<人の恩に報いる>との実践

2024年07月28日 15時00分35秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

▼楽観主義の人は強い。

何が起ころうとも、いい方向へ楽しい方向へ、前向きの方向へと受けとめていく。

それが、人生哲学の中核である。

▼人生と闘うが故に美しい―クーベルタン

生き生きと生涯挑戦と成長の日々を送りたいものだ。

クーベルタン男爵ピエール・ド・フレディ(フランス語: Pierre de Frédy, baron de Coubertin, 1863年1月1日 - 1937年9月2日)は、フランスの教育者であり、古代オリンピックを復興させ近代オリンピックの基礎を築いた創立者である。

一般にピエール・ド・クーベルタン男爵と呼ばれる。

▼周囲に思いを馳せる時、他者から受けた恩に気付くものだ。

そうして、自然と感謝の思いが芽生える。

しかし、人の常として、環境に慣れて、周りの存在を当たり前のように感じてしまうものだ。

そして、次第に感謝の気持ちも薄れてしまいがちになる。

▼それでは、恩を知り、恩に報いるためには、どうすればいいのか。

今の自分があるのは、関わってくれた全ての人たちのおかげと認識することだ。

その感謝の思いを胸に、今度は<自分が人のために尽くしていこう>とする心が重要である。

まさに、目の前にいる一人一人を大切にしたい。

▼<人の恩に報いる>との実践を重ねるなかで、自身の人間的な大きな成長もあるはずだ。

 

 


創作 福子の愛と別離 11)

2024年07月28日 12時59分22秒 | 創作欄

「文学散歩」では、芥川龍之介ファンの小林瞳の提案で、作家たちの墓地巡りもした。

最初に行ったのが、芥川龍之介の墓であった。

東京都豊島区巣鴨の染井霊園に隣接する日蓮宗の慈眼寺に在る芥川家の墓は、山手線の巣鴨駒込間にあったが、この日は、駒込駅から行った。

次に行ったのが夏目漱石ファンの東美幸の要望で夏目漱石の墓であった。

その墓は、池袋駅東口下車徒歩15分の雑司ヶ谷霊園にあった。

東京の南池袋にある雑司ヶ谷霊園は、都心にありながら、けやきやイチョウが立ち並び、雑木林のような自然を擁するこの霊園には、散策に訪れる方が多かった。

そこで、皆が知ったのは、この霊園には、大正ロマンを代表する画家・詩人である竹久夢二やジョン万次郎、小泉八雲、金田一京助、永井荷風の墓もあったので、その墓もついでに巡る。

参考

ジョン万次郎、本名「中浜万次郎」は、幕末から明治にかけてアメリカ合衆国と日本で活動した人物です。

14歳で漁に出た際に遭難、アメリカの船によって救出されました。

鎖国中だった日本には戻れず、そのままアメリカで英語や航海術などを学び、1851年(嘉永4年)に日本に上陸。その後は翻訳や通訳、人材育成などで精力的に活動。

日米和親条約の締結にも尽力したといわれている。

また、別の機会には、青山霊園や多摩霊園へにも足を運んだ。

特に「文学散歩」で行ったの多磨霊園であり、与謝野晶子ファンの日野綾香の願いから京王線に乗って皆で向かった。

与謝野晶子ファンの日野綾香は、晶子・鉄幹墓所でしばし祈っていた。

その墓所の造形は夫婦の情愛が込められているように綾香には思われたのだ。

文芸部の顧問として各墓所へ引率した晃は皆に聞いてみた。

「墓所でみなさんは、何を感じましたか?」

太宰ファンのゆかりは、「私は毎年、太宰の桜桃忌へ行っているいのだけれど、墓所は太宰と唯一、直接対話できる場なのね」

「私は、芥川の墓にそっとわたしの思いを俳句にして、そのメモして置いてきたけど、死は芥川にとっては避けては通れなかったと思ったの。私にもぼんやりとした不安があるから・・・」小林瞳は目を潤ませる。

与謝野晶子・鉄幹墓所

与謝野晶子のお墓(5月29日が命日)の画像2

参考

与謝野寛の告別式では、北原白秋が弔辞を読んでいる。
北原白秋(歌人、童謡作家、評論家)の墓も近くにある。

また、 田山花、有島 武郎の墓もあった。

多磨霊園は、東京都府中市多磨町および小金井市前原町に所在する都立霊園である。

日本初の公園墓地であり、以後の日本の墓地のありかたのひな型となった。

面積は都立霊園としては最大の128haで、東京ドーム27個分に相当する。

明治時代から大正時代にかけて東京市では墓地不足が進行していたため、1919年に墓地の新設計画が立てられ、1923年4月に当園が開設された。当初は多磨墓地といいわれた。

