自然体
日常の家族の何でもないありようを、さらりと表現していて面白かった。
一家の何げない日常生活が淡々と描かれているが、なぜか心に沁みる『夕べの雲』
『泣いてちゃごはんに遅れるよ』(寿木けい著、幻冬舎)の中で、寿木けいが庄野潤三作品で一番好きと告白している『夕べの雲』(庄野潤三著、講談社文芸文庫)を手にしました。
大浦一家の夫と妻と3人の子供たちの何げない日常生活が淡々と描かれているが、著者の庄野一家の生活ぶりがそっくり反映しています。
例えば、こんなふうです。「最初、(新築した家の)この部屋に晴子の勉強机が運び込まれた時、新しい壁や柱に対して釣り合いが取れないように見えた。なぜならこの勉強机は(長女の)晴子が小学校に入学した時に刈ったもので、もうすっかり古くなっていたのである。『これはやっぱり新しいのを買った方がいいな。もうだいぶ窮屈そうだ』。大浦がそういうと、晴子は、『いいよ。大丈夫よ、これで』。『まあ、高校へ入った時まで辛抱するか』。『いいよ、いいよ。この方が貫禄があっていいよ』。『貫禄はたしかにある』。机の表面のいちばんよく手や腕の当るところは、とっくにニスが剥げて、木目があらわに浮び出ていた。大小無数の傷あとが、あらゆる方向に刻まれていて、ところどころに子供らしい落書きのあとが残っている」。
1年後――。「(小学校に入学した、晴子の下の弟)正次郎の新しい机が入ってみると、晴子の机がいかにも見すぼらしく見えた。背がいちばん高くて、実際にいちばんよく勉強机を使う者が、兄弟の中でいちばん古くて、小さな机にいることになる。どうも矛盾しているように見える」。
2年後――。「晴子は高校に入学した。大浦は細君にいった。『今度こそ机を買ってやらないといけないな』。「ええ、そうしてやりましょう。あれでは、あんまりだわ』。大浦は晴子にいった。『机、買うから。お祝に』。『いいよ、これで』。『どうして』。『大丈夫よ。何ともないんだもの』。『膝がつかえないか』。『つかえない。ちゃんと入る』。彼が椅子に腰かけてみると、膝は机の下に入った。ぎりぎりいっぱいで入る。『なるほど』。『ね、大丈夫でしょう』」。
3年後――。「晴子は二年生になったが、まだ机はもとのままだった。・・・そうして、いま、修学旅行に出かけている留守の部屋で、つくづくわが子の古机を眺めていると、まわりの壁や柱に不釣り合いなどころか、いつの間にか周囲に融け込んで――というよりは、むしろこの机が目立たない様子でそこにあるために、部屋全体に或る落着きと調和がもたらされていることに初めて彼は気が付いた。『もうこの机を取ってしまうことは出来ない。このままの方がいいような気がする』と大浦は思うのだった」。
私事に亘るが、結婚した時、女房が嫁入り道具と一緒に自分が中学生の時から使っている机を持ってきました。これが結構がっちりした机で、私の書斎に納まっているが、すっかり書斎に馴染んでいます。
講談社文庫版の巻末の解説に、こういう一節があります。「庄野が日常の何でもないことを書いているのは、そこに庄野の尊重する、またよろこびを覚えるおかしみを見出しているからだろう。美が、詩があるからだろう。しかし、それを強調するようなことはしない。余計な説明や粉飾は一切省略して、言葉を撰び目立たぬように押えて書いている。表面に現われたものより、かくされているものの方が大きい。何でもないことを書いて、庄野の作品が重さを持ち、静かな品格のある佇いを持つのはそのためである。この境地は庄野独特のもので、こう云う作品は庄野の他には誰も書けない」。
幸福な大浦一家の物語は、ほのぼのとした気分にさせてくれます。
私の最高の愛読書
庄野文学の最高傑作、何回読んでも静かな感動が湧き起こります。この後の庄野作品も魅力的です。
穏やかな日常にある不安
初めて読んだ時にはあまりにも穏やかすぎるお話に退屈しつつも暖かく微笑ましい日常に満ち足りた読後感を持った。
初読から8年を経て、江藤淳「成熟と喪失」を読んだ後に「静物」とともに再読した。ただの穏やかさ、暖かさ、微笑ましさだけではなかったのだ。
批評の力に唸るとともに、日常の中にある不安をあからさまにそれとは見せないよう描く庄野氏の腕にほれぼれする。なにせ「よくわからない」からこそ不安なのである。
納得の作品
この本が、あの須賀敦子さんの初伊語訳作品とは後になって気がつきました。須賀さんの御本も追悼特集本も持っているのに。
読み終えて、なるほど細部が描かれていて、しかも温かい家族の愛情が伝わってくる。須賀さん好みの作品でした。今ではもう大人になった娘さん息子さん達の幼かった頃のエピソードが詰まっていて(私は最近の本から先に読んだので)「ああ、こんな子供時代を過ごすとあんな家族思いの立派な人間に育つのだなあ」と感心し、これは子育て中の友人にも勧めたい作品だと思いました。庄野さんと奥様は素晴らしい!!
旅をするように生きること
この文庫版の「夕べの雲」を発売当時に買い、いったい何度読み返したことだろう。
読み返しながら自分はこの本のどこに惹かれるのだろうと考えていて、たぶんこうなんじゃないかとわかったことがある。
旅をしているときに見る景色は、普段の生活の中で見るそれとは違う。
初めて見る景色だったり珍しい眺めだったりということもあるが、見る心のどこかにもう二度と見られないかもしれないという構えがある。
自然とその時時をいとおしむ気持ちが生まれる。
この本の主人公大浦は、旅をするように日常を生きている。
今見ているこの光景はもう二度とないという思いがどの行間にもあるような気がする。
木々や自然や、家族のそれぞれを見る大浦の目にはくもりがない。
われわれはついつまらないことにとらわれて大切なものを見失いがちだが、いつもこんなふうでありたいと思う。
なにを願い、どう行動するにしろ、基本のこころはこうでありたい。
こんなことを「夕べの雲」は教えてくれた。
庄野潤三氏は今年9月に亡くなられた。このすばらしい作品をわたしたちに残されたこと、心から感謝します。
雲の流れ
平凡な日常の中にも二度とは戻ることの出来ない瞬間の「今」があることを教えてくれる。それはタイトルが示すように、一瞬々々で流れ動き、色合いをも変じさせていく「夕べの雲」のようであり、決して手に掴むことのできない美しいものである。
本書は1960年代の日本の家庭を淡々と描いている。緑に囲まれた丘の上に住んでいたその家族は皆ほのぼのとしており、生活にゆとりを持っているようだ。やんちゃな子供たちの遊びは木登りを始め、カブトムシ捕りやぎんなん拾いなど、多くが自然の中でのものであり、その一昔前の遊びを前に懐かしさと微笑ましさを感じないではいられない。また、次第に都市化され自然がなくなっていくもの惜しさと切なさが背景としてあり、そういった遊びのかけがえのなさがより浮き彫りになっている。子供時代、無限にあると思われた遊びの時間も、実は一瞬々々のものであり、やがては終わりがやってくる。都市化という環境の変化がそのような「今」を感じさせ、かえって感慨を覚えさせる。
なんとも言えぬノスタルジーな世界の中で、平凡な生活がただただ流れてゆく本書に眠気を覚える人も多いだろう。時間の余裕があるときに惰眠するように読みたい一冊である。