人生の目的は音楽だ!toraのブログ

クラシック・コンサートを聴いた感想、映画を観た感想、お薦め本等について毎日、その翌日朝に書き綴っています。

ダン・エッティンガ- ✕ エドナ・プロホニク ✕ 東響で ワーグナー「ヴェーゼンドンク歌曲集」、ベルリオーズ「幻想交響曲」を聴く ~ 演奏直後の騒音、曲間のブラボーの再発防止を

2018年10月21日 07時26分32秒 | 日記

21日(日)。わが家に来てから今日で1479日目を迎え、宇宙航空研究開発機構(JAXA)と欧州宇宙機関(ESA)は19日午後、米国以外で初の水星探査機2基を南米フランス領ギアナのクール―宇宙基地からアリアン5ロケットで打ち上げ 成功した というニュースを見て感想を述べるモコタロです

 

     

       暗いニュースばかりで気が滅入る中  彗星のごとく現れた水星のニュースはいいね

 

         

 

昨夕、サントリーホールで東京交響楽団の第664回定期演奏会を聴きました プログラムは①ワーグナー「ヴェーゼンドンク歌曲集」、②ベルリオーズ「幻想交響曲作品14」です ①のメゾ・ソプラノ独唱はエドナ・プロホニク、指揮はダン・エッティンガ-です

ダン・エッティンガ-はイスラエル生まれ。2015年シーズンからシュトゥットガルト・フィルの音楽監督を務めています。日本では東京フィルの常任指揮者(現・桂冠指揮者)を務め、新国立オペラでは「ファルスタッフ」「イドメネオ」「ニーベルングの指環・四部作」「こうもり」で東京フィルと、2016年の「サロメ」で東響とオーケストラ・ピットに入っています

メゾ・ソプラノのエドナ・プロホニクはイスラエル生まれ。ドイツを中心に世界の歌劇場でワーグナー等を歌い高い評価を得ています

 

     

 

オケはいつもの東響の並びで、左から第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラ、その後ろにコントラバスという編成。コンマスは水谷晃です

1曲目のワーグナー「ヴェーゼンドンク歌曲集」は、リヒャルト・ワーグナー(1813-1883)が1857年から58年にかけて マティルデ・ヴェーゼンドンクの5つの詩に作曲したもので、ヴェーゼンドンク夫人との激しい恋愛から生まれた作品です 当時ワーグナーは楽劇「ジークフリート」を作曲中だったにも関わらず、それを中断し「トリスタンとイゾルデ」の創作に没頭します。その過程で生まれたのが「ヴェーゼンドンク歌曲集~女声のための5つの詩」でした 第1曲「天使」、第2曲「止まれ」、第3曲「温室にて」、第4曲「悩み」、第5曲「夢」の5曲からなります

若き日のダニエル・バレンボイムを彷彿とさせるダン・エッティンガ-が、メゾ・ソプラノのエドナ・プロホニクとともに登場し配置に着きます エッティンガ-の指揮で第1曲「天使」の演奏に入りますが、プロホニクは深みのある豊かな声で歌い、エッティンガ-✕東響がぴったりと寄り添います 第3曲「温室にて」の中盤ではヴィオラのソロが聴かれますが、首席の青木篤子の演奏はなかなか聴かせてくれました

最後の第5曲「夢」が静かに終わるや否や、2階席後方からバンという大きな音が聞こえました 何かを落としたか倒したかといった音です。このブログで何度も書いていますが、クラシック音楽を生で聴く醍醐味は最後の一音が鳴り終わった直後の一瞬のしじまをかみしめるところにあります そこに演奏のすべてが凝縮されているといっても過言ではありません。その一番肝心なところでバンとやられては感動的な演奏が台無しです。指揮者とオケ、そして他の聴衆に対して大変失礼なことです チラシの束など 落ちて音の出る物は膝の上に載せない、倒れそうな物は最初から床に寝かせておく ー これはコンサートを聴くうえで常識です。心してほしいと思います

満場の拍手とブラボーにエドナ・プロホニク✕エッティンガ-✕東響はリヒャルト・シュトラウス「8つの歌」から「献呈」を、そしてシューベルト「音楽に寄せて」をアンコールに歌いさらに大きな拍手とブラボーを浴びました 私の考えでは、「ヴェーゼンドンク歌曲集」が20数分と短いので、最初からこの2曲は”闇プロブラム”に含めていたのではないかと察します 両曲とも素晴らしかったのは言うまでもありません

 

     

 

プログラム後半はベルリオーズ「幻想交響曲 作品14」です この曲はエクトル・ベルリオーズ(1803‐1869)が1830年に作曲した作品です この作品は「ある芸術家の生涯におけるエピソード」という副題を持っています ベルリオーズはイギリスのシェイクスピア劇団の女優ハリエット・スミッソンの舞台を観て一目惚れしたものの、片思いに終わったという経験を この曲に込めたのです   曲のストーリーは「若い芸術家が失恋して阿片を飲んで自殺を図るが、それが致死量に達しなかったため、奇怪な幻想を夢見る 夢の中で、芸術家は愛する女性を殺して処刑され、魔女の饗宴に身を置く。その女性は一つの旋律となって繰り返し現れる」というものです

ベートーヴェンの「第九交響曲」が初演された1824年からわずか6年後に作曲された「幻想交響曲」は、イデー・フィクス(固定観念)の使用による標題音楽の手法を試み、リストの交響詩やワーグナーの楽劇への道をひらいた画期的な作品と言われています

この曲は第1楽章「夢、情熱」、第2楽章「舞踏会」、第3楽章「野の風景」、第4楽章「断頭台への行進」、第5楽章「魔女の夜宴の夢」の5楽章からなります

ステージを見ると、ヴァイオリン・セクションとヴィオラ・セクションの手前(客席側)にハープが2台ずつ計4台置かれています こういう配置を見るのは初めてです。しかし、ハープの出番は第2楽章なので演奏者は不在です。また、最初 打楽器はティンパニ奏者だけで、金管楽器も限られています 他の打楽器や金管楽器群は第3楽章の前に加わります

この日の演奏では、オーボエの荒木奏美、フルートの甲藤さち、クラリネットの吉野亜希菜、ファゴットの福士マリ子、そして第3楽章ではコールアングレの篠崎隆ら木管楽器群の演奏が冴えていたほか、金管楽器群もパワー全開でした この曲で好きなのは第2楽章「舞踏会」のハープ4台と弦楽5部の演奏と、第4楽章「断頭台への行進」のファゴット4本の合奏ですが、この日の演奏は大満足でした 

ところで、第3楽章「野の風景」で舞台上のコールアングレと舞台裏のオーボエが会話を交わす場面がありますが、裏のオーボエはどこで吹いていたのでしょう? ステージに極めて近いところにように思えましたが、当然ながら荒木奏美さんは吹いていませんでした

いい気分で第4楽章「断頭台への行進」を聴き終わって、一息つこうと思った瞬間、またしても2階席から 今度は大きな声でブラボーがかかりました このあと第5楽章が残されていることは事前にプログラムを見ていれば分かるはずです ブラボーをかけるほどの度胸がある人なら、コンサートは初めてではないと推測します。プログラムを見ることぐらい朝飯前でしょう ダン・エッティンガ-は大人の対応で、すぐに第5楽章に移りましたが、演奏者の集中力を削ぐ恐れのある このような行為は 指揮者やオケの楽員に対して大変失礼だし、他の聴衆は「シラケ鳥飛んでいく東の空へ」です 「演奏に感動したからブラボーをかけたのだ」という言い訳は通用しません。演奏はまだ終わっていないのですから はっきり言いますが、演奏を聴く心構えが出来ていません 次からはプログラムを見て 顔を洗って出直してきてほしいと思います

さて この日のダン・エッティンガ-による「幻想交響曲」は、曲のグロテスクな面を前面に出したメリハリのある演奏でした 個人的には、オペラを振った方が もっと良いと思います

【訂正・補筆】

東響会員さんからコールアングレ奏者は最上峰行さんではなかったかとのご指摘がありました。確認の結果その通りでしたので、東響会員さんにお礼を申し上げるとともに、ここに訂正させていただきます

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シュトイデ弦楽四重奏団✕小林有紗でベートーヴェン「大フーガ」、シューベルト「弦楽四重奏曲第14番”死と乙女”」、ドヴルザーク「ピアノ五重奏曲」を聴く~紀尾井ホール/読響2019年度コース変更へ

2018年10月20日 07時18分26秒 | 日記

20日(土)。ゆえさんのブログに「来年の手帳を買いました」と書いてあったので、「おお、もうそんな季節か」と思い 池袋の Loft で買ってきました   2年前から使い始めた「能率手帳 NOLTY1801」です。これはコンサート、映画などのスケジュール管理に便利で、使い始めたら他の手帳には手が出ません ぼちぼち来年のコンサートの予定を書き入れていこうと思っています

 

     

 

ということで、わが家に来てから今日で1478日目を迎え、トルコ・イスタンブールのサウジアラビア総領事館でサウジ人記者カンショギ氏が殺害された疑惑を受け、トランプ米大統領は「サウジ政府がカンショギ氏殺害に関与したことが事実だと判明した場合は、非常に厳しく対処しなければならない」と話した というニュースを見て感想を述べるモコタロです

 

     

                相手が米国の武器輸出先のサウジだから 厳しい対応なんて言っても限られるよな

 

         

 

昨日、夕食に「鶏肉のマヨポン炒め」と「湯豆腐」を作りました 「鶏肉~」は cookpad のレシピです。「湯豆腐」は昆布で出汁をとって鶏ガラスープで煮込んでいます

 

     

 

         

 

今日は読響の2019年度年間会員継続手続きの締切日なので、読響チケットWEBのサイトから手続きをしました 読響の定期コンサートは①定期演奏会(サントリーホール)、②名曲シリーズ(同)、③土曜・日曜マチネシリーズ(東京芸術劇場コンサートホール)、④みなとみらいホリデー名曲シリーズがあり、私は現在①のS会員です 2019‐2020シーズンのラインナップを見たところ、いずれのコースも決定打がないので、比較的魅力を感じる②名曲シリーズに移ることにしました 今日の手続きは「座席変更する」という意志を伝えただけで、具体的な座席指定の手続きは11月2日以降となります。N響と同様 ランクをSからAに落とすことも考えたいと思っています

