詩人 坂本 遼生誕120年記念

2025年02月07日 22時27分40秒 | 社会・文化・政治・経済

企画展「生誕120年記念 詩人 坂本遼展」

自分の心に、切実なものは母でした

斎藤庸一・昭和38年聞き書き(『詩に架ける橋』昭和47年 五月書房)より

貧しい農民たちの哀歓を土地の言葉で朴訥にうたい、現代詩史に方言詩の新たな地平を開いた兵庫県加東市生まれの詩人坂本遼。

丹波との国境に位置する播磨の山あいで自作農の家に生まれた感傷的な少年は、つつましい暮らしのなか母の深い愛情を受けて育ちました。留守がちな教師の父に代わり、峠田で一心に鍬を振る母(おかん)に象徴されるふるさとが、のちの詩のテーマとなります。

関西学院在学中、詩人草野心平にいち早く見出され、その詩誌「銅鑼(どら)」に参加。平仮名を書くのがやっとの母が寄越す手紙への返信を綴るかのように詩作に励み、大学を卒業した年に最初で最後となる詩集『たんぽぽ』(昭和2年 銅鑼社)を上梓して一躍注目を集めますが、母の死や生活の糧を模索する日々のなかでいつしか文学から遠ざかってゆきました。

長らく封印していた坂本の詩心を再びよみがえらせたのは、戦後、井上靖と竹中郁によって創刊された児童詩誌「きりん」での作文指導でした。生活の中から懸命に発せられる言葉にこそ「うつくしい心」を見出そうとするその姿勢は、かつて詩作で弱く貧しい者たちの無心の営みに人間の尊さを見たことと通ずるものがあります。

生誕120年という節目を迎え、このたび坂本家ご遺族および加東市教育委員会のご好意により膨大な未公開資料の調査を行うことができました。本展では、自身についてほとんど語ることのなかったこの寡黙な詩人の足跡をたどるとともに、そのまなざしがとらえ続けた〈詩〉の在処(ありか)を探ります。どうぞご期待ください。

 

展覧会チラシ

企画展「生誕120年記念 詩人 坂本遼展」チラシ(ダウンロード用PDF)

 

坂本遼(さかもと りょう)

明治37年から昭和45年(1904年から1970年)

詩人。兵庫県加東郡上東条村横谷(現・加東市)に生まれる。

上東条尋常高等小学校(現・加東市立東条学園小中学校に併合された東条東小学校の前身)、兵庫県立小野中学校(現・小野高等学校)を経て、大正12年、関西学院(現・関西学院大学)文学部英文学科に入学。大正14年、「日本詩人」第二新詩人号への入選を機に草野心平の「銅鑼」に参加。同級生の竹中郁が主宰する「羅針」などにも作品を寄せた。

関西学院を卒業した昭和2年9月に詩集『たんぽぽ』と小説集『百姓の話』を刊行。同年、姫路野砲兵第十聯隊に志願兵として入隊。昭和4年3月の除隊後、紆余曲折ののち、昭和6年に朝日新聞大阪本社に入社。従軍記者や応召を経て、戦後は学芸部次長、論説委員などの要職を務めながら児童詩誌「きりん」の活動に力を注いだ。

著書はほかに『こどもの綴方・詩』(昭和28年 創元社)、児童小説『きょうも生きて』(昭和34年 東都書房/厚生大臣賞・産経児童出版文化賞受賞)、『虹・まっ白いハト』(昭和40年 理論社)。

 

展覧会概要

会期 2024年12月7日(土曜日)から2025年3月30日(日曜日)まで

休館日 毎週月曜日、12月25日(木曜日)から1月5日(日曜日)、1月14日(火曜日)、2月12日(水曜日)、2月25日(火曜日)、3月21日(金曜日)

  • ただし、1月13日(月曜日)、2月24日(月曜日)は開館。

開館時間 午前10時から午後5時(入館は4時30分まで)

会場 姫路文学館 北館

観覧料 一般450円、大学・高校生300円、中学・小学生150円(常設展料金)

  • 身体障害者手帳・療育手帳・精神障害者保健福祉手帳の交付を受けた方(手帳またはミライロIDの手帳画面を提示してください)及び介護者1人、姫路市内在住の65歳以上の方、どんぐりカード・ココロンカード提示の小中学生は無料。
  • 20名以上の団体は2割引

協力 加東市教育委員会

主催 姫路文学館

 

坂本 遼(さかもと りょう、1904年明治37年)9月1日[1] - 1970年昭和45年)5月27日[1])は、日本の詩人兵庫県加東郡東条村(現・加東市横谷)出身。

経歴

1904年、兵庫県加東郡東条村に生まれる[1]父は教職で兵庫各校の校長として辺地教育に力を注ぎ、そのため家庭を顧みるいとまがなく、母が農作業に従事して一家を切り盛りした[要出典]

1923年関西学院大学英文科に入学[1]。同級生に竹中郁がいた。1925年草野心平らの『銅鑼』同人となる[1]竹中郁らの『羅針』にも参加。1926年神戸の下宿に草野が来訪し、母校の小学校の謄写板を借り、草野が筆耕、坂本が印刷を担当して二人で『銅鑼』7号を制作した[要出典]

1927年姫路野砲連隊に志願兵として入隊[1]。同年9月に第一詩集『たんぽぽ』と小説集『百姓の話』を刊行する[1]

1931年朝日新聞に入社、京都支局に勤務する[1]。1937年、従軍記者として中国に従軍するも、三男の死亡により帰国[1]。大阪本社社会部員となる[1]。1941年応召[1]、1945年、応召解除となり[1]、朝日新聞社会部次長に就任[1]

1948年、大阪編集部学芸部次長[1]。翌年より児童詩誌『きりん』の編集に竹中郁らと参加する[1]。1950年、朝日新聞論説委員[1]。1959年、定年退社[1]

1960年『きょうも生きて』を出版し、厚生大臣賞・産経児童出版文化賞受賞。関西学院大学、甲南大学、山手女子短大講師を務める[1]

1970年(昭和45年)5月27日、65歳で死去。告別式は同月29日、西宮市の自宅にて行われた

主な著書

  • 詩集『たんぽぽ』銅鑼社、1927年
  • 小説集『百姓の話』銅鑼社、1927年
  • 著作『こどもの綴方(つづりかた)・詩』大阪創元社、1953年
  • 童話『きょうも生きて』東都書房、1959年
  • 童話集『虹、真っ白いハト』理論社、1965年

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