映画評論家・今野雄二氏自殺の報に触れたとき、偶然にも以前に読んだ戸梶圭太の「自殺自由法」を再読していた。政府が自殺の自由を認めた世の中、お上公認の自殺幇助機関「自逝センター」と自殺を望むさまざまな人間の駆け引きを描いた小説だ。生命の尊厳を笑い飛ばすぶっ飛んだストーリーと残虐痛快な戸梶の文章は、ありえない世界ながらそこかしこで訴えかけてくるリアルさが癖になり、飽きない。戸梶作品を俗悪小説と決め付ける評論家も多いようだが、私としてはぜひ直木賞をあげたい作家の一人だ。
ともかく偶然にも自殺について考えていた最中の、訃報だっただけに驚いた。実は今野氏の存在すら忘れていた。一時期あれほどTVに出ていたのに、知らず知らずのうちに消えていた。自殺の理由など知る由もないし、あまり興味もわかないが、とにかくパク・ヨンハにしても、この春に死んだ友達にしても、見ず知らずの多くの自殺者にしても、死の一線を越えさせるパワーとは何かについては興味がある。
こうまで自殺者が多いと、どうも個々の動機の切実さとか重さだけではないような気がしてならない。どちらかというと俗にいう後追い自殺に近いような気がする。もちろん、根拠は何もない。ただ、何かに引っ張られる、押されるという見えない自殺幇助パワーが存在し、それがものすご勢いで膨らんでいる気がしてならないのだ。
それというのも、私自身、死の淵に引っ張られるという体験をしたことがあるからだ。それは、大学生の頃で、私の運転で友人らと三人で車を田舎の砂利道を走らせていたときだった。私が以前、別の友人が事故を起こした現場が近いことを思い出し、私は何気なく「あいつが事故ったのこのへんだよな」と言った。そのとき、まもなく、何かに引っ張られるようにハンドルが利かなくなり、なす術もなく路外に転落してしまった。土手は高さが3メートルほどで、車は横倒しで側溝に落ち半損したが、幸いにも怪我はなかった。単に砂利にハンドルを取られただけといったら、そうかもしれないが、実際にハンドルを握っていた私はそのときの不思議な感覚を今も忘れていない。一瞬、自分の意思と関係なくハンドルが引っ張られる感覚だったのだ。
もちろん、そのときに私は自殺願望はなく、その意味ではあまり例えにならない話かもしれないが、一線を越えるか越えないかは自分の意思とは別に何かのパワーが働いている気がしてならない。最近の自殺者の増加は、それだけ自殺願望が増大しているからだろうが、どうも一線を越えさせる見えないパワーが膨らんでいる気がしてならないのだ。