冤罪の構図

2024年07月03日 14時50分16秒 | 事件・事故

死刑廃止を考える[Q12]死刑判決が確定したえん罪事件の例

免田事件

事件の概要

1948年12月29日に熊本県人吉市で発生した一家4人が殺傷された強盗殺人事件(夫婦が殺され、子供2人が重傷)で、被害者はいずれも頭部に鉈様の凶器による多数の傷痕があり、指紋や遺留品はありませんでした。


犯人とされた免田栄さん(事件当時23歳)は翌年1月に警察に連行され、別件窃盗事件で逮捕されて本件につき不眠不休の取調べを受け、逮捕後3日目に自白して起訴されました。


1950年3月、熊本地裁八代支部は死刑判決を宣告し、1951年3月、福岡高裁は控訴を棄却し、同年12月、最高裁は上告を棄却し、死刑判決が確定しました。


再審の経緯

免田さんは、1952年6月から再審請求を行い、1956年8月10日、第3次再審請求で一旦は熊本地裁八代支部が再審開始を決定しましたが、福岡高裁によって取り消されました。その後も再審請求は棄却され続け、日弁連の支援により申し立てた第6次再審請求により、1979年9月27日、福岡高裁が再審開始を決定しました。


これに対して、検察官は特別抗告しましたが、1980年12月、最高裁はこれを棄却して再審が開始され、1983年7月15日、熊本地裁八代支部は無罪を言い渡し、確定しました。


誤判の原因と無実の証拠

捜査機関は、極端な見込み捜査により、別件で免田さんを逮捕し、暴行、脅迫、誘導、睡眠を取らせない等の方法により、免田さんに自白を強要しました。免田さんは当初からアリバイを主張しており、移動証明書や配給手帳等により裏付けられていましたが、全て無視されました。


裁判所も、自白を偏重して全面的にこれを信用し、免田さんのアリバイを無視して、有罪判決を言い渡し、再審請求を棄却し続けました。


第6次再審請求の抗告審で、ようやく、免田さんの自白が客観的事実に反していること、免田さんにアリバイがあることが認められたのです。


なお、免田さんは、再審請求中に、国を相手として、無罪を裏付ける重要な証拠である鉈、マフラー、手袋等の重要証拠の返還を求めて提訴しましたが、国は「紛失した」と言って返還を拒んでいます。

財田川事件

事件の概要

1950年2月28日、香川県三豊群財田村(当時)で発生した強盗殺人事件で、1人暮らしの男性(62歳)が就寝中に襲われ、鋭利な刃物で30数箇所の傷を負って失血死しました。


犯人とされた谷口繁義さん(事件当時19歳)は、地元素行不良者の一人として別件逮捕され、同年4月1日に隣村で発生した強盗致傷事件で同年6月15日に懲役3年6月の有罪判決を受けましたが、引き続き数度の別件逮捕により代用監獄で自白を強要され、同年7月26日に至って本件を自白して起訴されました。


1952年2月、高松地裁丸亀支部は死刑判決を宣告し、1956年6月、高松高裁は控訴を棄却し、1957年1月、最高裁が上告を棄却して、死刑判決が確定しました。


再審の経緯

第1次再審請求は棄却されましたが、その後谷口さん本人が高松地裁丸亀支部宛てに「事件時に着用したズボンに付着した血液につき男女の区別をする鑑定をして欲しい」旨の手紙を出し、これが発端となって、1969年4月に第2次再審請求が始まりました。


その後、曲折を経て、最高裁が1976年10月12日に高松地裁に差し戻し、高松地裁は1979年6月7日に再審開始を決定しました。


これに対して、検察官は即時抗告しましたが、1981年3月14日、高松高裁はこれを棄却して再審が開始され、1984年3月12日、高松地裁は無罪を言い渡し、確定しました。


誤判の原因と無実の証拠

捜査機関は、地元の風評以外に何の根拠もないのに、谷口さんを犯人と確信し、別件逮捕を繰り返して、極めて長期間、代用監獄に谷口さんの身体を拘束して、食事を増減したり、暴行を加えたりして、谷口さんに自白を強要しました。


