僕たちの天使

私の愛する天使たち、ネコ、山P、佐藤健君、60~80年代の音楽、バイクなどを徒然に語っていきます。

(4/18)思い出してしまったこと

2015年04月18日 20時18分15秒 | 日常、仕事、認知症
先日の義母との諍いが
自分にとって結構尾を引いている。
気分転換もできずに
仕事を終えたら帰宅し、速攻2階に上がるようにしている。
彼女が認知症であることを私自身が自覚しているにも拘らず
彼女の理不尽な言葉に反応してしまった自分の
やり場のない気持ち。

あの日は全然寝られなくて
書棚を漁って、本を読み出した。
10数年前に
義父が入院した頃に
いよいよ介護生活か、と思って
数冊買い揃えたものの1つ。

「夫婦の親」(新聞記者・柳博雄)
そして昨日は
「父・丹羽文雄 介護の日々」(丹羽の娘・本田桂子)
と立て続けに2冊読み返した。
ほとんど内容は忘れていて
今の自分の心境と照らし合わせて読むことができた。

2冊とも、親の介護についてのドキュメンタリーである。
介護のマニュアル書よりも
こうした実態に直面した「介護する側」の手記のほうが
場面場面での葛藤、怒り、失望とか介護する側の気持ちが手に取るように
わかる。
そして、著者たちと比して
私のそれはまだまだ序の口だということが再認識させられる。
何しろ
義母の状態は、正常、異常7対3の割合なのだから。

義父の場合は
血液のガンで入院した。
義母は毎日、病院に通い、夫の要求に答えてきた。
義父は
非常に細かく几帳面で
他人の力というものをあまり信じなかった。
自分が何でもできる、という職人気質の人で
自分の妻は何もできない(そういうふうにしたのも夫の一面あり)、
それでも義母は献身的に毎日通っていた。
夫婦だから衝突がある。
病気の人間が我がままになるというが、義父はその頑固さがいっそうそう思わせた。
とうとう
義母は音を上げて、「今日は病院にトモロッシちゃん、初めから行って!」と
言う日もあった。
行けば、義父の愚痴の聞き役である。
「うちのやつはなにもできない。」と、妻に対する愚痴を口にする。
私には
毎日、ドライアイスを50グラム買ってこい、と要求。
100gでもない、きっちり50ではなければだめなのだ。
今はそれらをスーパーの食料品売り場等で簡単に手にすることができるが
当時
街はずれの氷屋に、50gのドライアイスをください、と
店主がいい顔しない顧客であった。
ドライアイスは買い置きできない。家庭の冷凍庫に置けない。
よって、少量のドライアイスを買っては病院に運んでいた。

グラム単位で測る計量器械を買ってくれと言われた。
病院で何に使うのか、と聞けば
病院食の1つ1つを計り、何グラム以上は自分は食べてはいけない、と
毎食計量していた。
そんなことを目の前でされれば、病院側もどんな顔をしていたか、と。
ノートに、○○を何グラム、○○を何グラム、というようにビッシリ
書き詰め、それらを看護師に見せたりしていた。
「Sさん、これじゃ、病院の先生以上に細かくて凄いわね。」と
病院泣かせの患者だった。

自宅での介護用のベッドの購入の手続きを役所にしてくる。
それらは全部私の役割だった。
義母はこういうことはできない
息子である私の夫は、仕事と称して、こういうことにタッチしていない。
義父が亡くなったあとの
年金やいろいろな名義の変更等
役所に行くのも私の役目。
嫁だから当然、というのが腑に落ちない私だった。
義母はこういう手続きは
若いときから苦手だった。
ましてや、夫を亡くしての失意のときだから
当然、私の役割、義母も夫もそう思っていた。
私は当時からその考えに疑問に思っていた。
1つの手続きを終えて自宅に戻ると
義母に
「暇だれだったねえ」という言葉を言われる。

「私は何もできないので、いろいろとやってもらってごめんね。私もいっしょに
行けばいいのにね。」とは
とうとう言われなかった。
あるとき
なにかの手続きをやって、そのままにしていたことがあった。
それをやったのかどうかも忘れていた。
そして
夫はそのことを激怒した。
私もそれまで疑問に思ったことを口にした。
「10の1つを忘れたからって、なぜに私がこんなに言われなくてはならないのか。
本来なら、妻であるお義母さんがやることではないか。やれなくても、いっしょに
行って、それらを見るのが筋じゃないか。あなたは何をした。息子であるあなたは
何をした。毎日あちこちと行っている私がこんなに言われるとは。もう、私は
関わらない。親子2人でやれ!」と言った。

私は
あの頃、結婚生活の中で
夫を最も遠い、と感じた時だった。
後にも先にも
あれ以上の困難なことは夫婦にあったけれど
最も、S家で孤立した自分だったと思う。
夫を亡くした妻、という母親の気持ちが可哀相だ、というのは
息子である夫が一番感じていたであろうが
やらなければならない手続きを
そういうことを感じる暇もなくやっていた私には
夫のその言葉は、私と、夫プラス義母との距離を遠ざけるものだった。

そして
次の日
夫は謝ってきた。
「昨日は申し訳なかった。あれこれとやってくれるおまえの気持ちもわからないで。」
と。
夫が謝る、というのは
私の記憶の中で、あれだけである。
それだけ珍しいことなのだ。
だからよっぽど私の言葉が身にしみたのだろう。
互いに許す、互いの立場を理解する、というのは
夫婦の間でなかなかできることではない。

私は

義母が書くべき書類は、なるべく
時間をかけてでも付き添って
義母に書かせている。
義母名義のものは幾らでもある。
私道の件でも、夫と義母の名義だから
義母が書かねばならないことがある。
それらをあのころだったら
私に丸投げして、
私も疑問を持ちながらも従っていたかもしれない。
しかし
今は、字が書ける限り、何枚失敗したとしても
義母に書かせる。
あのころより自分は強くなった。
「世の中知らない」と先日書かれたが
世の中知らないのはあなただ、とずっと思っている。


本の内容を書く予定だったが
義父の死について書いていくうちに思い出してしまった。




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