さてさて、土曜・日曜の 東京は 5年に一度という 牛島神社の祭りでした。
向島地区だけではなく、浅草や両国…ずいぶんと広い地域から神輿が次から次へと続きます。 そして路地路地には地域の神輿が待っています…。
こんなにたくさんあるのですから表現方法などもっと地区によって違ってもよさそうですが、全くと言っていいほど同じです。
違ったものは排除するというこの悪しき風習に乗っているのかもしれません。創造性がほしいなあ、まあこれを伝統という人もいるか…
そしてさりげなく 自民党の国会議員が神輿ごとにあいさつをします。決して先だっての議会では消費税のアップのために努力しました…なんてことは言わないでしょう…。(私は個人的には消費税そのものには反対していません)
そして今日は朝から鹿児島へ日帰りで行ってきました。往復の電車では宮本太郎さんの 『生活保障』を読み直しました。
この本の紹介は、次のようなブログでありました
宮本太郎『生活保障』(2009年岩波新書)を読む。この記事ではこの本の内容のまとめではなく、宮本太郎氏の著作への入門となるような、宮本氏の過去の発言の抜粋をしたいと思います。宮本太郎氏の著作は、前著である『福祉政治』(2008年)という本がよかったので、今回の新書も読んでみたのだが、この『生活保障』という本は、特に前半部分、内容が前著と重なっている部分が多い。 それでも内容は盛り沢山で、私には新書という小さなお弁当箱に、多すぎるメニューをぎゅうぎゅう詰め込んでいる感じがした。 それでも現状認識としては、著者の考え方がとても有効だと思うので、多くの人に読んでもらいたいと思う。私の経験では、先に前著の『福祉政治』を読んでからの方が、宮本太郎氏の考え方が理解しやすくなると思う。以前『福祉政治』を読んで、私は目からウロコが何枚も落ちた。日本は戦後、「雇用」を保証するという形で、うまく経済を回してきた。日本ではそれが「福祉」の代わりをしてきたのだが、最近うまくいかなくなってきた。なぜうまくいかなくなってきたのか。その現状を歴史を踏まえて描写する。スウェーデンは福祉国家で有名だけど、イメージとちがって実は「中小企業にきびしい」国で、生産性の高い分野に人員を集めて、効率の悪い中小企業は見捨てる、という方法を取っていた。だから単純に「弱者に優しい」国というわけではなく、それは国家としての戦略的なもの。だからスウェーデンを理想化する必要もないし、おとしめる必要もない。同じように過去の日本を理想化する必要もないし、おとしめる必要もない。もちろん日本にもいろいろと問題があって、それが今どんどん顕在化してきている。一方、過去の日本がやっていた「雇用」と「福祉」をうまく連動させるという方法も、ひとつの有効な考え方なのだから、なにも全否定する必要はなく、そこから現状に合ったプランを立てていくヒントを得ることが出来る。『福祉政治』という本には、おおむねこのようなスタンスが感じられ、考え方が極端にならない人で、この方は信頼できるな、と私は思った。また、『福祉政治』の後半部に「ライフポリティクス」という章があり、現代では、福祉や生活保障を考えるときに「再分配の政治」だけではなく、ライフスタイルの政治というもの、「承認の政治」というものも視野に入れておかなくてはいけない、という旨が明確に述べられていた。それを読んだ時私は、そこまで目が届いている人ならば、信頼してもよいのかな、と思った。ここでは宮本氏の過去の発言から少し長めに抜き出しておきたい。口語体だから、岩波新書の文章より、だいぶ読みやすいと思う。これで、宮本氏の基本的な考え方がなんとなくわかって頂けたらいいな、と思う。以下引用するのは、岩波ブックレットの『脱「貧困」への政治』(2009年)でパネルディスカッションで宮本太郎氏が発言したところです。宮本氏の著作をこれから読もうかな、と思っている人、また、『生活保障』を読んでみたけど、情報量が多すぎてちょっと頭が混乱した、という私のような方がいたら、その方も頭の中の整理として、どうぞ参考にしてくださいますよう。これまでの日本の福祉・雇用のしくみ、宮本太郎氏のベーシック・インカムに対するスタンスなど(以下、岩波ブックレット『脱「貧困」への政治』より引用)<宮本太郎> 日本型トリクルダウンのシステムが壊れてしまったということもあるのですが、日本型の制度がまだ中途半端なかたちで生き残っていて、むしろ周辺の人々を排除しているという面もあります。社会保障が排除の機能をもつ、ということです。経済学者の大沢真理さんの言い方を借りれば、「逆機能」になっている。どういうことか説明します。日本型の仕組みを私流に言い表すと次のようになります。