 

 

 

 

 

 


パスカル 「小品と手紙」

2024年07月28日 11時04分39秒 | 社会・文化・政治・経済
 

塩川 徹也 (翻訳), 望月 ゆか (翻訳)

『パンセ』と不可分な作として読まれるパスカルの遺稿群。万能の天才の人と思想と信仰を示す21篇。

「真空論序言」「サシ氏との対話」「幾何学的精神について」「病の善用を神に求める祈り」など、『パンセ』と不可分な作として読まれてきたパスカルの遺稿群。
幾何学は「最も素晴らしい職業」であるが、結局は「職業」にすぎないと喝破し、〈人間の研究〉と〈神の探求〉に専心した万能の天才の人と思想と信仰を示す21篇。
 
39歳で早世した万能の天才の生涯を、残されたわずか21編の書き物を通してたどる作品。
パスカルは社交界の人間観察の長けていた科学者であり数学者。
ある夜の体験から神の探究に専念していく。
キリスト教の正しさを人々の理性に訴えて、説得する。
だが、卓抜な比喩と論理を駆使したメモを書き留めたものの、未完のまま亡くなる。
パスカルの英知には、思わぬヒントがある。
「説得術」を分析する。
説得術とは当時、レトリックの説得術の別名だった。
レトリックは、情報を発信する側が、受信側を説得するための手法です。
日本語にすると「修辞法」という意味で、比喩、誇張、反語といった種類の表現法 ...
 
パスカルは、傑出した論争家であった。
パスカルは説く。
説得には理詰めの論破ではなく、相手に気に入られる技法が欠かせない。
実は相手を論破するより、はるかに難しい。
繊細な気づかいの有効なのである。
説得する相手から反感を買うよりも、魅了させるのである。
 
 

パスカル

 

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人間は一本の葦にすぎない。自然のうちで最もひ弱い葦にすぎない。しかし、それは考える葦である。

パスカル 「パンセ」


人間は偽装と虚偽と偽善にほかならない、自分自身においても、また他人に対しても。

パスカル 「パンセ」


人間は天使でもなければ、獣でもない。しかし不幸なことは、人間は天使のように行動しようと欲しながら、獣のように行動する。

パスカル 「パンセ」


人間は考えるために生まれている。ゆえに人間は、ひとときも考えないではいられない。

パスカル 「恋愛の情念について」


人類は、いわば不断に学ぶ唯一の存在である。

パスカル 「真空論-序」


判断の道徳とは、基準を持たない精神の道徳を軽蔑する。というのは、精神に科学が属しているように、判断には感情が属しているからである。

パスカル 「パンセ」


国王の権利は、民衆の理性と愚昧のうえに基盤を持っている。でも、どちらかといえば、後者においてである。

パスカル 「パンセ」


多くの宗教家が互いに相反しているのをみる。だから、ひとつを除いて、他はみな虚偽である。どの宗教も、それ自身の権威に基づいて信じられることを欲し、不信仰者をおびやかす。

パスカル 「パンセ」


心情は理性の知らないところの、それ自身の道理を持っている。

パスカル 「パンセ」


思考が人間の偉大さをなす。

パスカル 「パンセ」


悲しみは知識である。多く知る者は怖ろしき真実を深く嘆かざるをえない。知識の木は生命の木ではないから。

パスカル 「パンセ」


政治においては、世襲の権利によって統べる愚かな殿様ひとりのほうが、権勢を欲しがってなぐり合いをする無数の生半可な利口者よりも危険性が少ない。

パスカル 「プロヴァンシアル」


時は苦しみや争いを癒す。というのは、人が変わるからである。人はもはや同一人ではないのである。

パスカル 「パンセ」


死は、その危険なしにそれを考えるよりも、それを考えずに受けたほうが、より容易である。

パスカル 「パンセ」


真理が支配しているときに平和を乱すことがひとつの犯罪であると同様に、真理が破壊されようとしているときに平和にとどまることも、やはり、ひとつの犯罪ではないか?

