今日の新聞で、「惜別の歌」の作曲者 藤江英輔さんが亡くなられたことを知りました。
この歌は、藤村の詩に作曲家藤江英輔氏が曲を付した。藤江氏がこの詩に作曲したのは、太平洋戦争の末期であったようだ。当時中央大生だった氏は、敗戦間近の時期に東京板橋にあった陸軍造兵廠に学徒動員され、兵器生産に従事していた。同じ工場で働く学友たちに、日々新たな召集令状が届いたらしい。再会の叶わぬ遠き別れが次から次へと続く。その言葉に盡きせぬ想いを、藤江氏はこの藤村の名詩に託して曲を付けた。それは、いつしか出陣学徒を送る歌となった。造兵廠に送られてきた他の大学生、女子学生、旧制中学生たちも皆この歌で出陣学徒を送ったといわれている。
だから、この歌の藤村の原詩との異なりは「高楼」を先ず「惜別の歌」としたことにある。また「かなしむなかれ わが姉よ」を「わが友よ」と歌い替えている。一方、最も格調高い原詩の部分が四番に採譜されてもいる。原詩には「君の行くべきやまかわは 落つる涙に見えわかず 袖のしぐれの冬の日に 君に贈らん花もがな」とある。あの暗澹とした時代、戦場に赴く友に酒の一杯も用意できず、精一杯の気持ちで見送った人たちの哀切の心情が伝わりくる。舟木さんの朗々とした歌い上げがみごとである。名唱であると思う。(このユーチューブのコメントより転載)
私は、中央大学の夜間部に通いました。昼間は働き、仕事が終わると駿河台校舎に行き、授業を受けました。と言っても授業のことはあまり覚えていません。60年安保の前後の時期でした。サークルの仲間と学生自治会の国会デモには何回も参加しました。夜学生ですから、サークルの仲間の職種はマチマチで、公務員、自営業、会社員、アルバイトで食いつないでいる人などいろいろでした。これらの異業種の方との交流がその後の人生の糧ともなりました。サークルの仲間には、苦学して、弁護士、公認会計士、税理士などになった人が何人もいます。
このサークルで、中大校歌と同じくらい歌ったのが、この「惜別の歌」でした。サークルの仲間が卒業するとき(私たちはこれを追い出しコンパと称した)には、必ず、この歌で送りました。
この歌は、私にとっては、青春の思い出そのものです。藤江氏が愚かな戦争に駆り立てられて、別れざるを得ない学友を惜しんだ歌です。しかし、そんな時代が再び繰り返させるかもしれない世情です。
藤江さんを偲び、非戦の思いを込めて、これからも「惜別の歌」を歌い続けたいと思います。