九州の玄海原発訴訟団から第28回の裁判の報告をいただきました。今回は、福島県桑折町の氏家正良さんが被爆体験を意見陳述したそうです。
福島第一原発から60km離れた場所での悲惨な放射能被害の実態をあからさまに述べています。そんな中でも、原発再稼働をドンドンやれ! とはっぱをかける日経連会長、トップセールスで外国に原発を売り込む総理大臣、今もって安全神話を振りまく原子力村、本当にそれでよいのか? 長文ですが、ぜひ読んでいただき共に原発の是非を考えていただきたいと思います。
原発なくそう!九州玄海訴訟ニュース
第1~29陣原告、支える会会員のみなさまへ(VOL.198)
【第28回裁判の報告】
1月18日、第28回口頭弁論が開かれました。今回は福島県桑折町から氏家正
良さんに意見陳述していただきました。
氏家正良さんの意見陳述
1 私は昭和23年、福島県伊達郡桑折町に生まれました。桑折町は福島市の北隣の町で、福島第一原発から約60kmの位置にあります。私は地元の小中高校を卒業して地元で就職し、桑折町の自宅から日本通運福島支店に約41年通勤し61歳の時に退職しました。その後、平成22年5月から、野菜や果物を運ぶアルバイト(福島県北農民連桑折農業を守る会)をしていました。
家庭的には、25歳の時に結婚して2男1女に恵まれ、福島第一原発事故当時、妻、長男、長女と同居し、長男は婚約し、平成23年3月12日は婚約者の家族と顔
あわせの予定でした。また、私の自宅は平成23年当時、築40年も経過しており、長男とその婚約者が一緒に住んでもよいということで、新しい家を新築することとなり、“平成23年2月13日着工、同年5月27日に完成”とのスケジュールで、実際、3月11日には基礎工事が終了したところでした。
桑折町は、桃とリンゴの名産地で、桃については皇室への「献上桃の郷」と呼ばれ、リンゴも「王林」発祥の地です。その他、桑折町は、自然に恵まれ、私も自宅周辺の畑で、大根・玉ねぎ・トウモロコシ・ほうれん草などを育てており、近所の人にそれらを配り、喜んでもらっていました。
2 原発事故
私は、平成23年3月11日、自宅新築工事の基礎コンクリートの検査に立ち会っているときに巨大地震に遭いました。
翌日午後5時ころ、元町職員だった人から「どうやら原発が爆発したらしい」と聞き、同日夜に近所の人から「山形空港から四国に逃げるか」という話が出たため、すぐに避難できる準備をしました。しかし、長男から「仕事もあるし、3000万円ものローンを背負って1年もかけて新築計画した家を作ってしまった。
逃げるわけには行かない」との話があり、私から「若い人だけでも避難させたい」と言いましたが、長男は残ることを決めました。長男の決断に私たち夫婦も逃げるわけには行きませんでした。
3 相当量の被曝
原発の爆発で大変なことになったと思いましたが、まさか放射性物質が大量に阿武隈山系を超えて桑折町まで来るとは思いませんでした。しかし、その後においても放射性物質が桑折町に来ているとは知らせられなかったため、私は相当量の被曝をしたはずです。
まず、事故直後1週間ほど断水が続き、私は給水所に行列ができる中、軽トラックにバケツを積み近所の人の分まで水を運び続けました。さらに、3月14日ころから浜通りから桑折町に避難してきた人の支援活動(着のみ着たままで避難してきた人への支援物資である米・果物・紙おむつ・ミルクなどを届ける活動)をしていました。また、友人宅が地震で屋根瓦が飛散してしまったため、3月20日に屋根に上って屋根瓦修理を4時間手伝いました。
なお、あとで分かった資料では平成23年3月20日当時の桑折町の空間線量は毎時6.24μSvもの高い線量でした。
4 新築中の家が放射性物質に汚染されたことによる苦痛
新築途上だった自宅も放射性物質に汚染されました。しかし、原発による放射性物質に汚染された基礎コンクリートのまま、放射性物質を閉じ込めたまま家が完成してしまいました。放射性物質汚染のことは私たちもハウスメーカーも知らなかったからです。
家の引き渡しを受けた後、同年7月頃に新築した自宅の線量を測定したところ、1階室内で毎時1.0μSv以上の数値でした(当時、近隣の家では毎時0.19μSv程度)。さらに、床下の線量は毎時3.0μSv程度ありました。基礎コンクリートが汚染されていたのです。
私は、東京電力に、基礎コンクリートの汚染の除去や現地調査をお願いしましたが、何の対応もしてもらえませんでした。平成24年4月に業者の好意で、1階リビングと客間の床下部分だけ除染してもらいましたが、現在で一番低い1階リビングで約0.1μSv(その床下毎時0.174μSv)、1階寝室は約0.3μSv、浴室毎時0.137μSv(その床下毎時0.356μSv)あります。除染済みの自宅の庭は毎時0.111μSvなので庭よりも屋内1階の方が線量が高いことになります。若い人にはできるだけ影響を受けてほしくないため、2階に長男夫婦を、1階に私たち夫婦が住んでいます(2階で毎時0.062μSv)。汚染された家に住み続けるのは
大変苦痛です。孫が生まれた場合なども健康影響がないかとても不安です。
5 現在も続く苦痛
私は、現在でも放射性物質のことが頭から離れず、いつまた原発が事故を起こすかわからないという不安があります。また、原発直後に避難できかなったことが、将来子どもや孫に健康被害が生じるのではないかという不安もあります。
長女(事故当時25歳)は、結婚する際にフクシマ出身ということで不利益になるのではないかということも心配です。
事故当時、福島県西郷村に居住していた二男は、平成23年8月被曝を避けるため、佐賀県に避難しました。その後、長崎県で避難生活を続けておりますが、福島県では正規雇用でしたが九州では不安定雇用の下、経済的には大変なようです。私の方もなかなか二男に会うことができずつらいです。
また、平成23年7月に私の畑の放射線量を大学の先生が測ったところ地上1mの高さで毎時7μSvあり、野菜を近所の人に上げることもできなくなりました(現在では1年に1~2回土を入れ替え毎時0.236μSVで2年位前からは線量を測って小さい子どものいない人には配っています。ただし、土を入れ替えていない隣の畑では毎時0.342μSvあります)。事故前は山菜取りなども楽しみでしたが、地元の山菜・きのこ・松茸などは除染されていない山で採れるものなので一切食べられなくなりました。人々の交流も制限されています。
地域的にも近くの半田山、西山城跡などの子どもの遠足・遊び場も事故後は放射能を恐れてほとんど遊ばなくなり,事故後学校の屋外プールもずっと閉鎖され、2年前にできた屋内プールに各学校から通っている状況です。
また、放射性物質の影響については専門家でも意見が分かれている状況で議論するのに疲れ、放射能について話をすると対立するので嫌がられたりします。
あきらめて故郷で暮らすには放射能のことを考えたくない、そうでないと生きていけないという感じを強く受けます。
5 最後に
私の故郷の大地は、色もにおいもなく健康を脅かす放射性物質で汚染されています。電力を生み出す一つの手段に過ぎない原発により、なぜ故郷を踏みにじられなければならないのでしょうか?
事故前は、“絶対に安全だ”と電力会社は言っていたのに、国も東電も事故が
起きると“自分たちは悪くない”と私が一原告となっている生業訴訟でも言い張っています。原発は、このような無責任体質で成り立っているのです。
私は福島第一原発事故の被害者として私たち同じ思いの被害者を二度と生み出してほしくない、そのためには原発をなくしてもらいたいと思って、この玄海原発差止の裁判に参加しました。
以上