 

     

     

 

         

 

昨夕、紀尾井ホールでシュトイデ弦楽四重奏団のコンサートを聴きました プログラムは①ベートーヴェン「大フーガ変ロ長調作品133」、②シューベルト「弦楽四重奏曲第14番ニ短調作品810”死と乙女”」、③ドヴォルザーク「ピアノ五重奏曲イ長調作品81、B.155」です ③のピアノは小林有紗です

シュトイデ弦楽四重奏団は、ウィーン・フィルのコンマス、フォルクハルト・シュトイデを中心にウィーン・フィルのメンバーにより2002年に結成されたクァルテットです メンバーは第1ヴァイオリン=フォルクハルト・シュトイデ、第2ヴァイオリン=アデラ・フラジネアヌ(ホルガ―・グローの代演)、ヴィオラ=エルマー・ランダラー、チェロ=ヴォルフガング・ヘルテルです

私がなぜシュトイデ弦楽四重奏団の演奏を聴こうと思ったかと言うと、彼は毎年「トヨタ・マスタープレイヤーズ・ウィーン」を率いて指揮者なしのコンサートを開いており、私は毎回聴いていますが、その演奏の素晴らしさに感銘を受けたからで、クァルテットを聴くのは今回が2度目です

 

     

 

自席は1階5列5番、左ブロック右通路側です。会場は8割程度埋まっているでしょうか

4人が登場、配置に着きます 左から第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロという並びです。第2ヴァイオリンが女性のアデラ・フラジネアヌさんに代わったので、前回と印象が変わりました

1曲目はベートーヴェン「大フーガ変ロ長調作品133」です この曲はルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770-1827)が「弦楽四重奏曲第13番変ロ長調作品130」の最終楽章(第6楽章)として作曲し、1826年春にシュパンツィク弦楽四重奏団により初演されました しかし、この楽章だけ「長大で難解だ」という批判を受け、作品130から外され 作品133「大フーガ」として独立することになりました その後、ベートーヴェンは「プレスト」の第6楽章を作曲しています 私はこの「プレスト」が「大フーガ」と同じように好きです

シュトイデの合図で演奏が開始されます プログラムの1曲目から「大フーガ」とは余程の自信があるのだろうと思いますが、4人はバッハが基礎を作ったフーガの集大成とでも言うべき「大フーガ」を築き上げていきます ストイックな緊張感が会場を満たします。厳しくも美しい演奏でした

2曲目はシューベルト「弦楽四重奏曲第14番ニ短調作品810”死と乙女”」です この曲は、フランツ・シューベルト(1797‐1828)が1824年に作曲した作品です この曲が「死と乙女」という愛称で呼ばれているのは、第2楽章の変奏主題に病床にある少女と死神との対話を綴った自作の歌曲「死と乙女」の旋律が使われているからです 第1楽章「アレグロ」、第2楽章「アンダンテ・コン・モート」、第3楽章「スケルツォ:アレグロ・モルト」、第4楽章「プレスト」の4楽章から成ります

シュトイデの合図で第1楽章が開始され、冒頭 緊迫した音楽が迫ってきます 何かを駆り立てるような切迫感のある音楽です 第2楽章冒頭の美しさを湛えた静謐な音楽を聴いていて、私はジョン・エヴァレット・ミレーの「オフィーリア」(1851‐52年)を思い浮かべていました これはオフィーリアが溺れる前に歌いながら川に浮かんでいる姿を描いた油絵です

第3楽章、第4楽章を含めて全楽章が短調で書かれている「死と乙女」の演奏を4人の演奏で聴いていると、シューベルト特有の同じメロディーの繰り返しが、しつこく感じません  これは4人の半端ない集中力と技量の高さによるものに他なりません 第1ヴァイオリンのシュトイデとチェロのヴォルフガング・ヘルテルが特に素晴らしいのですが、第2ヴァイオリンのアデラ・フラジネアヌも存在感を主張しています このメンバーで固定してはどうでしょうか


     


プログラム後半はドヴォルザーク「ピアノ五重奏曲第2番イ長調作品81、B.155」です この曲はアントン・ドヴォルザーク(1841‐1904)が1887年8月18日から同年10月8日にかけて作曲し、1888年1月6日にプラハで初演された作品です これに先立ち、第1番作品5が1872年に作曲されましたが、演奏される機会がほとんどないので、一般的に ドヴォルザークの「ピアノ五重奏曲」と言えばこの第2番を指すことが多いです

第1楽章「アレグロ・マ・ノン・タント」、第2楽章「ドゥムカ:アンダンテ・コン・モート」、第3楽章「スケルツォ:フュリアント:モルト・ヴィヴァーチェ」、第4楽章「フィナーレ:アレグロ」の4楽章から成ります

ピアノの小林有紗とシュトイデ・クァルテットのメンバーが登場し配置に着きます

第1楽章冒頭、ピアノに導かれてチェロが朗々と演奏されますが、このチェロが素晴らしい 間もなくテンポが速くなり、ピアノと弦楽四重奏が絡んで演奏が展開します 第2楽章はスラヴ舞曲「ドゥムカ」の形式によります。ピアノに次いでヴィオラが何かを懐かしむように奏でられますが、ここでヴィオラのエルマー・ランダラーが存在感を示しました 第3楽章はテンポの速い喜びに満ちた曲想です。第4楽章もその流れを受け継ぎ、屈指のメロディーメーカーであるドヴォルザークの民族色に溢れた音楽を展開します

全体を通して感じたのは、小林有紗による自らの役割をわきまえたピアノ演奏です 弦楽四重奏の音を消すほどの強音を出すこともなく、かといって弦楽四重奏の音に埋もれることもなく、適度な距離を置いて演奏していたのが強く印象に残りました

鳴り止まない拍手とブラボーに5人は、今演奏したばかりのドヴォルザークの第3楽章「スケルツォ」をアンコールに演奏し再度大きな拍手を浴びました

 

     

 

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大友直人✕片山杜秀による対談「クラシックに未来はあるか」を読んで思うこと~『中央公論』11月号の特集から / シネマ歌舞伎「法界坊」を観る~中村勘三郎、笹野高志、片岡亀蔵の快演

2018年10月19日 07時31分14秒 | 日記

19日(金)。新日本フィルから「第596回定期演奏会ジェイド、特別演奏会:第7回サファイア公演に関するお知らせ」というハガキが届きました 内容は10月27日(土)ジェイド(サントリーホール・シリーズ)と28日(日)の特別演奏会:第7回サファイア(横浜みなとみらいシリーズ)公演では、1曲目のブルックナー「交響曲第9番」と2曲目の同「テ・デウム」の間には休憩がないので、開演時間を過ぎてから来場するとチケット記載の席で聴けない恐れがあるので注意してほしい、というものです 上記の2曲を連続して演奏するのは決して珍しいことではありません オーケストラ公演でよくある「お知らせ」は、指揮者やソリストが変更になったのであらかじめ承知してほしいというものですが、曲の間に休憩が入らないという事前通知は珍しいかも知れません こうした配慮は、予想されるトラブルを事前に防いで定期会員離れを防ぐコンプライアンスの一環だと思います ハガキ代等のコストがかかっても 会員が減るよりはマシだという判断でしょうが、オーケストラ運営は大変ですね

ということで、わが家に来てから今日で1477日目を迎え、財務省は18日、来年3月18日から発行する千円札から、記号と番号の色を褐色から紺色に変えると発表したが、これはアルファベット3文字と数字6ケタを組み合わせた129億6千万通りを全て使ってしまうためである というニュースを見て感想を述べるモコタロです

 

     

                     現在 12,960,000,000 枚の褐色の記号・番号の1000円札が出回ってるわけだね

 

         

 

昨日、夕食に「豚肉と大根の炒め煮」と「湯豆腐」を作りました 「大根~」はかなり煮込んでいるので味が浸み込んで美味しいです

 

     

 

         

 

昨日、東銀座の東劇でシネマ歌舞伎「法界坊」を観ました この夏から秋にかけて東劇で上映していた「METライブビューイング  アンコール2018」の時に"予告"を観て、面白そうだと思ったので当日券を買ったものです

この公演は2008年(平成20年)11月に浅草寺境内の平成中村座で開かれた公演のライブ録画映像(ライブビューイング)です

東劇のホームページの「作品紹介」によると「法界坊」のストーリーは次の通りです

「金と女が大好きな法界坊(18代目 中村勘三郎)は、どこか憎めない愛嬌溢れる乞食坊主 永楽屋の娘お組(扇雀)に恋い焦がれる法界坊は、盗まれた吉田家お家の重宝「鯉魚の一軸(りぎょのいちじく)」を お組と恋仲である手代の要助(実は、吉田宿位之助松若=よしだとのいのすけまつわか=勘九郎)が探し求めていると知る。いい金づるを見つけた欲深い法界坊に、永楽屋番頭の正八(亀蔵)や山崎屋勘十郎(笹野高史)らも加わり、鯉魚の一軸を巡る悪だくみが繰り広げられる 一度は道具屋甚三郎(実は𠮷田屋の忠臣・芝翫)にやり込められ散々な目に遭った法界坊だったが、お組の父 永楽屋権左衛門(彌十郎)と松若の許婚の野分姫(七之助)らも巻き込み、さらに数々の悪行を行う 幕が変わり、最後に大切所作事「双面水照月(ふたおもてみずにてるつき)」の場面では、法界坊と野分姫の霊が合体したお組そっくりな葱売りの女(勘三郎)が出現し、徐々に本性を現しながら舞踏劇を展開する

 

     

 

これは本当に楽しいライブビューイングでした まず第一に、アドリブ満載の中村勘三郎の法界坊には笑ってしまいます 彼に負けず劣らず可笑しかったのは山崎屋勘十郎を演じた笹野高史です。顔と身体で演技していました そして、柔らかい身体を生かして柔軟体操のような演技を見せた番頭正八役の片岡亀蔵も大きな笑いを誘っていました 

