囲碁きちの独り言 Ⅱ

趣味の旅行、うたごえ、囲碁の事や日常の出来事を記録する。

藤江英輔さんを偲んで!

2015-10-25 14:20:26 | 囲碁きちのつぶやき




今日の新聞で、「惜別の歌」の作曲者 藤江英輔さんが亡くなられたことを知りました。

この歌は、藤村の詩に作曲家藤江英輔氏が曲を付した。藤江氏がこの詩に作曲したのは、太平洋戦争の末期であったようだ。当時中央大生だった氏は、敗戦間近の時期に東京板橋にあった陸軍造兵廠に学徒動員され、兵器生産に従事していた。同じ工場で働く学友たちに、日々新たな召集令状が届いたらしい。再会の叶わぬ遠き別れが次から次へと続く。その言葉に盡きせぬ想いを、藤江氏はこの藤村の名詩に託して曲を付けた。それは、いつしか出陣学徒を送る歌となった。造兵廠に送られてきた他の大学生、女子学生、旧制中学生たちも皆この歌で出陣学徒を送ったといわれている。
だから、この歌の藤村の原詩との異なりは「高楼」を先ず「惜別の歌」としたことにある。また「かなしむなかれ わが姉よ」を「わが友よ」と歌い替えている。一方、最も格調高い原詩の部分が四番に採譜されてもいる。原詩には「君の行くべきやまかわは 落つる涙に見えわかず 袖のしぐれの冬の日に 君に贈らん花もがな」とある。あの暗澹とした時代、戦場に赴く友に酒の一杯も用意できず、精一杯の気持ちで見送った人たちの哀切の心情が伝わりくる。舟木さんの朗々とした歌い上げがみごとである。名唱であると思う。(このユーチューブのコメントより転載)

私は、中央大学の夜間部に通いました。昼間は働き、仕事が終わると駿河台校舎に行き、授業を受けました。と言っても授業のことはあまり覚えていません。60年安保の前後の時期でした。サークルの仲間と学生自治会の国会デモには何回も参加しました。夜学生ですから、サークルの仲間の職種はマチマチで、公務員、自営業、会社員、アルバイトで食いつないでいる人などいろいろでした。これらの異業種の方との交流がその後の人生の糧ともなりました。サークルの仲間には、苦学して、弁護士、公認会計士、税理士などになった人が何人もいます。

このサークルで、中大校歌と同じくらい歌ったのが、この「惜別の歌」でした。サークルの仲間が卒業するとき(私たちはこれを追い出しコンパと称した)には、必ず、この歌で送りました。

この歌は、私にとっては、青春の思い出そのものです。藤江氏が愚かな戦争に駆り立てられて、別れざるを得ない学友を惜しんだ歌です。しかし、そんな時代が再び繰り返させるかもしれない世情です。
藤江さんを偲び、非戦の思いを込めて、これからも「惜別の歌」を歌い続けたいと思います。

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我が家の庭にも秋の気配

2015-10-24 22:11:30 | 囲碁きちのつぶやき
11月を目の前にして、我が家の小さな庭にも日増しに秋の気配が忍び寄っています。
庭には、菊も植えてあり、連れ合いが面倒を見ています。何種類かある菊も花が咲き始めました。



立派な名前がついている種類ではなく、どちらかと言うと、野菊の系統のようです。

こちらは、黄色です。



明日には、いくつか摘んで、仏壇に供えようかと思います。
何故か、こんなものもあります。



トマトです。長野へ旅行に行ったとき、途中の道の駅で苗を買い、私が庭に植えました。肥料もやらず、ただの植えっぱなしです。葉や枝がドンドン伸びて、庭がうっとうしい位になりました。夏場には、花も結構咲きましたが、なぜか実をつけませんでした。ところが、秋口になっていくつか実をつけ始めました。その内のひとつがやっと赤くなりました。なぜ、実をつけなかったのか、なぜ、なかなか赤くならなかったのか私にはわかりません。でも、折角、赤くなったのでそろそろ食べようと思います。
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北陸旅行の思い出 3

2015-10-22 17:37:04 | 旅行
北陸の旅、3日目で印象に残ったことを書いてみます。

◎ ガイドが良かった一乗谷朝倉氏遺跡
 朝食後、一乗谷朝倉氏遺跡に行きました、歴史遺跡などあまり面白くないところだと思って行きました。1573年に織田信長に攻められ、すべて焼き尽くされた朝倉氏の遺跡です。



一乗谷は一度は地下に埋もれてしまったそうですが、近年、その跡が発掘され、往時の様子が大分判ってきたようです。当時の家並みや屋敷などが復元され、往時の衣装に身をまとったスタッフが沢山配置されていました。

