みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

野坂昭如さんとの思い出

2015-12-10 17:09:18 | Weblog

作家の野坂昭如さんが85歳で亡くなられたという。

以前から脳梗塞で臥せられていたということは知っていた。

今日その訃報がメディアから流されて「そうか…あの方もとうとう亡くなられたのか」という感慨と共に私にとっては「悪夢(それほど大げさでもないが)」とも言えるような思い出が蘇ってきた。

多くの人にとって野坂さんは『火垂るの墓』の作者、童謡の『オモチャのチャチャチャ』の作詞家として記憶に残っているのだろうが(そうだ、あと国会議員になった時もあったナ)、私にとっては、私の学生時代に彼が歌う『黒の舟歌』をピアノで伴奏した時の悪夢にも近い思いでが蘇ってくる。

それが学生時代だったことはハッキリ覚えているが「いったいアレって幾つの時だっけ?」というぐらい自分のその時の年齢が思い出せない。

おそらく二十歳前後だったはずなのだが、きっと長い間自分の過去から消し去りたかった記憶の一つだったのだろう。

今日、急にその記憶が蘇ってきた。

私の所属しているサークルが野坂氏の講演会を企画した。

そして、私もその企画の中心人物の一人として動いていた。

学生運動真っ盛りの頃で、野坂氏はその当時多くの学生に支持されていた作家の一人だった。

だから、講演会は超満員だった(はずだ)。

大学の教室を会場に使ったのだけれども、何人ぐらい収容の教室だったかもよく覚えていない。

「ウィスキーの瓶を演台の上に置いておくように」。

これが彼から出された絶対条件だった(そそぐグラスは置いたっけかナ...?記憶にないナ)。

そう、彼はいつも酔っぱらっている人なのだ。

なので、飲まないで人前でしゃべるなんて行為はけっしてしたくなかったのだろう。

私たちは、彼の講演以外にも「歌ってください」と注文をつけた。

ちょうど『黒の舟歌』というヒット曲が彼にはあったからだ。

そのために、私たちは教室にわざわざアップライトピアノを運びこんだ。

今だったらカラオケセット一つ用意すれば十分間に合うのだが、この当時カラオケなんてものは存在しない。

こちらにはその曲のためにバンドを雇うお金なんかありゃしない。

仕方なく、みんなから「お前ピアノ弾けるんだろ。伴奏しろ!」。

「え、そんなムチャブリしないでよ。私はピアノ専門じゃないんだよ、そんな上手くないよ…」と言い訳しつつもみんなの剣幕におされそのまま私が恐れ多くも野坂先生の歌の伴奏をするハメになった。

(多分)当日マネージャー氏が持ってきた楽譜をその場で渡され私はそれほど上手くもないピアノに向った(もうこの時点で頭真っ白だったと思うが開き直るのは案外早い)。

汗をかいたというようなレベルではなかった。

聴衆の中には私なんかよりピアノが上手な人なんかいくらでもいるだろうにと思いつつも、私は主催者の一人なのだから「これも義務の一つ」と観念してピアノに向った。

きっとかなりのミスタッチを繰り返していたのだろう、

たまらず野坂氏自身から(歌いながらの)「ガンバレ!ピアノ!」コールが(アッちゃ~あ)。

それを聞いてお客さんがウケることウケること(そりゃ、そうダよネ)。

こっちは、顔から火をふきそうになりながらの必死のピアノ演奏なのだが、とりあえず観客には大受けだから「まあ、いいか」みたいには結局なったが、今思い出しても冷や汗タラタラの野坂氏との思い出だ。

野坂先生、あの時のピアノ、すみませんでした。

安らかにお眠りください。

合掌。