18代目中村勘三郎は2012年12月5日に死去しましたが、その4年前のこの公演では二人の息子(勘九郎と七之助)と共演し、ライブビューイングとして映像が残されているのは良かったと思います それにしても中村七之助が演じた花園息女野分姫の何と美しかったことか

途中休憩15分を含めて165分の上映はあっという間に過ぎました チケット代2,100円は決して高くありません

 ところで、「歌舞伎」ということで思い出すのは、初めて歌舞伎を観た時の興奮です 70年代半ば、新聞関係団体に入職して1~2年くらいの時のことでした。アメリカの新聞記者約10人を日本に招いて日本の現況を理解してもらうプロジェクトがあり、講師を招いてのレクチャーから観劇・国内旅行まで私が彼らに同行し お世話することになりました その時、アメリカ側の希望により 東銀座の歌舞伎座での歌舞伎鑑賞がプログラムに組まれたのです  出し物は「児雷也豪傑譚(じらいやごうけつものがたり)」です。これは、主人公の盗賊・忍者「児雷也」が宿敵「大蛇丸(おろちまる)」を相手に戦う物語ですが、児雷也が巨大なガマに跨って出てきたり、大蛇が出てきたり、いろいろな動物に早変わりで変身したりと、実にビジュアル的に楽しい歌舞伎でした 原色による鮮やかな衣装や舞台とも相まって、アメリカの記者たちは大喜びでした 最初に観た歌舞伎が「児雷也~」だったのが幸いし、私も歌舞伎が好きになりました ただ、当時からクラシックを聴いていたので、もしここで趣味の守備範囲を広げると、とことん のめり込むタイプなので泥沼状態になると恐れ、足を踏み入れることはしませんでした そのため、その後 歌舞伎を観たのは一度だけです しかし、歌舞伎は日本最高のエンターテインメントです その魅力には抗しがたいものがあります

 

     

 

         

 

17日に続いて『中央公論』11月号の特集「クラシック音楽に未来はあるか」の第2弾をご紹介します 指揮者・大友直人氏と思想史研究家・音楽評論家の片山杜秀氏による対談は、題して「助成金の先細り、観客の高齢化・・・マエストロと考える危機の乗り越え方」です

大友直人氏は1958年東京都生まれ。桐朋学園卒。22歳で楽団推薦によりNHK交響楽団を指揮してデビュー。現在、群馬交響楽団音楽監督、東京交響楽団名誉客員指揮者、京都市交響楽団桂冠指揮者、琉球交響楽団音楽監督

片山杜秀氏は1963年宮城県生まれ。慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程単位取得退学。2013年より慶應義塾大学教授。著書に「音盤考現学」「音盤博物誌」(両書で吉田秀和賞・サントリー学芸賞)など

 

     

 

片山氏は日本経済新聞に「クラシックの未来」というテーマのエッセイを寄せていますが(2018年2月12日付の当ブログ参照)、それを踏まえて次のように語ります

「そもそもオーケストラやオペラなどの大人数の出演者を要するクラシックの公演は、満員になって、チケット収入があっても、ペイしない構造になっている 100人のオケが2000人の聴衆を相手に演奏し、独唱と合唱とオケを合わせて200人で1500人の観客を前にオペラを演奏する。ポップスのコンサートなどと比べて効率が悪い だから、公共や民間の助成を受けないと成り立たない。助成が大幅に減額されたら、たちまち存続できなくなってしまう もう一つの危惧は、オーケストラの観客が高齢化していることだ 自分が中高生の時とはそこが全然違う。観客の年齢層に合わせて、オペラも夜だけでなく平日の昼にもやるようになっているが、今クラシックの演奏会に行っている人たちの足腰がたたなくなったら、N響だって都響だって定期演奏会の会場がガラガラになるのは目に見えている

これは根本的な問題です チケット代だけではオーケストラやオペラは経営が成り立たないという事実は、あまりにも一般の人たちに理解されていません ただ、主催者側はそういうことをアピールする努力をどれほどやっているでしょうか。「是非寄付をしたい」と思わせるようなパフォーマンスをやっているでしょうか

なお、この特集では 日本のオーケストラの収支構造を①大きなスポンサーをもつ東京のオーケストラ(N響、読響)、②大きなスポンサーをもたない東京のオーケストラ(新日フィル、東響)、③大きなスポンサーをもつ地方のオーケストラ(名古屋フィル、大坂フィル)、④大きなスポンサーをもたない地方のオーケストラ(京都市響、オーケストラ・アンサンブル金沢)の別に実額ベースで明らかにしています 非常に興味深い内容になっていますが、詳細をお知りになりたい向きは『中央公論』11月号をご購入下さい

片山氏はさらに、「世代による価値観の変化は確かにある」として、橋本徹氏が大阪府知事になり大阪センチュリー交響楽団の補助金を打ち切ったことを例に挙げます そして、

「昔なら、江戸英雄、佐治敬三、堤清二といった、数字とは別のところで判断する経営者がいたが、今だと楽天の三木谷浩史氏のように理解のある人はいるものの、次の世代に誰がいるのかと考えると、たぶんいない

と指摘しています

残念ながら、指摘の通り誰もいません。今はやりの経営者は自ら宇宙旅行に行くことには いくらでも大金を使いますが、文化を支えようとはしません

大友氏は「クラシック音楽の地位の低下」について次のように語っています

「いま日本のオーケストラが『弱く』なってきているような気がする 昔に比べて機能性は上がり、柔軟性も出てきているが、確固たる『音』がない サウンドに対する感性が弱い。日本のオケは器用だと思う。難しいリズムでも難しい音型でも、それを短時間で演奏できるプレーヤーがこれだけ揃っている一流のオケがいくつもある国は少ないと思う しかし、世界にはもう一段上の超一流というものがあって、超一流と一流の差は、一流と二流の差より大きい 日本人は優れた感性を持っている。それをもっと磨いていくべきだ。今や日本のアニメは世界を席巻しているが、日本の漫画家たちは世界の読者を相手に描いているかといえば全然逆で、目の前の自分たちの読者を離さないために必死に描いている そういうことが芸術の分野で誰にも見えなくなっているような気がする

大友氏の「確固たる『音』がない。サウンドに対する感性が弱い」というのは、本当にその通りだと思います 私なりの解釈では「そのオーケストラ独自の音がない、カラーがない、つまり個性がない」ということだと思います。例えば、目隠しテストで、あるオーケストラが演奏して、「どのオーケストラが演奏したか当てよ」という問題が出されたら、自信を持って 私には正解する自信がまったくないと言えます どのオーケストラを聴いてもそれほど違いはなく、同じように聴こえるからです 個人的な経験から言えば、私はかつてドレスデン国立歌劇場管弦楽団(スターツカペレ・ドレスデン)の演奏する曲がラジオから流れてきたら、「これはドレスデンの音だ」と当てることが出来ました 他のオーケストラにない独特の”サウンド”を持っていたからです 今の在京オーケストラにこのような個性を持ったオケは残念ながらありません もし「ある」と言う人が少なくないのなら、私の耳が悪いのだと思います また、「世界にはもう一段上の超一流というものがあって、超一流と一流の差は、一流と二流の差より大きい」という指摘は、超一流と一流と二流の演奏をすべて聴いた人にしか言えないセリフです しかし、クラシック愛好家に限ってみても、これらの差が分かる人、とくに超一流と一流の差が分かる人はどれくらいいるのでしょうか   また、オーケストラの皆さんはこういう特集記事を読んでいるのでしょうか 読んでいるとすれば、どう思っておられるのでしょうか

大友氏は「日本人が西洋音楽を演奏することの意味」について次のように語っています

「斎藤秀雄先生はよく『日本人は見方によってはとても有利だ』と言われていた つまり日本人は素地がないだけに、ドイツ人が演奏するフランス音楽よりもフランス的に、フランス人が演奏するドイツ音楽よりもドイツ的に演奏することが出来るかも知れない、そういう柔軟性を持っていると。これは当たっていると思う 日本人は歴史的にも文化的にも、あらゆるものを受け入れ、取り入れ、咀嚼することができる民族かも知れない。その意味で、日本人が西洋音楽をやる上での強みはある

「柔軟性」とは便利な言葉ですが、別の言葉に置き換えれば「器用貧乏」ということではないかと思います

大友氏は千住明氏や三枝茂彰氏のオペラを積極的に上演していますが、「日本にオペラは根付かないのか」という問題について次のように語ります

「日本の音楽家としての自分にとって最高に価値のある、意味のあることは何かと考えた時、それは日本のオペラの新作ではないか、と思った 本来、ブルックナーやマーラーのシンフォニーをコンサートホールの椅子に座って2時間聴くことより、オペラを観る方がずっと簡単なはずだ オペラは平たく言えばエンターテインメントの歌芝居だ。日本にオペラを根付かせたいのであれば、日本の日本語によるインパクトのある現代作品を上演することだ モーツアルトやワーグナー、プッチーニばかりやっていて、劇場を連日満員にするなんて、未来永劫そんなことは起こらない そんな認識も持てないまま、オペラ劇場を運営する状況が続いていること自体おかしい。今度、新国立劇場のオペラ芸術監督が大野和士君になったので期待したい

たしかに日本人による日本語のオペラの方がストレートに歌の真意が伝わってきて理解しやすいと思います 新国立オペラでいくつも日本人によるオペラを観てきましたが、團伊玖磨作曲「夕鶴」は言うまでもなく、いまだに瀬戸内寂聴原作、三木稔作曲によるオペラ「愛怨」(2006年)は素晴らしかったと思うし、遠藤周作原作、松村貞三作曲による「沈黙」(2012年)も印象深いものがありました その意味では、新国立オペラの今シーズンの西村朗作曲「紫苑物語」には大いに期待しています

 

     

 

