今回の旅行の目的のひとつに東日本大災害の現実と復興に学ぶことがありました。一日目に泊まった田野畑村の羅賀荘のそばには、津波石と共に、明治29年、昭和8年、そして7年前の津波被害の犠牲者の慰霊碑が並べて祀られてありました。
2日目は、宮古市田老町の災害の実態を学びました。町が造った防災学習のパンフの一部です。1時間かけて勉強しました。
被害の実態と防災現状を実際に見て、その後、津波遺構のたろう観光ホテルの5階で津波のビデオを見学しました。
田老町は三つの防潮堤が造られていました。しかし、7年前の津波に耐えられたのは第一防潮堤だけでした。しかし、その防潮堤を乗り越えて津波が町を飲み込みました。残った防潮堤の上でボランティアガイドの方から津波の状況と新たな防災・街造りの状況を説明してもらいました。
その後、津波に耐えて辛うじて残った、たろう観光ホテルの非常階段を登り、5階に行きました。
5階の部屋でホテルのオーナーが撮影した津波の状況の映像を見ました。そのすさまじさに誰もが言葉がありませんでした。
2日目に泊まったホテルの一室には被災前と被災後の町の状況を映した写真が展示していました。
私には、一つの入り江には必ず明治、昭和、平成の三つの慰霊碑があるのが三陸の現実だ と言うことが分かりました。
三陸縦断のバスの車窓からはどこも大規模な防潮堤や町造りの建設工事が行われ、ダンプカーが行きかっていました。海のそばに住みながら防潮堤に囲まれて暮らす住民には海が見えない状況です。
でも、街をコンクリートで固め、人間の力ずくで自然(津波)を封じ込んることが可能なのか、私には疑問も感じられました。それは逆に、陸前高田のかっての千本松原のような自然と折り合いをつけながら暮らそう との人間の知恵が失われて行きそうな気がするからです。
政治の現実を看れば、西日本の豪雨警報の中、宴会を開く自民党、豪雨被害の復旧が求められる時に、災害復旧よりカジノ法案をごり押しする自公政権に怒りさえ覚えました。フクシマの原発事故の終息もつかないのにオリンピックに国民を掻き立てる政権の姿勢を見るにつけ、複雑な心境になりました。