同じでもなく 違うでもなく (生活人新書)
「孤」でなく
「個」として生きられる居場所とは
“つながらないさみしさ”“つながりすぎる苦しみ”――自閉症と脳性マヒというそれぞれの障害によって外界との「つながり」に困難を抱えて生きてきた二人の障害当事者が、人と人とが「互いの違いを認めた上でなお、つながりうるか」という、現代社会の最も根源的課題に挑む画期的な書。
「個」として生きられる居場所とは
“つながらないさみしさ”“つながりすぎる苦しみ”――自閉症と脳性マヒというそれぞれの障害によって外界との「つながり」に困難を抱えて生きてきた二人の障害当事者が、人と人とが「互いの違いを認めた上でなお、つながりうるか」という、現代社会の最も根源的課題に挑む画期的な書。
著者について
■ 綾屋紗月(あやや・さつき)
1974年生まれ。
2006年アスペルガー症候群の診断名をもらう。
東京大学先端科学技術研究センター研究者支援員、東京大学グローバルCOE「共生のための国際哲学教育研究センター」共同研究員。
■ 熊谷晋一郎(くまがや・しんいちろう)
1977年生まれ。
脳性まひの電動車いすユーザー。
小児科医、東京大学先端科学技術研究センター特任講師。
1974年生まれ。
2006年アスペルガー症候群の診断名をもらう。
東京大学先端科学技術研究センター研究者支援員、東京大学グローバルCOE「共生のための国際哲学教育研究センター」共同研究員。
■ 熊谷晋一郎(くまがや・しんいちろう)
1977年生まれ。
脳性まひの電動車いすユーザー。
小児科医、東京大学先端科学技術研究センター特任講師。
東京大学グローバルCOE「共生のための国際哲学教育研究センター」共同研究員。
これまで、多くの専門家が障害に関する研究を行ってきた。
だが、専門家は障害の当事者ではない。
だから、どうしても見逃してしまう部分が出てくるものだ。
そう熊谷さは指摘している。
専門家の研究では、コミュニケーションが苦手で、こだわりが強いのが同症候群の特徴とされる。
当事者研究ではさらに、その人の、ものの見え方や音の聞こえ方に焦点を当てる。
質疑応答を重ね、本人の感覚を掘り下げていく。
すると、言動の背景にあるものが具体的に見えてくるそうだ。
研究を通して綾屋さは感じた。
諦めることなく人に伝えよういと思った時、初めて共通の理解へ導く言葉が生まれてくるのだと。
明らかにして、認めるというのが「諦める」の意味だそうで。
同じところ・違うところを明らかにして、ただ「そうなんだ」と思う。認める。
なんとなく、でも受け入れ難いと思えば、そんな自分の思いもまた、他者に明らかにし、他者から明かされた思いも「そうなんだ」と認めることができるようになるには、やはり工夫と練習ですね。
なんとなく、でも受け入れ難いと思えば、そんな自分の思いもまた、他者に明らかにし、他者から明かされた思いも「そうなんだ」と認めることができるようになるには、やはり工夫と練習ですね。
この著者の書いたものは、発達障害当事者がどんなことを
思っているかを知るには良いと思います。
ただ、健常者にしても、障害者にしてもお互い歩み寄った
生活や理解が1番必要なのだと思います。
この著者は、結局自分を理解してくれる障害者の
パートナーと出会えたから、こういう本を出すまで
社会復帰できたと思いますが、こういう幸運な方は
現在の日本社会では希だと思います。
当事者の書いた本は、どうしても一方的に被害者である
表現が多く、他の発達障害者の語弊を招きかねない部分
も有るのではと思います。
発達障害の人は、絶対的に理解してくれるパートナーが
いないと生活に支障が出てきます。
逆に、理解してくれないパートナーと生活を続けていると
2次障害になることは必至でしょうが、健常者が歩み寄る
だけでなく、発達障害当事者も、自分の苦手な部分を
理解して、SSTに努める等、健常者に歩み寄ることも必要
ではないかと考えます。
自分が発達障害かも知れないと言う人は、これから沢山出て来る
でしょうが、発達障害だから自分は仕方ないんだ。理解してくれない
周りの人が悪いんだという歪んだ理解が進むことを危惧してしまう
1冊です。参考としては○です。
ただ、健常者にしても、障害者にしてもお互い歩み寄った
生活や理解が1番必要なのだと思います。
この著者は、結局自分を理解してくれる障害者の