また、裁判所も自白を偏重し、当時法医学の権威とされた古畑種基・東京大学教授の鑑定を安易に信用するという誤りを犯しました。再審開始決定において、古畑鑑定は、検査対象とされた血痕は事件後に付着した疑いがある等から、信用できないものとされました。


更に、1970年に、裁判所が検察官に対して不提出証拠の有無につき釈明を求めたところ、紛失したという回答がありました。しかし、1977年になって、裁判所が検察官に対して開示を促したところ警察の捜査書類綴が提出されました。本件では、犯人が刃物で被害者の胸を突き刺し、刃物を体外に全部抜かずに、また突いた(二度突き)という自白があり、これが犯人しか知り得ない秘密性をもつ事実だとされていましたが、再審で提出された警察の捜査書類綴の中に二度突きの記載があり、捜査官が二度突きの事実を知っていたことが明らかとなり、自白の嘘が暴露されました。

松山事件

事件の概要

1955年10月18日、宮城県志田郡松山町(当時)で火災があり、一家4人(夫婦と幼児2人)の焼死体が発見されました。


同年12月2日、隣村出身の斎藤幸夫さん(事件当時24歳)が別件暴行事件により東京で逮捕され、同月6日に本件につき自白し、すぐ撤回しましたが、殺人・放火事件の犯人として起訴されました。


1957年10月、仙台地裁古川支部は死刑判決を宣告し、1959年5月、仙台高裁は控訴を棄却し、1960年11月、最高裁が上告を棄却して、死刑判決が確定しました。


再審の経緯

第1次再審請求は全て棄却され、第2次再審請求は、仙台地裁が1971年10月26日に棄却しましたが、1973年9月18日、即時抗告審の仙台高裁は、原決定を取り消して仙台地裁に差し戻し、1979年12月6日、仙台地裁は再審開始を決定しました。


これに対して、検察官は即時抗告しましたが、1983年1月31日、仙台高裁はこれを棄却して再審が開始され、1984年7月11日、仙台地裁は無罪を言い渡し、確定しました。


誤判の原因と無実の証拠

捜査機関は、斉藤さんを別件逮捕したうえ、斉藤さんの同房者である前科5犯の男性をスパイとして利用し、自白するように唆すという謀略的な取調べを行っています。


また、「掛布団襟当の血痕」が自白を補強するものとされましたが、再審では、血痕の付着状況が不自然であり、捜査機関によって押収された後に付着したと推測できる余地を残しているとされました。


更に、斉藤さんの自白では、「犯行の返り血でズボンやジャンパーがヌルヌルした」となっていますが、警察の鑑定では、着衣には血痕の付着がないことは分かっていました。弁護側の強い要求により、これは控訴審の結審間際に提出されましたが、犯行後に洗われたことにより、血痕は消失したとされました。しかし、再審において、血痕反応は洗濯などでは消失しないことが判明しました。


この事件では、再審を請求した直後から、弁護人は検察官に対して不提出証拠を開示するよう繰り返し要求しましたが、1975年になって、裁判所の勧告により検察官はようやく証拠を開示しました。この中に、(1)「布団に血痕は付着していない」という事件直後に作成された鑑定書、(2)布団の写真、(3)警察のスパイとなって斎藤さんに自白を勧めたという斉藤さんの同房者の供述調書等、重大な証拠が含まれていました。

島田事件

事件の概要  

1954年3月10日、静岡県島田市内の幼稚園で6歳の女児が誘拐され、三日後、市内を流れる大井川沿いの山林で死体が発見されるという幼児強姦殺人事件が発生しました。


当時放浪生活を送っていた赤堀政夫さん(事件当時25歳)は、同年5月24日に放浪先の岐阜で職務質問の上、連行されて一旦釈放されましたが、別件窃盗罪で再逮捕され、同月30日に代用監獄で自白して起訴されました。


1958年5月、静岡地裁は死刑判決を宣告し、1960年2月、東京高裁は控訴を棄却し、同年12月、最高裁が上告を棄却して、死刑判決が確定しました。


再審の経緯

第1次から第3次の再審請求は全て棄却され、第4次再審請求も、静岡地裁は1977年3月11日に再審請求を棄却しましたが、即時抗告審の東京高裁は、1983年5月に原決定を取り消して静岡地裁に差し戻し、静岡地裁は1986年5月30日に再審開始を決定しました。


