発達障害を煩っている子供がいるという話しをよく聞く。
私はこの障害にはまったく詳しくないので無用なコメントは避けるが、世の中にコミュニケーションが不得手な人が増えていることだけは確かだろう。
それに別に子供だけの話しではないだろう。いい大人がなんで?というようなことに何度も出くわしたりニュースで聞いたりもする。
アインシュタインも一種の発達障害だったとか、岡本太郎もそうだったとかいった話しも読んだりするが、そういう話しを聞いても「だから何?」という感じがしてしょうがない。
世の中の偉人や名をなした人たちはある意味みんなオカシイとでも言いたいのだろうか?
発達障害だったからいろんな偉大なことを成し遂げられたとでも言いたいのだろうか?
あまり、そんなことは事の本質とは無関係のような気がする。
私が単純に思うのは、今の世の中に急にそういった類いの障害がクローズアップされてきたのは、世の中にコミュニティがなくなったことと関係があるのじゃないのかナ?ということだ。
つまり、「近所」というコミュニティが世の中のあらゆるところから消えていっているような気がする。「近所」と「地域社会」はちょっと違う気がする。もっと手近な、いわゆる「近所づきあい」というコミュニティがなくなってきているのだ。
都会にはそういうものはもともと少ないのだけど、今では田舎でもそんなものないのではないだろうか?
向こうの家の誰々さんの家で子犬が生まれたんだって。
裏の何何さんの息子さんが今度大学に入ったそうだ。
みたいな話題で盛り上がる近所づきあいが昔は至るところであったのだが、今はそんなことには関心はあってもみんな「見て見ぬふりをする」。
もう近所自体がコミュニケーションを放棄しているのだから、家庭の中でも、友だち同士でもそういったコミュニケーションなど最初から存在しないのだろう。だから、みんなパソコンやゲームに一人向かい合うだけ。それがコミュニティの「代わり」をしている。
ヴァーチャルがどうのこうのではなく、近所には商店街もないのだから、コミュニティなど「一体どこにあるの?」という感じなのだろう。
私は、どちらかというと、コミュニティ大好き、コミュニケーション大好きで、人と話しをするのが仕事をするより大好きなので、近所の商店街のオヤジさんやオバさんたちとみんな仲良しだ。
買い物に行って立ち話をすることもしばしば。別にヒマなわけはないのだが、そうやって時間を過ごすことがけっこう楽しい。
私はどんな人ともどんな時間も楽しく過ごすことが当たり前だと思っているので、ストレスなどあまり感じたことがない。
イヤなことは山ほどあるし、問題も山ほどあるけど、世の中に解決できない問題などないし(私は本気でそう思っている)、イヤなことでも楽しめるんだったら楽しんだ方が楽じゃない!と思っているのでストレスということばの意味すら知らない(「私の辞書」にストレスという単語はないのかもしれない)。
なので、人とのコミュニケーションで悩むなどということもあまりない(イヤなやつはたくさんいるけれどネ)。
来週の月曜にお台場のホテルでフルムスの仕事があるのだけれども、この仕事の途中でクライアントからとんでもないことを注文されあやうくキレそうになった。5人編成で頼まれた楽器編成のうち二人を途中で代えてくれと言われたのだ。しかも、本番の10日前になって。
途中までやっていたアレンジを全部やり直す上にメンバーも急に探しなおさなくてはならなくなった(最初にメンバーに決まっていた二人にはゴメンナサイをしなければならないのは私の仕事だ。クライアントが代わりにあやまってくれるわけじゃない)。
この話しを聞いて最初「マジかよ」と頭の中では思ったものの「やるっきゃない」と思い直しひたすらアレンジに取り組んだ結果、何とか間に合ったけれども内心はけっこう楽しんでいた。
アレンジが変わったおかげで、また違った音楽を作る楽しみみたいなものを味わうことができたからだ。「ホントか?」言われそうだが、実際やってて楽しかったことは事実だ。
これが打ち込みだけのアレンジ変更なら作業的にははるかに楽なのだろうけど、生楽器のアレンジは楽器の特性から音域、奏法までまったく違うので、実際の奏者の演奏を想像しながらアレンジをするのでこれが大変だからこそけっこう楽しい作業なのだ。
「こう音を書いたら彼女はちゃんと弾いてくれるかナ」とか、「こう書くときっと難しいとか言われそうだからもうちょっと易しい音にするか」とか考えながらの作業が楽しいのだ(単純に頭の中で遊んでいるのかナ?)。
実際の奏者を頭の中で想像しながら、頭の中で奏者に問いかけていけるからだ。
「ねえ、これって演奏できる?」という風に一音一音奏者に尋ねるイメージがきっと私にはコミュニケーションになってるのではないだろうか?
