被服廠
先日、全障研の大会が広島で開かれました。 日程などをきちんと把握してなくて、またまた関係者の方にご迷惑をおかけしましたが。
『木の葉のように焼かれて』の朗読を 手話通訳。
ここで出てきた 『被服廠』 手話ではどう表現してたのかと先輩にお尋ねしました。
被服廠は 正式には陸軍被服広島支部廠といい
1905年(明治38年)4月に陸軍被服廠広島出張所として開設された。同40年11月に支廠に昇格し、直ちに施設の拡充が行われた。現存する10 - 13番庫は1913年(大正2年)に竣工したものである。
被服廠が取り扱っていた品目は軍服や軍靴だけでなく、マント・下着類・帽子・手袋・靴下等の外、背嚢・飯盒・水筒・ふとん・毛布・石鹸・鋏・小刀・軍人手帳等の雑貨まで含まれていた。大正・昭和時代に入り戦線が拡大すると、武器や戦備の多様化に対応して防寒服・防暑服・航空隊用・落下傘部隊用・挺身隊用被服あるいは防毒用被服なども取り扱うようになった。これらの物品のうち、被服廠では軍服の縫製と軍靴の製造が主となり、その他の物品の製造については民間工場に依託され、被服廠では受発注業務・品質管理・貯蔵・配給業務を主として行っていた。
広島被服支廠は陸軍向けの軍服や軍靴の生産、被服類全般及び小物や雑貨の調達・貯蔵・配給を行う一方で、中国・四国・九州地区におけるこれらの物資を生産する民間工場の管理指導、国民の被服監督なども行っていた。1943年(昭和18年)後半になると米軍による空爆が行われるようになり、製造設備と貯蔵品の分散化が図られ、広島支廠の管轄下に倉敷出張所・児島作業所・宇品作業所が新設された。
私が学生のころにはその一部が大学の学生寮になっていました。 で、手話では どう表すかって?
広通研の機関紙『通信』9月号を こうご期待!