私が感心したのは遺跡を案内してくれたガイドの説明です。80歳代と思われる女性でしたが、話は饒舌、身の動きは軽やかで楽しく遺跡を見学しました。そのガイドさんは、「きんさん、ぎんさんの歳までガイドをやりたい」と張り切っていましたが、ツアー客はみなさん、その方から元気をもらった と喜んでいました。



左から2番目がガイドさんです。昔のことをわかりやすく、かみ砕いて楽しく説明してくれました。おかげさまで、退屈な処と思っていた場所が、とても楽しいところになりました。ガイドの案内ひとつでこんなにも変わるものか と感服しました。

◎ 同姓のよしみで? =永平寺

古刹 永平寺に行きました。曹洞宗の大本山の広い堂内を若い禅僧の案内で廻りました。堂から堂へ、長い階段ばかりで大変でした。



身体の不自由な連れ合いはかなり難儀しました。その上、線香の煙、一番体にさわるものものでした。

参拝を終わり門前町でランチとなりましたが、私の同姓のお店を見つけ、そこで食べました。



食べたのは、名物の「おろしソバ」で、80歳代と思われるおばあちゃんが作ってくれました。永平寺の参拝で喉が乾いたので、ビールをお願いしたところ「置いていない」と言われました。参拝前はともかく、参拝後の人にもお酒を出さないお店に律儀さを感じました。(こちらが、不謹慎?)

「姓」を名乗り、埼玉から来たと話しました。おばあちゃんは、「埼玉には大関という姓は多いのですか?」と聞きました。「殆どいません。」と話すと、「こちらでも少ない姓です」と言いました。何でも、木曽義仲の末裔のようなことを話していました。私の先祖は「武蔵野武士」とは聞いていません。二代前までは、商人でした。
帰り際には、「これをお持ちになって!」とお土産までもらいました。



売り物の永平寺味噌をいただきました。単に同姓と言うだけで、お土産までいただき、恐縮しました。
民芸品が主流で、ソバ、コーヒー、ソフトクリームなども販売していますが、5~6人も座ればいっぱいになってしまうお店です。永平寺にお出かけの際には、「大関」と言うお店にぜひ寄ってみてください。永平寺橋の隣にあります。

◎ こんな看板が・・・ =安宅の関
歌舞伎の勧進帳の元になった「安宅の関」後に行きました。まず、安宅神社に参拝しました。禰宜さんなどスタッフ?総出なので驚きました。全員が社殿に上がらされ、巫女さんから説明を受けました。要は、義経の故事にちなんで、この神社のお札は「艱難除けにご利益がある」と宣伝したかったのです。あまりにも商業主義でしたので、びっくりしました。でも、お札を一つ買いました。800円でした。連れ合いは、病を得て、今、難儀しています。病が平癒して、難儀が取り払われれば と思いました。お賽銭替わりです。

関の裏浜にはこんな看板が立っていました。



日本海に面したこの辺りは、拉致や不法上陸があつた所のようです。厳しい現実を思い知らされました。

◎ 金箔ソフトを賞味!

最後は、加賀伝統の金箔工芸品を見ました。確かに、見事でしたが手の出るような品物はありませんでした。拝金主義ではありませんが、一番安い「金箔ソフト」を賞味しました。



ソフトクリームの上に金箔を貼りつけたものです。800円+税 でしたが、話のタネにはなりました。美味しかったです。

何よりも、弾丸ツアーでしたが、無事、旅程をこなせて良かったと思いました。
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北陸旅行の思い出 2

2015-10-21 17:33:06 | 旅行
北陸旅行2日目の行程で印象に残ったことを書いてみます。

◎ 輪島の朝市

ホテルでバイキングの朝食を食べた後、輪島の朝市に行きました。午前9時には、朝市に着きましたが、大変な人出でした。



試食のものをつまみ食いしたり、品定めをしたり、地元の方との会話を楽しみました。私は、「こんな場所では、食い歩きが似合う」と称して、甘酒を飲みながら歩きました。バイキングの朝食を少な目にしておいて良かったです。本来なら値引き交渉が楽しいのでしょうが、関西の方と違って、値引きなど口にも出せませんでした。