私はこの障害にはまったく詳しくないので無用なコメントは避けるが、世の中にコミュニケーションが不得手な人が増えていることだけは確かだろう。
それに別に子供だけの話しではないだろう。いい大人がなんで?というようなことに何度も出くわしたりニュースで聞いたりもする。
アインシュタインも一種の発達障害だったとか、岡本太郎もそうだったとかいった話しも読んだりするが、そういう話しを聞いても「だから何?」という感じがしてしょうがない。
世の中の偉人や名をなした人たちはある意味みんなオカシイとでも言いたいのだろうか?
発達障害だったからいろんな偉大なことを成し遂げられたとでも言いたいのだろうか?
あまり、そんなことは事の本質とは無関係のような気がする。
私が単純に思うのは、今の世の中に急にそういった類いの障害がクローズアップされてきたのは、世の中にコミュニティがなくなったことと関係があるのじゃないのかナ?ということだ。
つまり、「近所」というコミュニティが世の中のあらゆるところから消えていっているような気がする。「近所」と「地域社会」はちょっと違う気がする。もっと手近な、いわゆる「近所づきあい」というコミュニティがなくなってきているのだ。
都会にはそういうものはもともと少ないのだけど、今では田舎でもそんなものないのではないだろうか?
向こうの家の誰々さんの家で子犬が生まれたんだって。
裏の何何さんの息子さんが今度大学に入ったそうだ。
みたいな話題で盛り上がる近所づきあいが昔は至るところであったのだが、今はそんなことには関心はあってもみんな「見て見ぬふりをする」。
もう近所自体がコミュニケーションを放棄しているのだから、家庭の中でも、友だち同士でもそういったコミュニケーションなど最初から存在しないのだろう。だから、みんなパソコンやゲームに一人向かい合うだけ。それがコミュニティの「代わり」をしている。
ヴァーチャルがどうのこうのではなく、近所には商店街もないのだから、コミュニティなど「一体どこにあるの?」という感じなのだろう。
私は、どちらかというと、コミュニティ大好き、コミュニケーション大好きで、人と話しをするのが仕事をするより大好きなので、近所の商店街のオヤジさんやオバさんたちとみんな仲良しだ。
買い物に行って立ち話をすることもしばしば。別にヒマなわけはないのだが、そうやって時間を過ごすことがけっこう楽しい。
私はどんな人ともどんな時間も楽しく過ごすことが当たり前だと思っているので、ストレスなどあまり感じたことがない。
イヤなことは山ほどあるし、問題も山ほどあるけど、世の中に解決できない問題などないし(私は本気でそう思っている)、イヤなことでも楽しめるんだったら楽しんだ方が楽じゃない!と思っているのでストレスということばの意味すら知らない(「私の辞書」にストレスという単語はないのかもしれない)。
なので、人とのコミュニケーションで悩むなどということもあまりない(イヤなやつはたくさんいるけれどネ)。
来週の月曜にお台場のホテルでフルムスの仕事があるのだけれども、この仕事の途中でクライアントからとんでもないことを注文されあやうくキレそうになった。5人編成で頼まれた楽器編成のうち二人を途中で代えてくれと言われたのだ。しかも、本番の10日前になって。
途中までやっていたアレンジを全部やり直す上にメンバーも急に探しなおさなくてはならなくなった(最初にメンバーに決まっていた二人にはゴメンナサイをしなければならないのは私の仕事だ。クライアントが代わりにあやまってくれるわけじゃない)。
この話しを聞いて最初「マジかよ」と頭の中では思ったものの「やるっきゃない」と思い直しひたすらアレンジに取り組んだ結果、何とか間に合ったけれども内心はけっこう楽しんでいた。
アレンジが変わったおかげで、また違った音楽を作る楽しみみたいなものを味わうことができたからだ。「ホントか?」言われそうだが、実際やってて楽しかったことは事実だ。
これが打ち込みだけのアレンジ変更なら作業的にははるかに楽なのだろうけど、生楽器のアレンジは楽器の特性から音域、奏法までまったく違うので、実際の奏者の演奏を想像しながらアレンジをするのでこれが大変だからこそけっこう楽しい作業なのだ。
「こう音を書いたら彼女はちゃんと弾いてくれるかナ」とか、「こう書くときっと難しいとか言われそうだからもうちょっと易しい音にするか」とか考えながらの作業が楽しいのだ(単純に頭の中で遊んでいるのかナ?)。
実際の奏者を頭の中で想像しながら、頭の中で奏者に問いかけていけるからだ。
「ねえ、これって演奏できる?」という風に一音一音奏者に尋ねるイメージがきっと私にはコミュニケーションになってるのではないだろうか?