tnlabo’s blog   「付加価値」概念を基本に経済、経営、労働、環境等についての論評

人間が住む地球環境を、より豊かでより快適なものにするために付加価値をどう創りどう使うか。

忖度と諫言

2017年05月21日 12時12分05秒 | 社会
忖度と諫言
 先日も書きましたが「忖度」という言葉がはやります。そしてその使われ方は、あまり良い意味ではありません。長い物には巻かれろといったような意味で、事の是非を問わず、権力者おもねるという態度や行動として使われています。

 もともと忖度というのは「他人の気持ちを推し量ること」の意ですから、決して悪い意味の言葉ではありません。
 それが最近のような「忖度の行き過ぎ」のような使われ方ばかりになるというのは、言葉のせいではなく、人間の精神や行動が怠惰になり劣化して、事の是非を判断しようとしないからでしょう。
 「忖度」が泣いているかもしれません。

 では、忖度でない行動、いわば、最近の「行き過ぎた忖度」の反対語は何でしょうか。ピタリというわけではありませんが、それは「諫言」でしょう。
 目上の者が言うことでも、それが正しくないと判断すれば、「それを諫め、正す」ことです。

 今の社会では、諫言が流行らず、忖度がはやるというのは、下手すれば身の危険があることより、事なかれ主義を選ぶ、つまり、正しいか否かは目上の者に任せ、自分では判断しないという思考停止が一般的なっているということなのでしょう。

 これは大変恐ろしいことのように思います。
 民主主義というのは、一人一票が保障されていて、そうした主体性のある一人ひとりが投票して、その結果の多数で決めるというシステムです。

 その中で、判断を他人(目上の人)に委ねて、自分は判断しない、判断することから逃げる(E.フロム『自由からの逃走』)ような人が増えてくれば、民主主義は簡単に独裁制に変化します。

 こんなことは、本当は誰でも解っているはずです。しかし、ここまで「忖度」という言葉が「行き過ぎた忖度」という意味で使われなければならない世の中というのは、組織の中の人間が、自ら判断することに「より怠惰」になっているからでしょう。

 「諫言」という言葉がマスコミに載るような、健全な社会にするにはどうしたらいいのでしょうか。