「文化を経営する」ことについて、片山氏は次のように語ります

「クラシック音楽は大事なものだという社会的コンセンサスが弱ってきて、公共にもお金がなくなって、クラシック音楽界に対する補助を減らしても、まあしょうがないんじゃないか、という空気が充満している おそらく残るのは、超一流とセミプロとアマチュアだけになるのではないか、という恐怖がある 歌舞伎のような伝統芸能は残していかなけばならないけど、それ以外は勝手にやってください、となりかねない

これに対し 大友氏は、

「歌舞伎は凄いと思う。歴史的には山あり谷ありで、興行的にもかなり厳しい時代があったと聞くが、公的助成を受けていない クラシック音楽界はもっと見習わなくてはいけない

と述べます。これを受けて 片山氏は、

「国立劇場が出来てからは、研修所なんかには公共のお金が入っているが、基本的に歌舞伎座は松竹の興業だ

と語ります。大友氏は、

「歌舞伎は看板役者はだんだん代わっていくが、いつの時代も、皆ちゃんと看板に育っていくし、仕立てていく それに比べてクラシックはどうなのか。看板がない 看板がどれだけ大事かという認識を持つオーケストラマネージャーや劇場支配人がいなくなってしまったのかもしれない。それを含めて歌舞伎は勉強になるはずだ クラシック音楽界をリードする人、自分の確固たる哲学を持ったオーケストラマネージャーを育てていかなければらない

と語り、昭和20年代後半から30年代初頭までN響にあった指揮研究員制度で、岩城宏之、外山雄三、若杉弘といった名指揮者が巣立っていったことを紹介しています その上で、

「今の中学生や高校生の中から次代を担う人材が生まれてくるかもしれない。これからも 出来るだけ若い人と接触する機会を持つようにしたい

と語っています。中高年層を相手にしていてはもう間に合わない、という危機感が垣間見られます

そして、寄付制度について大友氏は、

「いまの日本の社会は、基本的に文化活動に興味がない   それはオーケストラや美術館の展覧会がどういう背景によって成り立ち、どういう歴史があるのか、どういう財源によって維持されているのかという認識が、人々の中にないからだ    メトロポリタン美術館や大英博物館に行くと、至るところに『寄付をお願いします』と書いてあるので、子供の頃からオペラ劇場や美術館は寄付がないと存続できないことを自然に覚えると思う。日本にはそういう認識が薄い」 

と指摘しています。主張は理解できますが、日本はチケット代が高いと思います 1つでも多くのコンサートを聴きたいと思う身からは「寄付を考えるまでの余裕がない」というのが正直なところです 料簡が狭くてごめんなさい

大友氏は最後に、

「あらゆるジャンルの音楽のもととなっているクラシックのエネルギーを絶やしてはいけないし、これからはむしろそれをさらに強いものにしていけるはずだと信じている

と結んでいます

さて、クラシックに未来はあるのでしょうか 二人の対談で明らかになった問題点を解決した先に 未来は開けるのだと思いますが、さて そうした未来は近いのでしょうか

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岸本葉子著「エッセイの書き方 読んでもらえる文章のコツ」を読む / 村田沙耶香「コンビニ人間」、伊坂幸太郎「陽気なギャングは3つ数えろ」、米澤穂信「王とサーカス」他を買う

2018年10月18日 07時41分17秒 | 日記

18日(木)。わが家に来てから今日で1476日目を迎え、米財務省は15日、2018会計年度(17年10月~18年9月)の財政赤字が前年比17%増の7790億ドル(約87兆円)となったと発表したが、これはトランプ政権の減税による6年ぶりの赤字幅である というニュースを見て感想を述べるモコタロです

 

     

                 公約実現のための結果だけど 赤字を理由にトランプがまた攻勢をかけてくるか?

 

         

 

昨日、夕食に「豚バラ肉のエリンギ炒め」と「シメジとキャベツの中華スープ」を作りました 秋はキノコ料理がいいですね

 

     

 

         

 

性懲りもなく 本を5冊買いました   1冊目は伊坂幸太郎著「陽気なギャングは3つ数えろ」(祥伝社文庫)です 伊坂幸太郎の作品は文庫化されるたびに当ブログでご紹介してきました これは「陽気なギャングが地球を回す」(2003年)、「陽気なギャングの日常と襲撃」(2006年)に次ぐ9年ぶりのシリーズ第3作です

 

     

 

2冊目は米澤穂信著「王とサーカス」(創元推理文庫)です 米澤穂信の作品も文庫化されるたびに当ブログでご紹介してきました

 

     

 

3冊目はジェフリー・アーチャー著「嘘ばっかり」(新潮文庫)です ジェフリー・アーチャーの作品は、クリフトン年代記(第1部~第7部)をはじめ、ほとんどすべての作品をご紹介してきました この作品は15の短編から成り、前の短編集「15のわけあり小説」から7年経っての刊行となります

 

     

 

4冊目は村田沙耶香著「コンビニ人間」(文春文庫)です ご存知「芥川賞」受賞作です

 

     

 

5冊目は橋本忍著「複眼の映像 私と黒澤明」(文春文庫)です 日本で一番有名な脚本家・橋本忍氏が黒澤映画の舞台裏を描いた作品です

 

     

 

いずれも読み終わり次第、このブログでご紹介していきます

 

         

 

岸本葉子著「エッセイの書き方 読んでもらえる文章のコツ」(中公文庫)を読み終わりました。岸本葉子さんは1961年鎌倉市生まれ。東大教養学部卒。エッセイスト。会社勤務を経て中国北京に留学。著作に「がんから始まる」「生と死をめぐる断想」など多数あります

 

     

 

著者は「序章」で、「エッセイを書くことを仕事として30年ほどになるが、エッセイの方法を体系的に学ぶ機会はなかった」と告白しています そして、「これから行うのは、エッセイを書くとき、頭の中で起きていることを、自分で捉え直し、分析し、言語化し、整理する作業であり、エッセイする脳を解剖する試みとも言える」と述べています その上で、次のような章立てで話を進めていきます

第1章:テーマは連想の始動装置ー「私」と「公共」の往復運動

第2章:頭にはたらきかける文、感覚にはたらきかける文ー無意識を意識する

第3章:リスク回避と情報開示ー「自分は他者ではない」宿命を超えて

第4章:文を制御するマインドー「筆に随う」はエッセイにあらず

終  章:ひとたび脳を離れたら

すべてをご紹介するわけにはいかないので、私がこの本を読んで「なるほど」と思ったことを中心に書こうと思います

まず最初は「エッセイの基本要件」です

「エッセイとは何か。何をどのように書くものか。非常に簡単な定義だが次のようになる」として

A「自分の書きたいこと」を、

B「他者が読みたくなるように」書く

ことだと書いています

つまり「自分の書きたいことを」「自分が書きたいように書く」のではエッセイにならないということです したがって「読ませる文章でなければならない」ということになります

次に「エッセイにおける起承転結」です

「文章には起承転結があり、『結』がとても大事だと教わってきたと思う しかし、エッセイでは『転』こそが題材であり、『結』はそんなに大事ではない

これを筆者は「ある、ある、へえーっ、そうなんだ」という言葉で置き換えて説明しています 「ある、ある」が『起』『承』であり、「へえーっ」が『転』で、「そうなんだ」が『結』に当たるということです 日常会話がそうなっているとして、次の例文を提示しています

「きのうね、酔っ払って帰ってきてね、けさ家を出ようとしたら鍵がみつからないのよ」(『起』)

「もう、きのう着てた服のポケットとか鞄の中とか、あちこち引っ掻き回して探したのよ」(『承』)

「そうしたら、どこにあったと思う?なんと部屋の外、ドアの鍵穴に挿してあるじゃない。ひと晩そのまっまだったわけよ」(『転』。一番話したかったこと)

「これからは、飲み過ぎに気を付けようとあらためて思ったよ」(『結』)

非常に分かり易い例示ですね

次に「リスク回避と情報開示」の中の「文は短く」です

著者は俳画のエッセイの書き出しを例に次のように説明します

「店などにときどき飾ってありますね。ひと筆がきふうの絵に、句らしきものが添えてある。俳画というものだそう。」

「これは3つの文章から成り立っていますが、一文で続けることもできなくはない」として

「店などにときどき飾ってある、ひと筆がきふうの絵に、句らしくものが添えられているのを、俳画というそうですが・・・」

と書き、「書き出しとしてはつらい長さです。短く切りたいがために、倒置法を用います」と説明しています

自分の書いた文章を後で振り返ってみると、一文が長いことがたびたびあります そのため主語と述語が離れてしまい、意味がストレートに伝わらないこともありました 私の書いているブログは日記であってエッセイではありませんが、そのエッセンスは同じだと思います これからは岸本さんのアドヴァイスを参考に書こうと思います

以上のほか、エッセイを書く時の注意点を具体例を交えて説明しているので分かり易いと思います ブログを書いている方に特にお薦めします

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「クラシックに未来はあるか」~京都大学教授・岡田暁生氏の見解=『中央公論』11月号の特集から / ジャン・ルノワール監督「大いなる幻影」「恋多き女」を観る~早稲田松竹

2018年10月17日 07時22分25秒 | 日記

17日(水)。わが家に来てから今日で1475日目を迎え、東京都品川区の土地を購入しようとした積水ハウス(大阪市)が偽の地主にだまされて約55億円の詐欺被害に遭った事件で、警視庁捜査2課は16日 偽の書類を法務局に提出して土地の所有権を無断で移転登記しようとしたとして、土地所有者の女性に成りすました職業不詳の女性ら数人を偽造有印私文書行使などの疑いで逮捕した というニュースを見て感想を述べるモコタロです

 

     

      東証一部上場の一流企業がだまされたって? コンプライアンスはどこにあるのか

     

         

 

昨日、夕食に「鶏の照り焼き」と「トマトの卵スープ」を作りました。「鶏の~」は河野雅子先生のレシピです。簡単で美味しいです

 

     

 

         

 

『中央公論』11月号が「クラシックに未来はあるか」を特集しています 特集は①「助成金の先細り、観客の高齢化・・・マエストロと考える危機の乗り越え方」=片山杜秀氏と大友直人氏による対談、②「クラシック音楽家よ、まずは芸人たれ ”立派な芸術”だから必要だなんて言えない」=岡田暁生氏の論考、③「西洋音楽という概念を超えて 新作オペラ『紫苑物語』を世界に問う覚悟」=大野和士氏へのインタビュー、の3つから構成されています