これに対して、検察官は即時抗告しましたが、1987年3月26日、東京高裁はこれを棄却して再審が開始され、1989年1月31日、静岡地裁は無罪を言い渡し、確定しました。


誤判の原因と無実の証拠

捜査機関は、見込み捜査により、別件で赤堀さんを逮捕し、暴行、脅迫等により、赤堀さんに自白を強要しました。


赤堀さんは、事件当時には東京にいたというアリバイを主張していましたが、全て無視されました。


また、自白によると凶器は石とされ、当時法医学の権威とされた古畑種基・東京大学教授の鑑定がこれを裏付けているとされていました。しかし、再審で、被害者の傷痕が石では生じないことが明らかになりました。


更に、この事件では、捜査機関は約200名にのぼる前科者、放浪者等を取り調べており、警察の強引な取調べのため、赤堀さん以外にも自白した者がいます。


検察官の不提出証拠の中には、これら赤堀さん以外の自白調書や捜査の過程を示す捜査日誌がありました。しかし、弁護人の度重なる開示要求にもかかわらず、検察官は遂に開示せずに押し通しました。

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司法が犯した誤判

2024年07月03日 14時47分55秒 | 事件・事故

誤判の根絶を期する宣言

本文

ここ両年の間にあいついだ免田、財田川、松山の死刑再審三事件における無罪の確定は、現行裁判制度のもとでの死刑確定判決に重大な誤判があったことを証明するに至った。


無罪を言渡すべき者に対して死刑判決を確定せしめた誤判は、刑事裁判に対する国民の信頼を根底からゆるがすものである。


われわれは、右死刑再審三事件の無罪確定を契機として、その深刻な経験に学び、誤判の温床であることがますます明らかになった代用監獄の速やかな廃止、捜査・裁判における自白偏重や証拠資料の不開示等の誤判原因の追及と誤判確定に至る裁判構造の解明、接見交通権の確立、再審法改正の実現等によって、誤判の根絶及び寃罪者の早期救済に向けて全力をつくすことを誓うものである。


右宣言する。


昭和59年10月20日
日本弁護士連合会

理由

1.昨年7月15日、熊本地方裁判所八代支部が言渡した免田事件判決(免田栄氏・同年7月30日無罪確定)、本年3月12日、高松地方裁判所が言渡した財田川事件判決(谷口繁義氏・同年3月27日無罪確定)につづいて、本年7月11日、仙台地方裁判所は松山事件(斎藤幸夫氏)について、無罪の判決を言渡し(同年7月26日無罪確定)、ここ両年の間に死刑再審事件につき、3件にのぼる無罪の確定をみるに至った。


死刑確定者が再審裁判において無罪となり、生還したことはわが裁判史の上において初めてのことであるばかりでなく、世界の裁判史上においてもまた例をみないところである。かかる事例が3件あいついだことは正に衝撃的なことといわなければならない。


2.当連合会は、有罪判決が確定してなお無実を叫ぶ者の訴えに耳を傾け、再審による救済の必要性・相当性を審査の上、人権擁護活動の重要な一環として、再審による無辜の救済につとめてきた。その歴史は昭和34年以来、すでに四半紀に及ぶ。


「開かずの門」といわれた再審が白鳥決定(最高裁第1小法廷昭和50年5月20日決定)を契機として、弘前、米谷、加藤各事件につき再審開始を経て無罪確定をみたあと、死刑再審事件の寃罪者を死刑執行直前の状態から救出し、無罪を確定せしめることはわれわれの年来の悲願であった。そして今日、当面の具体的目標としてきた死刑再審三事件について、ついにこれを実現しえたことを、われわれは人間の尊厳と社会正義の名において、全会員とその喜びをわかちたい。


3.ひるがえって考えると、死刑再審事件の無罪確定は、当該事件の死刑確定判決が誤判であったことの証明にほかならない。


いま、三事件について、死刑確定判決の誤判が明らかになったことの意義は、とくに重大かつ深刻である。


(1)死刑は、その性質上、一旦これが執行されるならば、もはや取返しがつかない。死刑判決における誤判は、したがって、絶対にあってはならないことである。あってはならない死刑判決の誤判が1件ならず3件も証明されたことはまことに驚くべきことである。