まず、お父さんが大企業で働いていても、土建業のような中小企業で働いていても、その会社がつぶれないような仕組みがあった。つまり護送船団方式の行政指導とか公共事業などです。こうして、お父さんの所得が保障される。お母さんは家で家事と育児にがんばる。社会保障は、会社がもう面倒を見てくれなくなり家族も頼りきれなくなった、人生の後半部分の年金や遺族関係といったところに集中する。そういう仕組みだった。ご存じのように日本ではおよそ三分の一が非正規の労働者ですが、もっと非正規が多い国は存在します。オーストラリアやオランダなど。でも、正規・非正規の格差がここまで顕著なところはない。なぜならば、現在の非正規の労働条件は、もともとはお父さんの収入を補完するパートの主婦や学生のアルバイトを想定して出来てきたからです。男性稼ぎ主が稼ぐのが基本だった。ところが、申し上げたように社会保障が人生後半に集中しているから、住宅や教育、現役世代を支える保障が十分にない。だからその分、お母さんが家で家事や育児でがんばりつつもパートに出なければならなかった。けれども、税制あるいは年金制度、社会保険制度等からして、お母さんは稼ぎすぎてもだめだった。夫の扶養からはずされてしまうという「103万円の壁」、「130万円の壁」があった。だから日本では男性稼ぎ主を補完する低賃金の非正規の労働市場ができました。ところが、いまそのパートの労働市場が、家計を支える人たちの仕事に動員されてきているわけです。したがって非正規層の経済基盤は不安定で脆弱です。ところが、健康保険や雇用保険は従来の男性稼ぎ主を基準にしているから、ハードルが高くて、加入できない。切羽詰まったときに、現役世代を支える仕組みは、先ほど申しあげたように社会保障、公共サービスとも非常に貧困である。二重三重の排除構造です。では、どうするか。さっき湯浅さんが講演の中でお示しになったセーフティネットの三層構造、これは雇用が安定している男性稼ぎ主の所得が何らかの事情で中断したときに、それを社会保障で代替する、という制度です。ところがこれが現実と完全にずれてしまった。であるからこそ、雇用をよりしっかりしたものにしようと言っていくことも必要ですが、他方ではセーフティーネットのあり方そのものを変えていかなければいけない。安定した雇用を前提にした代替型から、十分でない賃金を様々なかたちで補完していく補完型への転換です。ベーシックインカムとまではいかなくても、給付付き税額控除とか負の所得税とか社会手当とか、いろいろ方法はあると思います。また社会保険の再設計も必要です。ライフ・ポリティクス、承認の政治、「生きる場」を支える政府(以下、岩波ブックレットの『脱「貧困」への政治』より引用)<宮本太郎> 私は「溜め」の問題を「生きる場」の解体の問題としてとらえています。2008年の大きな事件であった秋葉原の殺傷事件では、容疑者がいかに「生きる場」を失っていたかが明らかでした。だれかに認められたい、あるいは誰かに支えられたい、にもかかわらず、そういう環境を一切合財、失っていた。貧困はもちろん問題ですが、職場でも家庭でも「生きる場」があれば当面なんとかなる。ところが、ここが解体してしまうとどうしようもない。この点でひとつ申し上げておきたいのは、新自由主義が揺らいだだけに、今度は新保守主義というか、これからは市場ではなくてコミュニティだ、家族だという議論が出てきそうな気がしています。親父が家族をしっかりと支えて、皆が愛国心をもてばうまくいくのだと、そんな調子の議論がこれからも増えそうです。私はそれでは「生きる場」は守れないし、そんな単純な議論は保守主義の何も値しないように思います。コミュニティとか家族がいかに崩れやすいか、壊れやすいかということを分かったうえで、保守であってほしい。そこの理解がないと結局は「生きる場」が解体していくのを放置することになります。さっき「惰性としての新自由主義」でも「焼け太り型利益誘導」でもなく、「よい政府」をと言いましたけれども、そのひとつの物差しとして、「溜め」を増やしていく政府、「生きる場」を支える政府というのがあると思います。///以上、岩波ブックレット『脱「貧困」への政治』(2009年)より引用でした。///関連記事:子どもが泣き止まない-ハローワークにて 2009年12月08日関連記事:宮本太郎氏の「官僚主導の三重構造」-原口一博氏ツイッターより 2010年01月13日(→宮本太郎氏の『福祉政治』と『生活保障』からの引用が少しあります。)
駅前では33度とのことでしたが、さわやかでした。33度を示すデジタル表示を携帯電話で撮ろうとしましたが移りません。表示速度が合わないんでしょうか。