 

     

 

ここでは京都大学教授・岡田暁生氏の論考「クラシック音楽家よ、まずは芸人たれ ”立派な芸術”だから必要だなんて言えない」をご紹介します

岡田暁生氏は1960年京都府生まれ。大阪大学助手、神戸大学助教授を経て現職。著書に「音楽の聴き方」(吉田秀和賞)などがあります 当ブログでも「クラシック音楽とは何か」(小学館)をご紹介しました 


     


岡田氏の論考を超訳すると次のようになります

「コンサートの聴衆の高齢化が言われている 昭和高度経済成長期と比べるとクラシック音楽が斜陽産業であることは明らかだ 私が子供だった頃、あちこちの家からピアノの練習が聞こえてきた どうして戦後昭和の日本人がクラシック教育に熱を上げたかといえば、素朴な『教養』への信仰があったのだと思う 少なからぬ数の人々が子どもにピアノやヴァイオリンを習わせていたとすれば、当時のクラシック産業が途方もなく潤っていたのも当然だった そこには「~かぶれ」的な似非教養主義と紙一重のものがあったし、そもそも人々がこぞって地球の裏側の100年以上も昔の音楽の習得に熱を上げるなど、かなりいびつな状況だったことは否定できない だから今どきの政治家が『クラシックへの補助金など必要じゃない!』といった発言をしても、それを頭ごなしに否定は出来ない自分が確かにいる。少なくともそういう発言に対して、『クラシック音楽は立派なものだから必要だ』という理屈で反論を試みても勝てるはずがないと思う クラシック聴衆層が仮に超高齢化の危機に瀕しているのだとして、何より必要なのは『意地でもオレたちの音楽を聴きに来させてやる!』という気合いのようなものだと思う 敢えて言えば、もっと『芸人根性』のようなものをクラシック音楽家に求めたい。芸術家は芸術家である以前にまず芸人であるはず 例えば、20世紀最大のピアニスト、ホロヴィッツがプライベートでピアノを弾いて好き放題に遊んでいるネット動画があるが、彼は超一流の大道芸人だ 一度耳にした聴き手は絶対に次も足を運ぶ、そんな音楽を聴きたい。お仕事としての音楽はまっぴらだ ただし、音楽家をビジュアル・アイドル的に売ることには絶対反対だ。クラシック音楽はその核に『音楽』があってのものだ。ヴィジュアル面で『芸人』するのではなく、音楽そのものによって『芸』を見せてほしい 個人的な経験を言えば、10年くらい前にドレスデンのオペラ劇場でR.シュトラウス「無口な女」を観たとき、100人のオケと歌手に対し聴衆は50人くらいしかいなかった それでも彼らは『せっかく来てくれたお客さんだから、せめて彼らにはいつにも増して満足してもらおう』という心意気が伝わってくるようなテンションで演奏してくれた 一流の音楽家はお仕事観をまったく感じさせない。彼らは聴衆が少しであっても、『来たお客は絶対に逃さない』と言わんばかりの根性を見せる。そこには『芸術=立派なもの』といった”上から目線”は存在しない。クラシックの未来は明るくない いつ絶滅の時が来ても不思議ではない。そうであるならば、今こそがその時であるかのように、夜ごと美しき刹那の夢を聴かせてほしい

私がこの論考を読んで一番共感を感じたのは、「一度耳にした聴き手は絶対に次も足を運ぶ、そんな音楽を聴きたい。お仕事としての音楽はまっぴらだ」というフレーズです 私はコンサートを聴いて、その時の演奏が心の底から良かったと思うかどうかについて「もう一度、今の演奏を聴きたいか」という基準を持っていますが、それと同じことでしょう

岡田氏が例に挙げたドレスデンのオペラ劇場での経験と似たようなケースいうことで言えば、つい先日聴いた「オイストラフ弦楽四重奏団」のコンサートがまさにそうでした   聴衆は5割から多くても6割くらいの低調な入りでしたが、最後のメンデルスゾーンを白熱の演奏で終え、聴衆の熱狂的な拍手を受けてアンコールに演奏したバルトーク「ルーマニア民族舞曲」は入魂の熱い演奏で、さらに自国の作曲家チャイコフスキーの曲まで演奏したのでした   あの時は 彼らの「来たお客には いつにも増して満足してもらおう」というプロ根性を感じました 

 

         

昨日、早稲田松竹で「大いなる幻影」と「恋多き女」の2本立てを観ました

「大いなる幻影」はジャン・ルノワール監督・脚本による1937年フランス映画(白黒・114分・デジタル修復版)です

ドイツ軍に撃ち落とされ捕虜となったフランス飛行隊のマレシャル中尉(ジャン・ギャバン)とド・ボアルデュー大尉(ピエール・フレネー)は脱走を繰り返した挙句、脱出不可能と言われる古城の将校捕虜収容所に送られる そこで署長を務めていたのは、かつて2人を撃ち落としたドイツ貴族ラウフェンシュタイン大尉(エリッヒ・フォン・シュトロハイム)だった。同じ貴族階級のド・ボアルデューとラウフェンシュタインは親交を深めていくが、マレシャルやユダヤ人ローゼンタール中尉(マルセル・ダリオ)の新たな脱走計画は着々と進められる ド・ボアルデューがドイツ兵を引き付けている間に、マレシャルとローゼンタールは窓からシーツで作った縄で脱出を図る ド・ボアルデューはラウフェンシュタインの銃に倒れ、マレシャルとローゼンタールは酪農を営む未亡人エルザの家に匿われる マレシャルとエルザはお互いに愛し合うようになるが やがて別れの時がやってくる

 

     

 

この映画はその昔一度観た記憶がありますが、今回あらためて観て、まったく内容を覚えていないことを自覚しました 初めて観たようなものでした

「大いなる幻影(仏題:La Grande Illusion)」は、マレシャルとローゼンタールの会話からとられています マレシャルが「この戦争が終わったら エルザを迎えにここに戻ってくるんだ」と言うと、ローゼンタールは「それは幻影だよ」と返します。つまり、「戦争はそう簡単に終わるわけがない」ということを暗示しています

貴族ということで、最初のうちは仲間から信用されていなかったド・ボアルデュー大尉は、ドイツの貴族ラウフェンシュタイン大尉と心を通わせますが、自分の立場を見極め、最後は自分が犠牲になって仲間二人を逃がします 戦争さえなければラウフェンシュタインは引き金を引くことはなかったし、ド・ボアルデューは死ぬことはなかった ルノワール監督がこの映画を通して言いたかったことは、そうした戦争の不条理だったと思います

ところで、この映画の冒頭近く、マレシャルとド・ボアルデューがドイツ軍の元に連行され、ラウフェンシュタインらと食事をするシーンがありますが、その時レコードから流れたのはヨハン・シュトラウスのワルツ「ウィーンの森の物語」だったと思います   当時オーストリア・ハンガリー帝国はドイツ帝国の同盟国でしたから不思議ではありませんね

 

         

 

「恋多き女」はジャン・ルノワール監督・脚色による1956年フランス映画(99分・デジタル修復版)です

時は20世紀初頭。パリでは7月14日の革命記念日に沸いている。夫に先立たれ財産も底をついた美貌のポーランド公女エレナ・ソロコフスカ(イングリット・バーグマン)は、富豪の実業家マルタン=ミショー〈ピエール・ベルタン)との縁談を進めていた そんな中、パレードの群衆の中で、アンリ・ド・シュバンクール伯爵(メル・ファ―ラ―)と出会ったエレナは、アンリの親友で国民的人気を誇るフランソワ・ロラン将軍(ジャン・マレー)のもとを訪れる アンリとロランとマルタン=ミショーの3人の男たちがエレナに心を奪われる中、彼らの行動はフランスの国家体制を揺るがしていく その運命はエレナの純真な心に委ねられていた

 

     

 

この映画はベル・エポックのパリを舞台に描いた恋愛喜劇です イングリット・バーグマンと言えば「カサブランカ」(1942年)の白黒映画のイメージが強すぎて、カラーで観る彼女はまるで別人に見えました

喜劇なので楽しいのですが、登場人物が多くテンポが速いので追いついていくのが大変でした なお、この映画ではジプシー娘ミアルカにシャンソン歌手ジュリエット・グレコが扮しています。当時彼女は女優としても活躍していたのですね

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相場英雄著「不発弾」を読む~バブル経済期に活躍したフリーランス証券マンの暗躍物語 / Koki が新聞広告に登場~新聞週間キャンペーン / 11月23日はコメ二ケーションの日?~久々の路上考現学

2018年10月16日 07時20分43秒 | 日記

16日(火)。昨日 朝刊を読んでいたら 若い女性の顔写真アップの全面広告が目に飛び込んできて「なんだ これは 」と思いました    紙面の右上にはひらがな一文字とナンバー(朝日は「な」No.31 、日経は「よ」No.29 )が表示され、紙面の左下には「#にほんをつなげ74 10月15日からは新聞週間」とあり、その右側に「朝日新聞✕日本新聞協会」(日経はNIKKEI✕日本新聞協会)と表示されています  

この全面広告は日本新聞協会による新聞週間にちなんだ広告で、15日に協会加盟社のうち全国の74紙に掲載されたそうです ナンバーの順番通りに文字をつなぐと、1つのメッセージになるとのことです ネットの情報によると、写真の女性は俳優・木村拓哉と歌手・工藤静香の次女でモデルの Koki とのこと。子機・・ 古記・・ 古希・・ ???  テレビも週刊誌も見ない私にはまったく分かりません

かつてこういう仕事に携わってきた立場から、このような試みが読者、特に若者層の新聞離れを少しでも食い止める手段になればいいと思います

ということで、わが家に来てから今日で1474日目を迎え、トランプ米大統領が14日放送の米CBSのインタビューで、マティス米国防長官の交代について「可能性はある」としたうえで「彼は民主党員みたいだ」と不満も述べた というニュースを見て感想を述べるモコタロです

 