(2)三事件は、現行刑事訴訟制度下の死刑誤判事件である。いうまでもなく、現行刑事訴訟制度は、戦後、日本国憲法の制定にともなって、いち早く改革されたものの一つである。基本的人権の尊重を基調として被疑者、被告人の諸権利並びに弁護人依頼権、接見交通権が憲法上の権利として明記されるに至った刑事訴訟制度のもとで、誤判によって極刑が言渡され、これが確定するに至っていることは、現行刑事訴訟制度並びにその運用に対する重大な問題提起となることは疑いない。


(3)これら3事件は、いずれも三審を経て確定している。死刑事件について、公訴の提起から三審を経てなお誤判を抑止・是正し得なかった事実は看過できない。


(4)再審請求に回を重ね、かつ、有罪確定から再審による無罪確定まで松山事件では23年余、財田川事件では27年余、免田事件では31年余の歳月を費消したことも看過しえない。


(5)寃罪者の身柄の拘束が30数年に及び、その間、長年月にわたり、各本人に対し、死刑執行の寸前の状態に追いこんで死刑執行の現実の恐怖にさらし、重大かつ継続的なさまざまな人権侵害をもたらしたほか、その家族等に対しても測り知れない深刻な精神的・物質的損害をもたらした事実は重大である。


4.本来、無罪を言渡すべき者に対し、いかなる原因で逮捕、起訴がなされ、死刑判決の確定にまで至ったのか、その捜査、裁判手続及び判決の構造はいかなるものであったのか、そして死刑確定から再審、更に無罪確定、身柄釈放というわれわれの歴史的な経験、その中に見出される特徴的な諸事実と教訓は、この機会にこそ追及、解明され、現在及び将来の刑事司法に生かされなければならない。そして、これを生かすことによって寃罪者を救済し、誤判の根絶を期することは、われわれ法曹に課された使命であるといわなければならない。


死刑確定判決から無罪へ、の深刻な経験による教訓と、これがわれわれに示す課題のうち、主なものを挙げると次のとおりである。


(1) 代用監獄の廃止


三事件の死刑確定判決の証拠構造においても捜査段階初期になされた自白が決定的に重要な位置を占める。このことは、他の多くの再審無罪事件と共通する。その自白調書の多くは代用監獄制度のもとで作成されている。


われわれはすでに多くの経験によって誤判の悲劇を生む温床は代用監獄にあることを指摘し、機会あるごとにその速やかな廃止を訴えてきたところである。三事件の経験は、代用監獄こそが誤判の温床であることをますます鮮烈に明らかにしたものといわなければならない。


(2) 誤判原因の追及と誤判構造の解明


現行刑事裁判制度のもとでの、3件にのぼる死刑判決の誤判が証明されたいま、なにがかかる重大な誤判をもたらす原因であったか、について深く掘り下げた追求をなし、同時に誤判確定への機序、誤判確定の裁判構造を徹底的に解明することは国民的課題であるといわなければならない。ことに虚偽自白の生成とこれが起訴、裁判の過程で抑止・是正されえなかった捜査、裁判における自白偏重、被疑者、被告人に対する有罪の予断と偏見、更にこれを支えた証拠の不開示、誤った鑑定等、個別具体的に検討を深めるとともに、各相互間の関連について追求がなされなければならない。


(3) 接見交通権の確立


三事件の経験は、初動捜査の段階での弁護人選任権の告知の不十分、被疑者側の弁護人選任権に関する知識の欠如、弁護人の接見交通の不十分、接見交通に対する当局による妨害等が虚偽自白生成の条件を形成したことを示している。


接見交通権は、憲法上明記された権利であるにもかかわらず、これが今日に至るも確立されていない現状にある。そのことがついには誤った死刑判決の確定にまで至ることを三事件の経験は教えるとともに、寃罪事件の続発の可能性をも示唆するものといわなければならない。


われわれは、多くの経験に基づいてすでに接見交通権確立実行委員会を会内に発足されているが、接見交通権の確立と充実はいまこそ緊急を要する課題であるといわなければならない。