買い物袋を持った女子会です。「もっと、時間が欲しい」と言って、とても気に入ったようです。

◎ いつまでも残したい千枚田

白米千枚田に行きました。快晴。青い空、青い海、刈取りを終わった後の千枚田。実に見事でした。



聞けば、ここには、1,004枚の田があるそうです。でも、地元の農家の方で、農業としてこの田んぼを持っている方は、一軒のみだそうです。オーナー制と、ボランティアによる農作業で辛うじて維持されているようです。全国には、観光用の棚田として残されているところはいくつもありますが、やはり、ここが一番インパクトが強いと思います。
しかし、PTTが発効されれば、観光用の棚田は以外は、消滅してしまうような気がします。棚田が消滅すれば、里山は荒れ放題、「地方創生」どころではありません。PTTでこれらの田んぼをつぶし、片方で「地方創生」「一億総活躍社会」をブチ上げるアベ政権は、やはりおかしいと思います。

◎ 身近にあった志賀原発

能登金剛で遊び、千里浜ドライブウエイに向かう途中の志賀町の国道でこんなものを見ました。



走るバスの窓から写した写真です。これが、北陸電力の志賀原子力発電所です。3.11福島原発事故後、塀を5m嵩上げしたそうです。原発は海抜11mの所にあるが、5m嵩上げすれば、津浪対策は万全だと言っているようですが、いかにもチャチナな塀でした。

前の夜、ホテルで地元のテレビを見ていたらこんな画面が出ました。



毎日、志賀原発の状況を放映しているようです。この原発は、1993年運転開始をしたが、1999年6月に臨界事故を起こしています。事故原因は人為ミス、しかも事故報告を直ちにせず、情報隠しさえしていたそうです。2007年には、マグネチュード 6.9の能登半島地震も起きています。志賀原発の直下に活断層があるとの評価もあり、現在、2基とも運転を休止しています。場合によっては、このまま 廃炉になる可能性もあります。

(ガイドさんは、通りすがりに、この辺りの水田の水路は極めて整備されているのも、原発のお蔭かも知れない と述べただけで、原発を否定も肯定もしませんでした。上記のことは帰宅後ネットで調べたことです。)

国道沿いの町の近くに、当たり前のように原発があるのに驚きました。ひとたび事故が起これば、能登は全滅でしょう。

◎ 古い加賀山中温泉の街を歩く

 この日は、山中温泉に泊まりました。開湯が、1300年と言う古くからの温泉でした。夕食後、温泉の街の散策に出かけました。街の中心は、共同浴場のある「菊の湯」当たりの様でした。男湯と女湯が別棟で建っている立派なものでした。



菊の湯の前には源泉があり、温泉玉子が作れるとのことでした。男湯の番台では、温泉玉子用の玉子も売っていましたので3個買いました。ザルに入れ、源泉に漬けましたが、出来るまでに、40分かかるというので、それまで街をブラつきました。からくり時計が午後8時を告げると人形がおどりだしました。山中座の芸能はすでに終了していましたが、見事な天井絵などを鑑賞しました。昔と違って、夜の温泉街は射的などもなく、閑散としていました。温泉玉子が出来上がるのを待ってホテルに戻りました。
翌朝は、5時半、ホテルを出て、鶴仙渓、こおろぎ橋、ゆげ街道と芭蕉ゆかりの街を散策しました。古い温泉の街を垣間見られてとても良い思い出になりました。
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北陸旅行の思い出 1

2015-10-21 08:23:21 | 旅行
北陸弾丸ツアーの印象を書いてみました。


◎ こんな広域を ツアー旅行の行程
  

見ずらいですが、赤で囲ったところが立ち寄り先です。一番上が、白米千枚田、 一番下が一乗谷朝倉遺跡です。この広域をバスで移動しました。3日間とも快晴でした。印象に残ったことなどを列記してみます。

◎ 北陸新幹線



「かがやき509」に乗りました。大宮から富山まで2時間かからないのですから、確かに早いです。でも、高崎から先はとにかく「トンネル」が多く、車窓を見ることも出来ず、乗客が「輸送する貨物」みたいに思えました。「狭い日本、そんなにに急いでどこに行く」 旅情も何もありませんでした。
これが、リニアになったらもっと酷いでしょう。私は、国土を痛みつけるリニアには反対です。


◎ 50年ぶりの乾六公園
 
 新幹線効果もあり、平日でしたが、大変な人出でした。外国人も多かったです、



ここで写真を撮るのにも順番待ち。他所の方が映らないようにするのが大変でした。50年前に行った兼六園の印象が全て消え去っていて、初めて行ったのと同じでした。紅葉には少々早かったのが残念です。

◎ 千里浜なぎさドライブウエイ
 
夕方だったので、バスの運転手さんが「日が暮れていたら通らない」と言ったいましたが、何とか間に合いました。



逆に、夕日が沈む瞬間も見ることができ、とても印象的でした。こんな時間にも、砂に車輪がとられ動けなくなっている乗用車を見ました。やはり「砂浜」です。甘く見て、走ってはいけないと思いました。
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