     

       「小学5,6年生並みだ」と 本当のことを言われたのを根に持っているんだろうな

       ヘイリー氏に続きマティス氏が政権を去るとトランプに物言う良心がいなくなる

                

         

 

昨日、夕食に「赤魚の粕漬け焼き」「マグロの山掛け」「アサリの味噌汁」を作りました 週に1度は魚をメインにしないとね   お酒は息子の山形・鶴岡みやげ「ささの舞」です これからはビールに代わって日本酒がメインになりそうです

 

     

 

          

 

久しぶりに「路上考現学」です 近所のお米屋さんで下の掲示を発見しました

 

     

 

しかし、なんで11月23日がコメ二ケーションの日なのでしょうか 

「Wikipedia」によると、11月23日は新嘗祭(にいなめさい) つまり収穫祭で、天皇が五穀の新穀を天神地祇に勧め、また、自らもこれを食して、その年の収穫に感謝する という行事です   お米に関係があったのですね。現在 11月23日は「国民の祝日に関する法律」により「勤労感謝の日」として国民の祝日となっています

正直言って、ギャグが「HAVE  A  RICE  DAY!」と「コメ二ケーション」のどちらか一つだったら、あえてここに取り上げるまでもありませんでした ダブル・パンチが効いていたから良かったのです さらに中央の絵柄は祝日の際に掲げる日本国旗を型取っており、日の丸の代わりに茶碗に盛ったご飯が 赤色で描かれているのも よく考えたなと思います こういうギャグは米国では出来ません

 

         

 

相場英雄著「不発弾」(新潮文庫)を読み終わりました 相場英雄は1967年新潟県生まれ。1989年に時事通信社に入社。2005年に「デフォルト 債務不履行」でダイヤモンド経済小説大賞を受賞してデビュー 2012年にBSE問題を題材にした「震える牛」が大ベストセラーとなり、その後、「血の轍」「ナンバー」「トラップ」などを発表し話題を呼んだ

 

     

 

大手電機メーカーの三田電機は巨額の「不適切会計」を発表する。捜査二課管理官の小堀秀明は、巨額の粉飾決算が明らかになった三田電機が「不適切会計」という言葉を使って問題を矮小化している点に疑問を抱く 調査に当たった第三者委員会が何かを隠していると疑い、背後に巨大な問題が潜んでいると確信する 小堀は、その背後に金融コンサルタント・古賀遼の存在があることを突き止める。古賀は貧しい炭鉱町の暮らしから妹を救うため、場立ち要員として証券会社に就職し、狂乱バブルの経済状況の中、先輩の助言と己の才覚で証券界をのし上がり、フリーランスになって大企業が抱えた「不良債権=不発弾」を処理する特殊な仕事に手を染めていく その間、彼は過去に自分の家族を貶めた男に復讐を遂げる

 

     

 

この小説の舞台となる三田電機が日本を代表する大手電機メーカー東芝であることは容易に想像がつきます 当初、東芝は過去の決算数値の誤りについて、あたかもケアレスミスであるかのような「不適切会計」という言葉を使い、「粉飾決算」や「不正会計」という言葉を避けていました

この本を読むと、1980年代後半から90年代前半にかけての「バブル景気」の中で、証券界や経済界が”金余り”を背景に、「仕組み債」に代表される様々な危うい仕掛けを作り活用していたかが良く分かります そういう意味でも、この本は興味深いものがあります 社会派エンターテインメント小説としてお薦めします

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オイストラフ弦楽四重奏団でハイドン「弦楽四重奏曲第38番”冗談”」、メンデルスゾーン「弦楽四重奏曲第6番」、ショスタコーヴィチ「弦楽四重奏曲第4番」他を聴く~第一生命ホール

2018年10月15日 07時21分07秒 | 日記

15日(月)。わが家に来てから今日で1473日目を迎え、米国の人気歌手テイラー・スウィフトが11月の米中間選挙で野党、民主党への支持を明言し 投票を呼びかけた というニュースを見て感想を述べるモコタロです

 

     

                テイラーは民主党を中間選挙で勝てるように”仕立てる”ことが出来るか? 見もの!

 

         

 

昨日、晴海の第一生命ホールでオイストラフ弦楽四重奏団のコンサートを聴きました プログラムは①ハイドン「弦楽四重奏曲第38番変ホ長調作品33-2”冗談”」、②ショスタコーヴィチ「弦楽四重奏曲第4番ニ長調作品83」、③加藤昌則「There  is .....  There was... Drawing notes of the merory for String Quartet」、④メンデルスゾーン「弦楽四重奏曲第6番ヘ短調作品80」です

20世紀を代表するソ連のヴァイオリニスト、ダヴィド・オイストラフの名前を冠した「オイストラフ弦楽四重奏団」は、エリザベート王妃コンクール優勝者のアンドレイ・バラノフを中心に組織されたクァルテットです メンバーは、第1ヴァイオリン=アンドレイ・バラノフ、第2ヴァイオリン=ロディオン・ペトロフ、ヴィオラ=フェドル・ベル―ギン、チェロ=アレクセイ・ジーリンです

 

     

 

自席は1階6列11番、左ブロック右から2つ目です。会場は5~6割くらいの入りでしょうか。ちょっと寂しいです

4人が登場して配置に着きます。左から第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴォイラ、チェロという並びです

1曲目はハイドン「弦楽四重奏曲第38番変ホ長調作品33-2”冗談”」です   この曲はフランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1732‐1809)が1781年に作曲した6つの弦楽四重奏曲(第37番~第42番)の2番目の曲です この曲が「冗談」の愛称で呼ばれているのは、第2楽章がスケルツォ(冗談、諧謔)と表示されているからです 第1楽章「アレグロ・モデラート」、第2楽章「スケルツォ:アレグロ」、第3楽章「ラルゴ・エ・ソステヌート」、第4楽章「フィナーレ:プレスト」の4楽章から成ります

4人の演奏で第1楽章に入りますが、冒頭の演奏を聴いただけで、このクァルテットは表情が豊かだな、と思いました つい4日前に聴いたウィーン・ニコライ弦楽四重奏団のハイドン(第77番)の演奏と比べると、同じハイドンでもまったくアプローチが異なるように感じます この印象は最後の第4楽章に至るまで変わらず、オイストラフSQの方がある意味 明るくユーモアを感じさせるハイドンらしい演奏だと思います

第4楽章のフィナーレは、主題旋律が途中のまま終わってしまい、肩透かしを食うところが いかにもハイドンらしい「ジョーク」に思え、こちらの方が愛称の根拠として相応しいような気がしました

2曲目はショスタコーヴィチ「弦楽四重奏曲第4番ニ長調作品83」です    この曲はドミトリ・ショスタコーヴィチ(1906‐1975)が1949年に作曲し、53年に公開初演されました 第1楽章「アレグレット」、第2楽章「アンダンティーノ」、第3楽章「アレグレット」、第4楽章「アレグレット」の4楽章から成ります

全楽章を通して力強くも穏やかなメロディーが続きます あらためて各楽章の表示を見ると「アレグロ」が一つもありません 丸山瑶子さんの「プログラム・ノート」によると、ショスタコーヴィチは1949年にソ連を代表して「世界平和文化科学会議」に出席するためアメリカに派遣されますが、この時、バルトークの弦楽四重奏曲に刺激を受けたようです なるほど聴いているとバルトークの影響があるように感じます その部分を含めて素晴らしい演奏です 

なお 上記の会議は、10月12日のブログでご紹介した東京藝大「バーンスタインのアメリカ」公演で、福中冬子藝大教授のレクチャーに出てきた会議で、アメリカからはコープランドとバーンスタインが出席しています


     


4人が揃ったところでプログラム後半に入ります ここで初めて、私は第1ヴァイオリンのアンドレイ・バラノフだけが電子楽譜を使用していることに気が付きました フット・スイッチを踏むだけで”ページめくり”が出来るので 特にめくる暇もないほど速くて音符の多い曲を弾く時は欠かせないのでしょう IT化の波はクラシック音楽界にも着実に押し寄せています

後半最初の曲は加藤昌則「There  is .....  There was... Drawing notes of the merory for String Quartet」です 加藤昌則氏は かつて2度文京シビック小ホールで「クラシック音楽入門講座」のレクチャーを聴いたことがあるので、親近感を感じます

「プログラム・ノート」にある本人の解説によると、「タイトルは『今ある、かつてあった』という意味の英題で、目には見えないけれど、空間の中にフラッシュバックのように蘇る過去の様々な記憶を音楽に表現した作品」とのことです

4人はピッツィカート、グリッサンドなどの技巧を駆使し、弦楽器だけで様々な音色の音楽を奏でていきます 現代音楽にしては聴きやすい曲で、時にバルトーク風であったり、伊福部昭風であったりして、作品自体を楽しむことが出来ました こういう現代音楽なら歓迎します

プログラムの最後はメンデルスゾーン「弦楽四重奏曲第6番ヘ短調作品80」です そもそも私がこのコンサートを聴こうと思ったのは、プログラムにこの曲があったからです この曲はフェリックス・メンデルスゾーン(1809‐1847)が1847年9月に完成、10月に私的に初演されました 第1楽章「アレグロ・ヴィヴァーチェ・アッサイ」、第2楽章「アレグロ・アッサイ」、第3楽章「アダージョ」、第4楽章「フィナーレ:アレグロ・モルト」の4楽章から成ります

4人の演奏で第1楽章に入ります。冒頭、激しいトレモロが「いま目の前に差し迫っている危機」的な緊迫した情景を描き出します メンデルスゾーンに何があったのか

実は、この曲が完成する約4か月前の1847年5月14日、姉ファニー・メンデルスゾーン=ヘンゼルが脳卒中で死去したのです 最愛の姉の死は弟フェリックスにとっては大きな打撃となり、しばらく作曲活動に空白期間が続きます そして、同年7月6日に「弦楽四重奏曲第6番」の作曲に着手、9月に完成します しかし、フェリックスは同年11月4日 発作を起こし、姉の後を追うように天国に召されたのです 38年の人生でした