(4) 再審法の改正


無辜の救済を理念として、再審理由の緩和、請求人、弁護人に対する再審請求段階における手続的保障、検察官の再審開始決定に対する不服申立の禁止等については、これらを骨子とする日弁連案(刑事再審に関する刑事訴訟法(第4編再審)ならびに刑事訴訟規則中一部改正案)をすでに昭和52年1月に公表し、これが実現に向けて再審法改正実行委員会を組織して活発な活動を展開しているところである。


三事件の経験は、有罪確定から無罪の確定まで余りにも長い歳月を要したこと、その間に再審請求を、回を重ねなければならなかったこと、再審開始決定が検察官の不服申立によって遷延せしめられたことなど、前記日弁連案を基礎とする再審法改正が緊急に必要であることをあらためて示したのである。


5.われわれは、死刑再審三事件の無罪確定という歴史的な事態に際し、これを契機として、三事件の包蔵する深刻な経験に学び、そこから導き出される教訓を、今日及び将来の刑事司法に生かさなければならない。そしてそのことによって、誤判の根絶と寃罪者の早期救済を期さなければならない。われわれは、そのために全力をあげることを誓い、第27回日本弁護士連合会人権擁護大会の名においてこれを宣言するものである。

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捜査の違法性を徹底追及 冤罪の真相

2024年07月03日 14時34分17秒 | 事件・事故

経済産業大臣に輸出許可申請が必要となる噴霧乾燥機を無許可で輸出したとして逮捕・起訴された事件で、東京地検は、輸出規制対象に該当するかどうか疑いが生じたとして、初公判の直前に起訴を取り消しました。

逮捕された3名のうち2名は保釈が認められるまで1年近く拘置所に勾留され、もう1名は勾留中に体調を崩し、起訴取消を知ることなく亡くなりました。

なぜこのようなことが起きたのか、捜査の違法性を徹底追及します。

【原告の思い】

「人質司法」

日本の刑事司法制度はこう呼ばれることがあります。自己の記憶に従い正直に無実を主張しているだけで、あるいは争いのある法律の解釈について自らの解釈を主張しただけで、公判前、判決前の市民が長期間拘束されることがあるためです。

逮捕・勾留により、それまで地道に築き上げてきた社会的立場・信用は、たちまち崩れ落ちます。本人だけではありません。家族もそうですし、組織を率いるリーダーの場合、その組織全体が、大きな危険に晒されることとなります。

大川原化工機株式会社の社長である大川原正明さんや顧問であった相嶋静夫さんたちは、人質司法により自白を強要されながらこれに屈せず、無罪の主張を通しました。

その結果、全員が11ヶ月以上にわたり拘束され続けました。73歳だった相嶋さんに至っては、拘束中に急激に体調が悪化し、裁判所の判決を待たずに他界しました。

私たちは今、残念ながらこのようなことが起きる国家のもとに生きています。

X年後、自分の身に覚えのない嫌疑で逮捕されたら、あなたはどういう行動に出ますか。

いつまでも拘置所に閉じ込められてしまうなら罪を認めてしまおう。そのほうが、家族のため、会社のためになる。そう考えてしまう人もいるのではないでしょうか。

人質司法は、無実の市民に、虚偽の自白をしなければ拘束され続けるという諦めの気持ちを起こさせ、隠れた冤罪を生み続けます。これを読んでいるあなたや、あなたの家族も、明日の冤罪の被害者になるかもしれません。

「人質司法は絶対に許されてはならない。」

「無実の市民を11ヶ月間拘束した背景に何があったのか、真相は公にされなければならない。」

このような思いから、大川原社長らは、ふたたび自己の信念を貫き、人質司法に依拠した違法捜査を徹底的に追及しようと決意しました。

そして2021年9月8日、東京都と国に対し、警視庁公安部による逮捕、検察官による起訴などが違法であるとして、損害賠償請求訴訟を提起しました。

(提訴会見の様子)

【事案の概要】

大川原化工機株式会社は、噴霧乾燥技術のリーディングカンパニーとして、国内外の企業に多くの噴霧乾燥器(スプレードライヤ)を納入してきました。

噴霧乾燥器(スプレードライヤ)とは、液体を熱風中に噴霧して、粉末を得る装置のことです。この装置は、インスタントコーヒーの粉や、化学産業における乾燥粉体を作るためなどに用いられています。