パスカル 「パンセ」


知恵は知識にまさる。

パスカル 「パンセ」


神が存在するということは不可解であり、神が存在しないということも不可解である。

パスカル 「パンセ」


神を感じるのは心情であって、理性ではない。信仰とは、そのようなものである。

パスカル 「パンセ」


自然はそのすべての真理を、それぞれそれ自身のうちにおいた。われわれの技巧は、それらの一方を他方のうちに閉じこめようとする。だが、それは自然的ではない。

パスカル 「パンセ」


誤った法律を改正する法律くらい誤ったものはない。法律は正義であるがゆえに従うといって服従している者は、自分の想像する正義に服従しているのであって、法律の本質に服従しているのではない。

パスカル 「パンセ」

 
 

夕べの雲

2024年07月28日 10時11分10秒 | 社会・文化・政治・経済

庄野 潤三 (著), 阪田 寛夫 (解説)


創作 福子の愛と別離 10 )

2024年07月28日 03時48分24秒 | 創作欄

東京・九段にある私立女子高校に勤務していた峯田晃は、1 年目は1年生のクラスの担任教師となる。

そして、2年目には2年生のクラスの担当教師を務めたのである。

どの生徒よりも、長い髪をした野々村ゆかりは、文芸部の創設に思いが至り、47歳の国語教師であった高田順平に顧問を依頼するも「文芸部?やめおきなさい。私には興味ないですね」と断られる。

そこで、ゆかりは28歳の峯田晃に顧問を頼み込む。

「文芸部か、いいね」晃は笑顔で顧問を引き受けることとなる。

17歳のゆかりは、太宰治の大ファンであり、中学2年生の時から6月19日に開かれる桜桃忌に足を向けていたのである。

文芸は7人のメンバーで設立され、各々の愛読書や好みの詩。歌などについて語りあり、謄写版印刷の機関誌「青い空」が創刊される。

毎回、晃が巻頭言を寄稿し掲載した。

ゆかりの提案で「文学散歩」も行われる。

与謝野晶子ファンの日野綾香は、中学の同期生である寺崎勇気と恋愛関係にあり、その心情などを短歌に込めていた。

樋口一葉ファンの竹村令奈の提案で最初の「文学散歩」は、東京・本郷界隈であり、夏目漱石ファンの東美幸の要望で、東大の三四郎池や千駄木を回り、梅の花が咲く湯島天神へも向かった。

また、団子坂、森鷗外の自宅・観潮楼を見て、鷗外ファンの三谷楓の願いで無縁坂から不忍池へも行ったのである。

 

参考

太宰治は、昭和23(1948)年6月13日の深更、玉川上水に入水。19日に遺体が発見された。昭和24(1949)年6月の一周忌に太宰の墓が、外の墓の斜め前に建てられた。

昭和19(1944)年に発表された「花吹雪」に「この寺の裏には、森鷗鴎外の墓がある。(中略)ここの墓地は清廉で、鷗外の文章の片影がある。私の汚い骨も森鷗外、こんな小綺麗な墓地の片隅に埋められたら、死後の救いがあるかもしれない」という一文があり、その意が汲まれたもの。墓碑には、太宰自筆の文字が拡大して刻まれてる。なお、平成10年、隣に美知子夫人が葬られた津島家の墓が建立された。死の直前に発表された「桜桃」に因み、毎年6月19日に太宰を偲ぶ桜桃忌が催される。

 

明治の文豪である森鷗外と夏目漱石が、奇しくも相次いで借家した和風住宅。

明治20年(1887)頃、医学士中島襄吉の新居として建てられたものの、空家のままだったこの家は、明治23年(1890)に森鷗外が借家し1年余りを過ごしました。鷗外は、ここに移り住む同年の1月、処女作小説『舞姫』を発表。この家では『文づかひ』等の小説を執筆し、文壇に入っていきました。
明治36年(1903)から同39年までは夏目漱石が住み、漱石はここで『吾輩は猫である』を発表。文壇にその名を高めました。文中に描写された家の様子は、よくこの家の姿を写しています。
玄関脇の張り出した和室(応接兼書斎)、台所から座敷への中廊下には、住宅の近代化の萌芽が見られます。

 
 
文京区立森鴎外記念館

 森鴎外が自宅(観潮楼)で開催した歌会「観潮楼歌会」には、与謝野鉄幹、伊藤左千夫、佐佐木信綱、石川啄木、斎藤茂吉など現代も親しまれるスター歌人たちが出席していました。

7月9日は鴎外の命日、鴎外忌です。
7月の一ヶ月限定で鴎外の「遺言書」原資料を展示します。

鴎外は1916(大正5)年に陸軍省を去り、翌年から帝室博物館総長兼図書頭に就任、在任のまま没します。
没する3日前の7月6日に、学生時代からの親友で医学者の賀古鶴所を自宅・観潮楼に呼び、遺言を口述筆記させました。
 
鴎外終焉の地でもある当館では、毎年7月の1ヶ月間、鴎外の遺言書の原資料を展示しています(通常は複製資料を展示)。