4人の演奏で聴く第1楽章「アレグロ・ヴィヴァーチェ・アッサイ」は慟哭の音楽です 姉を失ったやり場のない悲しみを音楽にぶつけています。第2楽章も同様の曲想で、悲しみが疾走しています 第3楽章「アダージョ」は自らを慰めているかのようです。第4楽章「アレグロ・モルト」は再び慟哭の音楽が展開し、やり場のない悲しみが爆発します ここで彼は持てる力をすべて出し切ってしまったのでしょう

素晴らしい演奏でした このクァルテットは第1ヴァイオリンが他の3人を引っ張っていくタイプの四重奏団だと思いますが、それぞれの演奏レヴェルが高く”聴かせる力”を持ったグループだと思います

会場いっぱいの拍手に、バルトーク「ルーマニア民族舞曲」を鮮やかに演奏、それでも鳴り止まない拍手に、チャイコフスキー「甘い夢」を演奏し、再び大きな拍手を浴び コンサートを締めくくりました   今回のコンサートで彼らの実力は分かったので、次回コンサートを開く際には より多くの聴衆が集まることでしょう

 

     

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下野竜也✕東京交響楽団でベートーヴェン「交響曲第5番”運命”」、「交響曲第6番”田園”」を聴く~オペラシティシリーズ第106回公演 / 飯守泰次郎✕新交響楽団によるワーグナーのチケットを取る

2018年10月14日 07時21分55秒 | 日記

14日(日)。ここだけの話ですが、昨日は私の誕生日でした 夜 娘が「ステーキのエリンギ・舞茸・パプリカ添え」と「オニオン・スープ」を作ってくれました 普段は私が料理をしているので、1年に1回くらいは料理してくれてもいいよね と本人には言わないで ありがたくいただきました

 

     

 

娘が用意してくれたお花を見ながら デザートに FRENCH POUND HOUSE のショートケーキをいただきました 今年は息子が地方勤務で不在なので ホール・ケーキでなくカット・ケーキになりました

 

     

 

ということで、わが家に来てから今日で1472日目を迎え、インターネット交流サイトのフェイスブック(FB)から全世界で約5千万人分の情報が流出したおそれが出ていた問題で、米FB社は12日 最新の調査で約2900万人分の氏名や連絡先などの個人情報が盗まれていたことが分かったと発表した というニュースを見て情報を提供するモコタロです

 

     

       自分の情報が漏れたかどうかはFB社のヘルプセンターで確認できるそうだよ  

 

         

 

来年1月20日(日)午後2時から東京芸術劇場コンサートホールで開かれる新交響楽団第244回演奏会のチケットを取りました ワーグナーの歌劇「トリスタンとイゾルデ」から第1幕への前奏曲、第2幕全曲、第3幕第3場が演奏会形式で上演されます 出演は、トリスタン=二塚直紀、イゾルデ=池田香織、マルケ王=佐藤泰弘、ブランゲーネ=金子美香、クルヴェナール=友清崇、メロート=今尾滋、牧童=宮之原良平、舵取り=小林由樹、管弦楽=新交響楽団、指揮=飯守泰次郎です

 

     

 

         

 

昨日、初台の東京オペラシティコンサートホールで東京交響楽団のオペラシティシリーズ第106回演奏会を聴きました プログラムはベートーヴェンの①交響曲第5番ハ短調作品67「運命」、②交響曲第6番ヘ長調作品68「田園」です 指揮は下野竜也です

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770‐1827)の作曲による交響曲第5番と第6番は、1808年12月22日にアン・デア・ウィーン劇場で、ピアノ協奏曲第4番、合唱幻想曲とともに初演されましたが、作品番号が示すように その完成時期もほとんど同じであったと考えられています ひとりの作曲家がまったく異なる性格の二つの作品を同時に書くというのは決して珍しいことではありませんが、両作品とも歴史に残る名曲であるというのは稀有な例だと思います さらに付け加えれば、この2曲にはいくつかの共通点があります。①曲の冒頭が八分休符を伴って開始されること、②当時には珍しいピッコロとトロンボーンが効果的に使われていること、③後半の楽章が続けて演奏されること、などです

 

     

 

オケのメンバーが入場し配置に着きますが、弦は左奥にコントラバス、前に左から第1ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラ、第2ヴァイオリンという対向配置をとります。コンマスはグレヴ・二キティンです

1曲目は交響曲第5番ハ短調作品67「運命」です この曲は第1楽章「アレグロ・コン・ブリオ」、第2楽章「アンダンテ・コン・モート」、第3楽章「アレグロ」、第4楽章「アレグロ~プレスト」の4楽章から成ります

下野の指揮で第1楽章が開始されます。キビキビした小気味の良いテンポで音楽が進められ、弦も管もアグレッシブに演奏します 中盤でホルンが崩れたのは残念でした それでも第4楽章では立ち直って素晴らしい演奏を展開しました 全体を通して荒絵理子のオーボエが冴えていました 下野は全体的に速めのテンポで押し切りましたが、それはそうだろうと思います。4つの楽章のうち3つが「アレグロ」なのですから ベートーヴェンの時代のアレグロと現代のアレグロは速さが違うのではないか と思いますが、その当時生きていた人が今 存在しないので誰も再現出来ないのが残念です   いずれにしても、下野✕東響による第5番は超高速旅客機時代の演奏だったのではないか、と思います

 

     

 

プログラム後半は交響曲第6番ヘ長調作品68「田園」です この曲は第1楽章「アレグロ・マ・ノン・トロッポ(田舎に着いた時の愉快な気分のめざめ)」、第2楽章「アンダンテ・モルト・モッソ(小川のほとりの情景)」、第3楽章「アレグロ(田舎の人々の楽しいつどい)」、第4楽章「アレグロ(雷鳴と嵐)」、第5楽章「アレグレット(牧人の歌ー嵐の後の喜びと感謝)」の5楽章からなります    ベートーヴェンはこの曲に「田園交響曲」と標題を付けた上で、上記の通り各楽章に標題を付けていますが、「絵画的というよりは、むしろ感情の表出」であると語っています とは言えこの曲は 後のベルリオーズをはじめとするロマン派の標題音楽の先駆をなす作品であることに違いはありません

下野は中庸なテンポで第1楽章を開始しましたが、第2楽章に入るとかなりテンポを落とし、各楽器に思う存分歌わせます オーボエの荒絵理子、フルートの相澤政宏、ファゴットの福井蔵、クラリネットのエマニュエル・ヌヴ―の演奏が素晴らしい 続けて演奏される第3楽章から第5楽章までの中では、第4楽章で畳みかけるように演奏したかと思うと、第5楽章に入ると極端にテンポを落とし、嵐の後の喜びと感謝の気持ちをかみしめるかのように各楽器に歌わせます 全体を通して、下野特有のメリハリを付けた演奏だったと思います

満場の拍手の中 カーテンコールが繰り返され、下野が客席に向かって「今日は、数あるコンサートの中からお越しいただきありがとうございました(会場から)。アンコールに1曲だけ、ベートーヴェンの悲愴ソナタを演奏します」とアナウンスして、「ピアノ・ソナタ第8番ハ短調作品13『悲愴』」の第2楽章「アダージョ・カンタービレ」(野本洋介編曲)を演奏し、再度大きな拍手を受けました

東響のオペラシティシリーズでオーケストラによりアンコールが演奏されるのは珍しいケースだと思います しかも、メインの曲目と同じ作曲家によるピアノ曲の編曲版を演奏するとは、やっぱり下野竜也という指揮者は一筋縄ではいかないな、と思いました

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文京シビック「響きの森クラシック・シリーズ」2019‐2020シーズン会員継続へ / リン・ラムジー監督「ビューティフル・デイ」&リドリー・スコット監督「ゲティ家の身代金」を観る~新文芸坐

2018年10月13日 07時18分33秒 | 日記

13日(土)。わが家に来てから今日で1471日目を迎え、トランプ米大統領は11日 ホワイトハウスで記者団に、米国株が下落しているのは「制御不能」に陥っている米連邦準備理事会(FRB)の金融政策の責任だと主張した というニュースを見て感想を述べるモコタロです

 

     

                そもそも アメリカファーストで世界経済を引っ掻き回しているのは いったい誰?

 

         

 

昨日、夕食に「鶏肉とじゃがいものトマトしょうゆ煮」を作りました これは近藤幸子先生のレシピです。短時間で出来て美味しい料理です

 

     

 

         

 

文京シビックホールから「響きの森クラシック・シリーズ  2019-2020シーズン」シリーズセット券先行発売案内が届きました このシリーズは東京フィルが文京シビックホールを会場に年4回コンサートを行うもので、私は毎年S席の同じ席を更新しています ラインナップは下のチラシの通りで、公演は5月18日(土)、9月14日(土)、2020年1月25日(土)、3月28日(土)の4回、このうちバッティスト―二が2回、大友直人と小林研一郎が各1回指揮をします

セット料金はS席:17,500円、A席:14,500円、B席:12,500円、1回当たりではS席:4,375円、A席:3,625円、B席:3,125円と格安となっており、例年 満員御礼が続いています

もちろん、現在の席をそのままキープするという内容で返信ハガキを出しておきました なお、シリーズセット券の一般発売は12月16日(日)午前10時からとなっています

 

     

 

         

 

昨日、池袋の新文芸坐で「ビューティフル・デイ」と「ゲティ家の身代金」の2本立てを観ました

「ビューティフル・ディ」はリン・ラムジー監督による2017年イギリス・フランス・アメリカ映画(90分)です

元軍人でFBI捜査官だったジョーは辞職後、行方不明の女児の捜査を請け負うスペシャリストとして生計を立てていた ある時、彼の元にアルバート・ヴォット州上院議員の娘・ニーナの捜索依頼が舞い込んできた。議員のもとに、ニーナが高級売春宿で働かされているという情報がもたらされる ジョーは愛用のハンマーを使い、ある組織に囚われたニーナを救出するが、彼女はあらゆる感情が欠如しているかのように無反応のままだった 二人がモーテルで議員を待っていると、テレビニュースで 依頼主である父親が飛び降り自殺したというニュースが流れる   その直後、警官たちが部屋に乱入してきてニーナを連れ去ってしまう。ジョーはニーナの救出に向かう