2020年3月11日、大川原社長らは、突然逮捕されました。逮捕理由は、噴霧乾燥機を経済産業大臣の許可を得ずにドイツ大手化学メーカーの中国子会社に輸出したことでした。そのことに争いはありません。その他無数にある海外との取引と同じ、通常の企業活動の一環でした。しかしこの輸出が、外為法規制に違反する不正輸出であるとされ、3人はそのまま起訴されてしまいました。

外為法とは、日本と外国との間の資金やモノ・サービスの移動などの対外取引を規制する法律です。特別な国や地域に物資を輸出したり、武器への転用が可能な物資を輸出する際には政府の許可や承認が必要とされています。

大川原化工機株式会社の噴霧乾燥機は、ある日突然、捜査機関によって軍事転用可能であると判断され、許可なく中国に向けて輸出してはならないと判断されたのです。

大川原社長たちは逮捕後一貫して、噴霧乾燥機が規制対象に当たるはずがないと専門家の意見も添えて主張し続けました。そして、1年近く勾留されたのち、検察官はようやく、「本件製品が規制要件を満たすものでないと明らかになった」として、起訴取り消しを行いました。これを受け、東京地裁は8月2日に公訴棄却を決定。事件は突然に終了しました。

警視庁は、証拠資料から規制要件に該当しないことを知るべきであったにもかかわらず、「立件ありき」の姿勢で捜査を行っていたのです。そのようなずさんな見通しでも、勾留して自白さえさせれば、有罪判決が取れると考え、ひたすらに取り調べを続けました。検察官も、同じように、規制要件に該当しないことを知るべきだったにもかかわらず、これを見落として起訴を強行しました。弁護団は起訴されてから5回にわたり保釈を請求しましたが、裁判所はいずれの保釈も退けました。相嶋さんは勾留中に体調を崩し、勾留の執行停止を受け自宅で治療を続けましたが、令和3年2月7日に無念にも亡くなってしまいました。治療中でさえ罪証隠滅のおそれがあると言われ、保釈は認められませんでした。

保釈の請求に対し検察官は、「身柄を解放すると3人が口裏を合わせ、あるいは社員たちに働きかけて都合の良い供述をさせるおそれがある」として、かたくなに反対し続けました。

しかし、大川原社長をはじめ、大川原化工機の役員・社員たちは、3人の逮捕に先立って1年半もの間、警察の取調べに全面的に協力してきました。3人を含む48 名の役職員が逮捕前に応じた取調べの回数は、延べ264回です。

また、警視庁公安部と検察官は、客観的要件に関しては約3年間の捜査を行い、大川原化工機及びその関係者が保有する物やデータはすべて押収し、さらに、大川原化工機の関係者への約1年半の取調べによって主観面に関する証拠も十分に収集し、満を持して起訴へと動きました。検察官と弁護人の間に事実の争いはほとんどなく、争点は法律解釈だけでした。それは裁判で争えばよいだけです。

このような状態で一体どのような”罪証”を隠滅するというのでしょうか。検察官が保釈に反対し、裁判所が保釈を拒絶し続けた目的は、大川原社長たちに自白をさせるためというほかありません。「人質司法」の典型です。

 

(大川原化工機株式会社)

【資金の使途】

確定している訴訟費用

・収入印紙代:1,718,000円

・予納郵券(訴訟の手続きに必要だと予想される郵便切手):14,000円

 

裁判を続ける上で必要となる費用

・会議費や交通費など

・弁護士費用

・専門家の意見書費用

・人質司法の実態をアピールするための提言費用など

 

まずは収入印紙代の一部として30万円を募集いたしました。第一目標を達成したため、ネクストステップとして残りの収入印紙・切手代を目標といたしました。引き続き何卒よろしくお願いいたします(10/31追記)。

 

【原告たちからひとこと】

強制捜索押収に続く任意取調の1年5ヶ月余の後の逮捕、その後の11ヶ月の勾留、さらに6ヶ月の会社及び社員との接触禁止の保釈期間、と合計34ヶ月の間、私と社員及びその家族はつらく苦しい思いをしてきました。そして、その間に金融機関や取引先などから多くの悲しい言葉を浴びせられても、無罪を信じ無実を主張して、理解頂いた専門家や弁護人とともに、皆で進んできました。

