1975年、昭和50年と言えば、カープ初優勝の年。
1945年8月6日、一発の原爆で14万人を虐殺された広島市。
戦後わずか4年、1949年に、焼け野原の中にプロ球団創設、プロ野球で唯一親会社を持たない市民球団でした。
今でもそうですが、大手新聞社や電鉄会社が親会社となり球団を支えるのが普通だった時代・・・カープは都市をベースとする米国のメジャーリーグのような経営を目指しました。
でも、おカネがない貧乏球団・・・。
広島市民は、明日への希望としてカープを応援し続けました。
ビンボー市民球団は、解散の危機、大洋ホエールズとの合併の危機などを広島市民の樽募金や寄付などで支え続けました。
リーグへの上納金もおさめられない・・・「セリーグのお荷物球団」と揶揄されながら・・・。
プロ野球12球団の中で、都市名がついているのは「広島」だけ。
フランチャイズのマツダスタジアムはネーミングライツ、正式名称は「広島市民球場」です。
球団創設から、四半世紀・・・やっとカープの夢は実現しました。
後楽園球場で読売を破り、リーグ初優勝!
広島市民は、涙を流しながら、美酒、旨酒に酔いしれました。
そのカープとともに地域に密着してきた中國新聞で、現在、「カープ70周年70人の証言」が連載されています。
毎日、楽しく読んでいます。
今回は、初優勝の時のエース外木場義郎さん(75歳)が登場。
早いストレートやシュート・・・絶品でした。
背番号14・・・津田や大瀬良に引き継がれた栄光の背番号です。
現在は広島のテレビ局で野球解説をされています。
実直で真面目なコメント・・・大好きです。
今回の記事、外木場さんが語る意外な事実を知って驚いた次第です。
米国メジャーリーグから来たルーツ監督の指導でカープが強くなったと思っていました。
負け犬根性をたたき直し、合理的な練習をし、帽子の色を情熱の赤ヘルに変えた、選手たちの意識や行動を変えた・・・そして優勝。
わずか十数試合でカープを退団し、日本を後にして帰国したルーツ監督。
この記事にあった外木場のお話では、カープの初優勝は、ルーツ監督や選手たちの頑張りもあったけれども、次の2つが大きかったと指摘します。
1 新幹線が広島まで延伸したこと(前年までは岡山どまり)
2 ルーツ監督が選手の野球用具運搬をトラック輸送に切り替えたこと(以前は選手自身の持ち物として運搬、キャッチャーなどは大変だったそうです)
セリーグ6球団の中で一番移動距離が多いのがカープ。
東京、横浜、名古屋、大阪・・・。
選手たちも移動だけで疲れると思います。
地政学ではありませんが、この移動が楽になれば、選手たちも試合に集中できる・・・。
それを、新幹線とトラックがカープを変えた・・・そして、優勝。
意外な事実でした。
がんばれ!カープ