 

     

 

邦題の「ビューティフル・デイ」は映画の終盤でニーナがジョーに向かっていうセリフですが、次々と死者が出るのに「どこがビューティフルか」と言いたくなるような内容です 原題は「You Were Never Really Here」です。この映画は第70回カンヌ国際映画祭の脚本賞を受賞したそうですが、私にはどこが受賞に値したのか分かりませんでした

 

         

「ゲティ家の身代金」はリドリー・スコット監督による2017年アメリカ映画(133分)です

1973年、石油王として巨大な富を手に入れた実業家ジャン・ポール・ゲティ(クリストファー・ブラマー)の17歳の孫ポールが、イタリアのローマで誘拐され、母親ゲイル(ミシェル・ウィリアムズ)のもとに1700万ドル(約50億円)という巨額の身代金を要求する電話がかかってくる   しかし、稀代の富豪であるにも関わらず守銭奴として知られたゲティは、身代金は高すぎるとして支払いを拒否する 離婚してゲティ家から離れて暮らすゲイルは息子を救うため世界一の大富豪ゲティと対立しながら、誘拐犯と対峙する

 

     

 

この映画は、1973年に実際に起こったゲティ家の誘拐事件をもとにフィクションを交えて映画化したものです この映画は面白かった ゲティ役をケビン・スペイシーが演じて撮影されましたが、完成間近に彼がスキャンダルによって降板したため、クリストファー・ブラマーを代役に立て撮影し直したとのことです その甲斐あってか、彼は高価な絵画にはいくらでも金を注ぎ込むのに、誘拐された孫には身代金を払おうとしない冷血漢を見事に演じています 切り取られたポールの耳が送られてきて初めて ゲティは身代金を支払う決心をします

驚いたのは、節税のため 身代金を誘拐された孫に貸し付ける形にするという とんでもない方法を取ったことです 一般市民の感覚では理解できない判断ですが、ゲティ家では無駄な金は一切出さないというのが常識だったのです

人質に取られた場合、誘拐犯に身代金を支払うべきかどうかという問題は、人命に係わる問題なので難しい判断を要求されます   それは個々の家庭レヴェルの場合と国家レヴェルの場合とで対応が異なると思いますが、今回この映画を観て「危機管理」というものを あらためて考えるようになりました 

それとともに、いくら財産を築き上げても、人間はいつかは必ず死ぬということでは平等で、財産をあの世に持っていくことはできない。「生きているうちが華だ。一度しかない人生、後で後悔しないように生きよう」とあらためて思いました

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東京藝大「バーンスタインのアメリカ」を聴く / 佐々淳行氏の死去と 浅間山荘事件と モーツアルト「交響曲第25番ト短調」の思い出

2018年10月12日 07時20分39秒 | 日記

12日(金)。昨日の朝刊各紙は、元警察官僚で 初代内閣安全保障室長を務めた佐々淳行氏が10日、老衰のため都内の病院で死去(享年87歳)したというニュースを報道していました   佐々氏というと、私は1972年2月の「あさま山荘事件」を思い出します。この事件は、1972年2月19日から同28日にかけて、連合赤軍のメンバー5人が軽井沢にある河合楽器の保養所「あさま山荘」に侵入し当時31歳の山荘管理人の妻を人質にして 銃を持って籠城した事件です

2月28日の機動隊の突入時にはNHK・民放5社が犯人連行の瞬間まで断続的に生中継していたという事実が、この出来事が歴史的な事件だったことを物語っています この時 人質救出作戦の指揮をとったのが佐々淳行氏でした

この時、私はNHK教育テレビでN響のコンサートを観ていました 森正さんの指揮によりモーツアルトの「交響曲第25番ト短調K.183」の第1楽章が演奏されていました すると、急に画面が切り替わり、クレーンからぶら下げられた巨大な鉄球が山荘に打ちつけられるシーンが映し出されたのです これは当時 大学生だった私にとって強烈でした 目的の良し悪しは別として、若者たちが権力を相手に命を懸けて戦っている。それをテレビで観ているだけの自分はいったい何なのだろうか?  こんなことをしていていいのか   と自問しました そんなことを考えながら”実況中継”を見ていると、画面が切り替わり、再びNHKホールでの演奏の模様が映し出されました。モーツアルトは第4楽章に移っていました 

あの日あの時のモーツアルト「ト短調交響曲K.183」の切羽詰まったような音楽は、山荘に籠城した5人の若者の悲劇の運命を暗示していたようで、今でも忘れることができません

ということで、わが家に来てから今日で1470日目を迎え、全国から魚介や青果が集まる東京都の中央卸市場「豊洲市場」が11日開場し 初セリが行われた というニュースを見て感想を述べるモコタロです

 

     

       移転決定から17年経ってやっとオープンした  来年の今頃は何と言っているだろ?

     

         

 

昨日、夕食に「オクラの豚バラ巻き」と「生野菜サラダ」を作りました 「オクラ~」は大原千鶴先生のレシピです。オクラと長芋を豚バラ肉で巻いて焼きます。焼いている途中で長芋がつるりと外に出てしまうのもあり焦りましたが、なんとか押し込みました

 

     

 

         

 

昨日、上野の東京藝大奏楽堂で「バーンスタインのアメリカ」公演を聴きました これは東京藝大の演奏藝術センター企画による「作曲家・バーンスタイン」シリーズの第3回目の公演です。プログラム前半はレクチャー「バーンスタインと/のアメリカ」で講師は藝大音楽学部楽理科教授・福中冬子さん。後半はコンサートで、プログラムはバーンスタインの①「キャンディード」序曲、②「キャンディード」より「美しく着飾って」、③「ウエスト・サイド・ストーリー」より「シンフォニック・ダンス」です 出演は、ソプラノ=西口彰子、管弦楽=藝大シンフォニーオーケストラ、指揮=藝大指揮科教授・山下一史です

 

     

 

全席自由です。1階13列12番、左ブロック右通路側を押さえました 夜の公演ということでか、聴衆はいつもよりは少ないようです。それでも7割以上は入っている感じです

最初に東京藝大音楽学部楽理科教授・福中冬子さんがステージに登場し、映像を交えながら「バーンスタインと/のアメリカ」と題してレクチャーをしました 

いきなり「日本国憲法前文」が出てきたのにはビックリしました 「風が吹けば桶屋が儲かる」ではありませんが、福中さんの論理展開は概ね次のようなものです

「日本国憲法前文」はGHQがもたらした憲法草案に基づくが、それはアメリカの「独立宣言」や「リンカーン大統領のゲティスバーグ演説(人民の人民による人民のための政治)」の影響を受けている アメリカの作曲家コープランドは、リンカーンの民主主義精神に触発され「リンカーンの肖像」を作曲した バーンスタインは19歳の時の1937年にコープランドに出会って以来 いろいろな面で彼の影響を受けることになる

これで「日本国憲法前文」とバーンスタインが結びついたわけです 福中さんはさらに、1949年にニューヨークで親ソ組織の主催による「世界平和会議」が開かれた際、バーンスタインはコープランドとともに参加(ソ連からはショスタコーヴィチが参加)しているが、こうしたことから、彼はFBIから親共産主義活動を行ったとして1953年に一時的にパスポートを没収されるに至っている、と説明します しかし、結局のところバーンスタインの音楽を含む全芸術活動は「自由な人間への讃歌」であり、彼はそのための啓もう活動を行っていたのではないか、と指摘しました

福中さんの話は初めて耳にすることばかりで とても勉強になりました

 

     

 

休憩後はコンサートです 藝大音楽学部2~4年生の弦・管・打楽器専攻生を主体とする「藝大シンフォニーオーケストラ」のメンバーがステージに登場し配置に着きます 弦は左から第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラ、その後ろにコントラバスという配置をとります

1曲目のバーンスタインの喜歌劇「キャンディード」はフランスのヴォルテールが18世紀に書いた小説「カンディード」が原作です

今年4月に藝大指揮科教授に就任した山下一史氏の指揮で「序曲」の演奏に入りますが、これはもう、ブラスと打楽器を中心に胸のすくようなスカッとする演奏でした

2曲目の「キャンディード」より「美しく着飾って」はヒロインのクネゴンデが歌うアリアです 彼女は男爵家の令嬢で キャンディードを愛していましたが、今や高級娼婦としてユダヤ人の大富豪とカトリックの大司教に仕える身となっています アリアは惨めな境遇を嘆きながらも、煌めくネックレスやドレスを前にして、快楽に浸る喜びを歌い上げるものです

オレンジ系の華やかな衣装の東京藝大出身、西口彰子さんが登場、山下一史氏の指揮で歌に入ります 西口さんはヨハン・シュトラウス2世のオペレッタ「こうもり」のロザリンデのアリアに似た「美しく着飾って」をコロラトゥーラを交えて感情表現豊かに歌い上げ 満場の拍手を受けました

プログラムの最後は「ウエスト・サイド・ストーリー」より「シンフォニック・ダンス」です ニューヨークを舞台とするミュージカル「ウエスト・サイド・ストーリー」は1957年に初演されましたが、良く知られているようにシェイクスピアの戯曲「ロメオとジュリエット」を基にしています 「シンフォニック・ダンス」はミュージカルから9曲を選んでメドレーにしたものです

曲は プロローグ ~ いつかどこかで ~ スケルツォ ~ マンボ ~ チャチャ ~出会いのシーン ~ クール  フーガ ~ ランブル ~ フィナーレから成ります まず、「プロローグ」のジャズのリズムが素晴らしい ラテンのリズムによる「マンボ」は熱い演奏で 聴いている方も熱くなります 四人のコントラバス奏者はどさくさに紛れて楽器をクルッと回転させていました さしずめ四輪駆動のコントラ”バス”といったところでしょうか 格闘場面の「ランブル」で演奏は絶頂に達します 気持ちのいい演奏でした

今回のような「レクチャー+コンサート」は東京藝大らしい素晴らしい企画だと思います これからも新しい企画を期待したいと思います

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