち、やがて解放軍の“聖域”〈アンコール ワット〉を撮影することにとり憑かれてしまう。「うまく撮れたら、東京まで持って帰ります。もし、地雷を踏んだらサヨウナラ」
と書き残した彼が、最後に見たアンコール・ワットはどんな風に見えたのだろう。そして、彼はなぜアンコール・ワットを目指したのだろう。

彼が大学の恩師に宛てた手紙には
「アンコールにクメール・ルージュ、村人を撮ったら死んでもいいくらい、魅せられてしまったからです」
そう書かれている。

1970年、日本大学芸術学部写真学科卒業後、UPI通信社東京支局に勤務。翌1971年退社し、1972年1月、彼はバングラデシュに向けて日本を発つ。当初、インド、タイ経由でビザをとってベトナムに向かうつもりだった彼は、既に解放勢力側の支配下にあったアンコールワット遺跡への一番乗りを目ざし、1972年3月カンボジアに入国。シェムリアップに滞在するが、カンボジア政府軍との間にトラブルから国外退去へ。
1973年6月、ボクシングコーチという名目でカンボジアに再入国。また追い出されるも、1973年11月、韓国弾薬船でメコン河を遡る決死行に出て、カンボジアへ再々入国。そして、単身アンコールワットへ潜入し、そのまま消息不明に。
(1965年から1972年にかけて韓国では「ベトナム行きのバスに乗り遅れるな」をスローガンに官民挙げてのベトナム特需に群がり三星、現代、韓進、大宇などの財閥が誕生。韓国がアメリカ以外の国としては最大の兵力を投入し参戦した1965年以降、各地で韓国軍による戦争犯罪があった)

ぼくが一ノ瀬泰造を知ったのは、貫通した弾丸にえぐれたニコンでだ。衝撃的だった。
ベトナムのスアンロク近くで行われた作戦に従軍したとき彼が持っていたニコン。彼は、戦闘が中断したとき、水汲みにきた北側の兵士を見つけて写真を撮ろうとしたその瞬間に銃撃され、カメラは銃弾でもぎ取られた。
数センチ、数10センチ銃弾がずれれば、彼はカメラでなく自分の体に銃撃を受けていた。だが、彼は右手を負傷したもの、その後も一年以上も取材を続けている。
生命を賭けてまでも撮らなければならない「写真」。彼があこがれたロバート・キャパも地雷を踏んで命を落としている。

ベトナム、カンボジア、ラオスとインドシナの混乱期を取材したカメラマンは多いが、彼の写真は民衆に向けた優しい眼差しと言う点で特徴的だ。戦場という血なまぐさい舞台に立ちながら、アンコール・ワットと村人に魅せられ、まっしぐらに青春を駆け抜けた。彼が最後に見たであろうアンコール・ワットは、いまも変わりなくたたずみ、ぼくらにあの時代のカンボジアを思い起こさせる。

ぼくは、最近、カメラを持つのが怖くなってしまった。被写体に向かえば、狩猟本能のようにムラムラと写欲が湧き出してくるのだが、被写体に向き合うまでは、ぼくには写真が撮れるのかと不安でいたたまれなくなってしまう。


ご訪問&最後まで読んでくださりありがとうございます。
お帰りの際、ひとつクリックお願いします。
お手数かけてすいません。
↓↓↓↓↓↓
にほんブログ村 写真ブログ スナップ写真へ
にほんブログ村