今回は、皆の努力と協力が実りましたが、権力行使の傲慢さ、聴取を受けた行政・研究者・顧客・同業者を含むほとんどの人たちが、警察・検察に従った調書の記載に署名する事実を見て、人質司法に加えて公安司法の恐ろしさを見ました。改めて、己の良心に従って、この権力を恐れずに、しかも着実に業務を進めていただいた社員と支えていただいた人々に感謝し、このような事象が二度と起こらないことを願うばかりです。

 大川原正明

 

私は、「平和で健康的な社会に貢献する」という当社理念に基づき、真摯に本法律を遵守してまいりました。各納入先からも、機器を兵器転用しない旨の誓約をいただいていました。その自負がありましたので、いかに長期拘留され自白を強要されても、自己の信念を曲げて罪を認めることは、できませんでした。
この裁判を通じて、このような違法な捜査により長期拘留がなされることが二度と起こらないよう、求めていきます。 

 島田順司

 

父は無実の罪で長期にわたる勾留を受けた後、胃がんを発症して死亡しました。胃がんの発症は今回の勾留とは無関係であると思いますが、胃がんに伴う消化管出血と貧血が発生してから治療が開始されるまで約2ヶ月を要しました。

命に関わるほどの貧血であり1人では歩けない状態であるにもかかわらず、保釈をされず病院にかかることも出来ませんでした。また、この間まともな栄養を摂取することもできず体力を奪われました。

10月16日に8時間だけの勾留執行停止をうけ、都内の病院を受診しましたが、勾留執行停止中の被告人という立場であり時間が限られていたこと等から診察、処置が受けられず、何の症状改善も得られず拘置所に戻りました。

私達は「父は拘置所で亡くなるのではないか」と恐怖を覚えました。検察はこのような状態になっても、病気の治療を認めないのです。

私達家族が必死に診療していただける病院を探しました。その結果11月6日に入院、治療を開始できることになりましたが、既に肝臓に転移しており末期状態でした。「もう少し早ければ・・・」と受診の遅れを悔やみました。

病院では医師、看護師がとても親切に献身的に医療を提供してくれました。人の温かみが身に染みました。その後一旦は症状が改善しましたが、次第に衰弱しとうとう病に負けました。父は自身の無実を確認することなく亡くなりました。

父は理系人間で特に応用化学を専門としていました。世の中に役立つ製品を開発、製造することに誇りを持ち懸命に働いていました。そんな父が尊厳を守られることなく最期を迎えたことが無念です。

 相嶋静夫 遺族代表

 

【弁護団からひとこと】

犯罪ないし被害の発生、発覚を契機に迅速な捜査が求められる一般の刑事事件と異なり、本件において捜査機関は、大川原化工機が過去に行ったスプレードライヤの輸出が法令の規制要件に抵触するか否かを、徹底的に捜査する余裕があった。現に警視庁公安部は、捜査に着手した2017年5月以降、大川化工機の顧客、同業他社、有識者、法令を所掌する経済産業省から、膨大な量の聴き取りを行い、また、同型機を使った実験を繰り返し行った。2018年10月には大川原化工機の本社等に捜索差押を行い、その後、役職員に対する延べ264回にもわたる取調を行った。

それだけ十分な時間をかけて捜査を行ったにもかかわらず、冤罪は生じた。

なぜ冤罪が起きたのか。

今回の件に関していえば、警視庁公安部と、起訴を行った検事が、「逮捕勾留さえすれば、多少無理筋であっても本人たちが自白して、簡単に有罪判決を得ることができるだろう。」という危険な考えに支配されていたことに原因がある。わが国の人質司法に対する甘えが、杜撰な捜査の根底に存在した。

捜査を指揮した検事は、本人たちが逮捕後に否認を続けるとは夢にも思わなかっただろう。「否認を続ければ保釈は下りない。保釈が下りなければ会社は潰れる。従って、会社を守るために罪を認めるだろう。」との危険な経験則に侵されていたはずだ。

この訴訟で明らかになる冤罪の真相が、人質司法を正す契機になることを期待する。

  弁護団を代表して 和田倉門法律事務所 弁護士 髙田 剛

皆様のご支援のほどよろしくお願いいたします。

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髙田剛

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代表:弁護士 高田 剛
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