パートナーと出会えたから、こういう本を出すまで
社会復帰できたと思いますが、こういう幸運な方は
現在の日本社会では希だと思います。
当事者の書いた本は、どうしても一方的に被害者である
表現が多く、他の発達障害者の語弊を招きかねない部分
も有るのではと思います。
発達障害の人は、絶対的に理解してくれるパートナーが
いないと生活に支障が出てきます。
逆に、理解してくれないパートナーと生活を続けていると
2次障害になることは必至でしょうが、健常者が歩み寄る
だけでなく、発達障害当事者も、自分の苦手な部分を
理解して、SSTに努める等、健常者に歩み寄ることも必要
ではないかと考えます。
自分が発達障害かも知れないと言う人は、これから沢山出て来る
でしょうが、発達障害だから自分は仕方ないんだ。理解してくれない
周りの人が悪いんだという歪んだ理解が進むことを危惧してしまう
1冊です。参考としては○です。
発達障害の感じ方を率直に発言していただくことで、我々がすいすいモードに慣れ、それが当たり前と信じていることの可笑しさに気づかせてもらった。身体障害者の生きづらさに対しては、段差があれが移動しにくいという理解は、それなりに可能だ。
目に見えないところを当事者の立場からその感覚や議論を発信していただくのは、共通した理解を得る一歩になった。診察の場面で、家に引きこもってしまい、外に出られない人へ一読してもらうため、何冊か追加購入した。
目に見えないところを当事者の立場からその感覚や議論を発信していただくのは、共通した理解を得る一歩になった。診察の場面で、家に引きこもってしまい、外に出られない人へ一読してもらうため、何冊か追加購入した。
まだ読んでいる最中だけど、大変興味深い。
障害者の苦労話し、感動の涙を期待すると見事に裏切られる。面白くて止まらないのは自分にも同じような弱さがあり、自覚し、苦しんでいるからかもしれない。しかしこの本は、面白いだけでなく、きちんと学術的だ。研究に値する実践の場があることを教えてくれた。いつかそこを見て、味わってみたい。
個人的視点から集団、社会的視点まで、綾屋さんと、熊谷さんの両極の世界との繋がり方パターンから中道を見出す。
何度も何度も訪れる悩みはこれからも続くのだけど、それでも生きていこうとする力をもらえる。
何度も何度も訪れる悩みはこれからも続くのだけど、それでも生きていこうとする力をもらえる。
タイトルからは分かりにくいですが、一般的なコミュニケーション論ではありません。
また、マイノリティ対マジョリティのコミュニケーション論でもありません。
「当事者研究」という、あくまで当事者同士で、当事者の問題を解決しようという学問の手法の解説です。
当事者同士の、あるいはある程度の知識と好意を持った人との「つながり」、当事者団体内での「つながりの難しさ」についての話です。
当事者団体には所属できなかった障害者である自分には、とても贅沢な悩みを論じていて、読後うなだれるだけでした。
世の中には障害者を「何となく気持ち悪い」「絶対職場では雇いたくない」「トロいから虐めたい」と感じる、全く異なったカテゴリーの人だっています。
そんな人たちを含めた社会とどうやって「後ろ向きにせよつながり続けるか」がすっぽり抜けていると思います。
そして全く異なった人たちとの「つながり」に悩むのは、障害者だけではないとも思うのです。
あくまで学問であって、困っている人を助けるハウツー本ではありません。
「当事者研究」という、あくまで当事者同士で、当事者の問題を解決しようという学問の手法の解説です。
当事者同士の、あるいはある程度の知識と好意を持った人との「つながり」、当事者団体内での「つながりの難しさ」についての話です。
当事者団体には所属できなかった障害者である自分には、とても贅沢な悩みを論じていて、読後うなだれるだけでした。
世の中には障害者を「何となく気持ち悪い」「絶対職場では雇いたくない」「トロいから虐めたい」と感じる、全く異なったカテゴリーの人だっています。
そんな人たちを含めた社会とどうやって「後ろ向きにせよつながり続けるか」がすっぽり抜けていると思います。
そして全く異なった人たちとの「つながり」に悩むのは、障害者だけではないとも思うのです。
あくまで学問であって、困っている人を助けるハウツー本ではありません。