みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

介助箸

2012-01-19 10:22:21 | Weblog
という便利グッズがいつの間にか恵子のベッドの端に置かれていた。
「 OT(作業療法士)さんが使うといいよと言って食事前に持ってきてくれるようになった」という。
軽い2本の箸と箸の間がこれまた超軽いバネで結ばれているグッズなのだが、確かにモノは簡単につかめるし簡単に挟むことができる代物だ。
「これいつも使ってるの?」
「2回ぐらい使っただけ」
そうだろう、病院に来るのをそんなに日を開けたわけではないからこの目新しいグッズが登場したのはきっと昨日かせいぜい一昨日ぐらいのはずだ。
「それで、これ使ってどんな感じ?」
「うん。すごく掴みやすいし、これだけでゴハン全部食べられる」
「じゃあ、もうこれ使うのやめよう」。

恵子は、この介助箸を使う前にも右手で普通の箸を持つように試みていた。
もちろん、重さの点でも使い勝手の点でも箸を器用に使うというのはそんなに簡単な作業ではない。
でも、それをあえて使おうとする作業自体がリハビリだし脳のそういう部分と機能とを結びつけるための大切な作業だと思っている。
いったん高いレベルの作業に挑戦し始めていた彼女がこのグッズを使うことはそれを逆戻りさせることになる。
私はそう思って、これを使うことに反対した。
「でも、これをずっと使うわけではないし、過渡的に使うだけだからとOTさんも言っていたし…」。
いや、だからこそ私は反対しているんだ。
この箸は車椅子と同じで、ある機能が失われてしまった人にはとても便利で助かるグッズだけれども、その便利さに頼ると人の脳は絶対にそこに甘えてしまうと思う。
その失われた機能を回復させようという意識が脳から後退してしまうと思ったからだ(まあ、そんな大げさなものでもないかもしれないが)。

リハビリというのは、ある意味、人間の重力との戦いではないかと私は思っている。
人間は、四足歩行ではなく二足歩行で生活しようという選択をした時点から「抗重力」の歴史を辿ってきた(それが人の進化の旅なのだが)。
人間というのは二足歩行ではなければ起こらない「腰痛」を宿命にしている動物だし、一日の終わりには「横になって」身体を休めないことには明日への生活につながらない(重力に逆らうのはとても疲れることだ)。
こんな身体を持った生物になったわけだから、手を使う、足を使うこと自体が全て重力に逆らって生きて行くということに他ならない。
恵子は足を前に出すこと、上にあげることもまだ上手ではない。
それは、とりもなおさず、重力に対する逆らい方がまだ上手ではないということ(重力に対する逆らい方が下手だと人は「転ぶ」)。
この「抗重力」のワザを磨くことがすなわちリハビリということになるのだと私は思っている。
人は自分の手をフリーにすることによって「器用な手」を手に入れて文明を発展させてきたが、それはとりもなおさず重力からフリーになろうとする「あがき」でもある。
人が生物として本当に自然に生きていこうと思ったら二足歩行はあまりにも負担が大きい作業なのだ。
だからこそ、いろいろな意味で人の生活には負荷がかかり、年を取るとその負荷が病気を引き起こし、「抗重力」機能が衰えてしまうということになる。
箸を使ってモノを食べるという行為は、東洋人以外にはあまり見られないのかもしれないが、それが私たち日本人としての美学であるならば(私はそう思っているのだが)、けっして簡単にスプーンで食べたりはしたくないし、それまでそうだったように「きれいに箸を使って食べる」という日常を取り戻す工夫と努力をこのリハビリの間にしていきたいと思うのはけっしておかしいことではないと思うのだが…。

「介助箸、ちょっと濡らしておこうよ。せっかくOTさんが持ってきてくれるんだから。ちょこっとだけ箸の先を食べ物につけておこうか」。
そう言って私は、その箸でおかずの一つをつまんだ(その簡単なこと!ほとんど力をいれずにモノを掴むことができる)。
確かに、これで助かる人は大勢いるんだろうな。
でも、今の彼女にこれはいらない。
彼女もそう納得してくれた。